エントランスへはここをクリック       総合メニュー へ

日本と中国の歴史をひも解くシリーズ


「南京安全区」

全37避難シェルター概要(4)


出典:反戦史レポート  2020年12月14日

1937年南京大屠杀安全区及安全区内暴行史

 来源: 抗战史记 2020-12-14


中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月3日
 
(1)  (2)  (3)  (4)  (5)

19. 金陵女子大学難民シェルター

 1938年1月5日にミルズ、フォスターらが視察に行った時、避難所には約5,000~6,000人の難民がいて、ほとんどが女性と子供で、ごく少数の老人がいるだけだと聞かされていた。 1日平均12袋の米が、中国赤十字社を中心とした共同炊事場で炊かれていた。

 中国赤十字社は350人の難民に米を無料で提供したが、他の難民は1杯3銅貨で食料を購入しなければならず、さらに1,000人の難民は親戚から送られた食料に頼っていた。 検査官は、「シェルターのリーダーシップは優れている」と評価した。

20. ウータイシャン小学校 難民シェルター

 ミルズ、フォスターらが1938年1月5日にこのシェルターを訪れた際には、1,640人の難民がいること、国際委員会からの米は受け取っていないこと、難民は紅卍字会からお粥の配給を受けていることを知らされた。 検査官は、「シェルターはよく指導されている」と評価した。

21. 南京語学校難民シェルター

 1937年12月17日には200人の難民がいた。

22. 法務省 難民シェルター

 南京安全区の広州路の北、中山路の西に位置し、南京安全区国際委員会が管理していた。 その日、日本軍は400~500人の難民を縛り上げ、引きずり出して銃殺した。 残った難民は12月17日に追い出され、シェルターは空っぽになった。 このシェルターは、国際委員会から「失敗した難民キャンプ」と呼ばれていた。

23. 最高裁の難民シェルター

 南京安全区の山西路広場の南端と中山北路の西側に位置し、南京安全区国際委員会が管理していた。 避難所は「軍(日本軍)によってほとんど空にされ、残った人たちは12月17日に追い出された」ため、空き家になっていた。 法務省の難民シェルターとともに、国際安全地帯委員会から「失敗した難民キャンプ」と評された。

24. 鼓楼西区難民保護センター

 監督の李瑞亭は、ゾーンの鼓楼広場の西側にあり、ゾーンの国際委員会が運営していた。 1938年1月13日から20日にかけて、6人の日本兵が7人の女性を強姦した。

25. 威清里(音) 難民シェルター

 住所は不明、難民が自主的に組織したもので、安全地帯の国際委員会の援助と後見のもと、数百人の難民と一緒に大きな建物として建てられた。

26. シュアンタン難民シェルター

 別名、アメリカ長老派伝道所難民避難所、教会、長老派伝道所学校難民避難所、チャン・ロク・ラムが所長を務め、南京の南西隅に位置し、アメリカ長老派伝道所の学校、教会、いくつかの付属建物からなり、安全地帯の国際委員会の援助と保護を受けていた。

 1938年1月4日にミルズらが訪れた時には、避難所には1,000人の難民がいて、その多くが一晩だけ泊まりに来ているという情報を得た。 難民の3分の2は自給自足で、残りは無一文で貧しかった。 避難所は日本兵に略奪されることが多く、女性は強姦されることも多かった。

27. 鼓楼四条レーン(Gulou Sijiao Lane)難民シェルター

 1937年12月16日、日本兵はこの避難所にいた張芸謀をはじめとする50人の難民を射殺した。


(5)へつづく

総合メニューへ