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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所(概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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ナチス・ドイツによるギリシャ人の虐殺について(Greece: ギリシャ 
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チャイダリ強制収容所:Konzentrationslager Chaidari(ドイツ語版Wiki)

 2019年の年末から二回にわたり、NHKBS1で「アウシュビッツ 死者たちの告白」というドキュメンタリーが放送された。内容は、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に収容されたユダヤ人の一部がナチスドイツの手先、すなわち特別任務部隊(ゾンダーコマンド=Sonderkommando)として同胞であるユダヤ人虐殺の一連の作業(脱衣室⇒シャワー室(毒ガス室)⇒死体搬出⇒死体焼却⇒遺骨粉砕⇒川への灰の投棄)に携わり、彼らが見たもの、聞いたこと、感じたことをメモとして残したものが発見され、それを科学技術を駆使して70年後に読み解き、その足跡を辿るというものだった。

 彼らが地中に埋めたメモはイディッシュ語、フランス語、ギリシャ語などで書かれたものだが、ギリシャ人のゾンダーコマンドのものも含まれていたということだった。この事実の報道及び番組の詳細については以下のNHKのサイトを参照のこと。

アウシュビッツのゾンダーコマンドの克明なメモ:デジタル技術で解読可能へ
 佐藤仁 | 学術研究員 2017/12/29(金) 18:00
 https://news.yahoo.co.jp/byline/satohitoshi/20171229-00079884/

NHK アウシュビッツ 死者たちの告白 2020年8月26日
 (再放送2020年12月27日、2021年1月2日)
 https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20200825/index.html

 独立系メディアでは、これまでヨーロッパ各地のユダヤ人強制収容所について情報収集し、国別にデータベース化してきたが、ギリシャのユダヤ人については、これまでまとまった情報がなく漏れていたため、改めてギリシャに焦点を絞って調べてみることにした。

 そこで行き着いたのが一冊の本「私はガス室の特殊任務」をしていた-知られざるアウシュビッツの悪夢」という翻訳書だった。

 本書の概要は以下に示すとおりである。ギリシャの港町テッサロニキからアウシュビッツ=ビルケナウの強制収容所に送られた当時20歳前後だったギリシャのイタリア系ユダヤ人シュロモ・ベネツィアがゾンダーコマンドとして体験したことを赤裸々に、正直に語った内容をとりまとめたものである。 そこで、ギリシャのテッサロニキに注目してみることとした。

 テッサロニキは、ギリシア北部,エーゲ海のテルメ湾に臨む港湾都市であり、同国では首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市である。その歴史は古代ローマ時代に遡るが、この町とユダヤ人の歴史は古い。

<テッサロニキのユダヤ人> Wikipediaより


欧州におけるテッサロニキの位置  


テッサロニキの位置  出典:グーグルマップ

 ギリシャにおけるユダヤ人人口はヨーロッパ本土ではもっとも古いもので、オスマン帝国時代にはイスラム教徒やユダヤ人の人口が増加している。1500年の記録ではギリシャ人7,986人、ムスリム8,775人、ユダヤ人3,770人であったとされる。

 1519年にはセファルディム(南欧・トルコ・北アフリカからのユダヤ人)が15,715人で都市人口の54%を占めていた。一部の歴史家からはオスマン統治の時代に民族的にギリシャ人(東方正教徒)を阻止するための手段としてユダヤ系の人々を招き入れたと言う説もある。

 テッサロニキはセファルディム系ユダヤ人の最大の中心となり、「イスラエル の母」la madre de Israelと言う愛称 や「バルカンのエルサレム」 "Jerusalemof the Balkans"と言う愛称が町に付けられていたほどであった。 また、歴史的に重要で古代のギリシア語を話すロマニオットのコミュニティも含まれていた。

 オスマン帝国が支配していた時代、セファルディムのコミュニティはテッサロニキの人口の半分以上を占め、ギリシャが独立しギリシャ人の人口が増える1912年まで商業の分野を支配していた。

