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世阿弥と日蓮の足跡をたどる佐渡の旅

佐渡奉行所A歴史・役割

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2018年9月18日公開
独立系メディア Media E-wave Tokyo  
無断転載禁
佐渡現地視察総合目次 
 

 @概要  A歴史と役割 B施設と間取  C主施設内部
 D白洲 E奉行所古絵図 F出土品


◆佐渡奉行の歴史と役割 

 佐渡奉行は老中配下の遠国奉行の一つで、関ヶ原の戦いを経て佐渡が上杉氏から幕府の支配下となった慶長6年(1601年)に設置された。

 当初は佐渡代官と呼ばれており、正式に佐渡奉行と名乗ったのは、元和4年(1618年)着任の鎮目惟明、竹村嘉理の代からである。寛永12年(1635年) - 明暦2年(1656年)までの一時期は勘定奉行が兼任。正徳2年(1712年)以降は、定員が基本的に2名となる。

 ※勘定奉行  は、江戸幕府の職名の一つ。勘定方の最高責任者で財政や幕府直轄領の支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。元禄年間までは勘定頭とも称した。評定所においては、関八州内江戸府外の訴訟について担当した。定員は約4人で役高は3000石。老中の下にあり、郡代・代官・蔵奉行などを支配した。1698年以降は、うち1人が大目付とともに道中奉行を兼務した。1721年には財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれた。勝手方と公事方の職務は全く別のものであり、事実上名称のみが共通している状態であった。

 芙蓉の間席で1000石高、役料は1500俵、役扶持100人扶持。慶応3年(1867年)には禄高にかかわらず3000両の役金が支給された。

 佐渡奉行は佐渡島内の民政を管轄する町奉行と、長安期に開発された佐渡金山をはじめとする金銀山の経営を管轄する山奉行があった。他にも佐渡の海上警衛、年貢の取立を役務とし、幕末には外国船の監視も行っている。

 配下には組頭2人、広間役7・8人。以下、定役、並役、使役、同心(70人)、牢守、水主、与力(30騎)など300人いた。

 陣屋は当初は鳴子に設置されていたが、大久保長安のころに相川(現在の新潟県佐渡市相川広間町)に移転され、佐渡奉行所(相川陣屋、国の史跡「佐渡金山遺跡」の一部)となる。また、島内5(後に4)か所に代官所を設置した。

 出典:Wikipedia


◆著名な佐渡奉行

 ※佐渡奉行(さどぶぎょう)は、江戸時代の官職の一つである。現地で学芸員が話してくれたなかでは、奉行所の初期段階での大久保長安の活躍が顕著であったそうだ。

 大久保長安(1603年 - 1613年)
 鎮目惟明  (1618年 - 1627年)
 伊丹康勝  (1635年 - 1653年)
 伊丹勝長  (1653年 - 1657年)
 荻原重秀  (1690年 - 1712年)
 根岸鎮衛  (1784年 - 1787年)
 川路聖謨  (1840年 - 1841年)

 出典:Wikipedia

 佐渡奉行のもとでいは組頭、その次に広間役がおり、広間役のもとに、山方役、筋金所役、手形改役・定勘定方役、公事方役・町方役、そして地方役が配置されていた。


出典:佐渡奉行所入場時パンフレット

 以下は佐渡奉行所の歴代の奉行の一覧である。



出典:佐渡奉行所入場時パンフレット


つづく