 1680年代、300のセファルディムの家族、シャブタイ・ツヴィの信奉者はイスラム教に改宗し、彼らはデンメ派 (en) として知られテッサロニキに移住しユダヤ人の多数派を占め、活発なコミュニティを設立し約250年間にわたり繁栄した。

 デンメ派の多くの子孫たちは後に交易の分野で頭角を現すようになっていった。多くのテッサロニキに居住するユダヤ人たちはラディーノ語(ユダヤ・スペイン語)を話し、セファルディム系のユダヤ人たちはロマンス諸語を話していた。

 1917年テッサロニキ大火 (en) では市中心部のほとんどが焼け50,000人のユダヤ人が家を失い、合計72,000人の居住者が焼け出された。大火の後、家や仕事を失ったユダヤ人の多くはアメリカやパレスチナ、パリなどに移住しているが、それは彼らが、その後、政府による再建のための新しい都市計画を待てなかったためとされている。

 希土戦争(第一次世界大戦後のギリシャ王国とトルコの戦争)でギリシャが敗北すると、その後1922年にトルコからギリシャ人が追放され多くの難民がギリシャにやって来た。結果として10万人近くのギリシャ人たちがテッサロニキに再定住することになり、ユダヤ人の割合は減ることになり市の人口に占める割合は20%に達していた。

 戦争中にギリシャ政府はユダヤ人に他のギリシャ市民と同様の公民権を認めた。1926年3月にギリシャ政府は市民が等しく権利を享受することを再強調し、相当数のテッサロニキのユダヤ人はギリシャに留まることを決心した。

 第二次世界大戦に突入すると、1941年からドイツがギリシャを占領し反ユダヤ政策を始めたためユダヤ系のギリシャ人にとって災いがもたらされることとなった。1940年代の大多数のユダヤ系ギリシャ人のコミュニティはユダヤ、ギリシャ双方で同一視された。ミーシャ・グラニー (en) によれば大部分のユダヤ系ギリシャ人たちは北ヨーロッパで起こったような反ユダヤ主義には遭遇しなかったとしている。

 しかし、第二次世界大戦時、テッサロニキはファシスト政権のイタリア王国から激しい爆撃を受け、1940年9月には232人の死者と871人の負傷者、800以上の建物で被害を受け、ギリシャ・イタリア戦争でイタリアが苦戦を強いられた後、1941年4月8日にナチス・ドイツの占領下に入り、1944年10月30日にギリシャ人民解放軍に解放されるまでその支配下にあった。

 ナチスドイツによりテッサロニキに居たユダヤ人は43,000人が強制収容所に連行されホロコーストの犠牲となった。この間、テッサロニキは、ナチスの傀儡政権であるギリシャ国の支配下にあった。

 以上は テッサロニキについてのWikipediaからとりまとめたもである。

 一方、本書では、その歴史を次のように解説している。

ギリシャのユダヤ人迫害の歴史(概要)

 独伊同盟の下でのファシスト政権の領土拡張計画は、イタリアでは1940年6月10日、イタリアがナチスドイツ側について戦争に突入、地中海制覇を目指したときに始まる。同年10月、イタリアはギリシャに侵攻し野外作戦が始まるが、既にイタリア進撃に備えていたギリシャは国民一丸となって徹底抗戦しイタリア軍を一掃しその日はいまでもギリシャ国民の祝日とされている。

 イタリアはギリシャに敗戦したもののドイツ第三帝国に隷属し、翌年1941年にはドイツ国防軍がイタリアのギリシャ進攻に介入しギリシャが降伏、休戦となり、ギリシャは結果として、ドイツ、イタリア、ブルガリアに三分割されることとなった。

 当初ドイツの管理下となったのはクレタ島の大部分、テッサロニキを含むマケドニアの一部、西トラキアの一部からトルコ国境まで、さらに、レムノス島とキオス島だった。

 当時、テッサロニキには、ギリシャ系ユダヤ人の主な共同体があり、56,000人以上のユダヤ人が暮らしていて、6,000人~7,000人が劣悪な環境で強制労働をさせられていたが1943年春、ドイツ当局は彼らをギリシャのイタリア占領地に移動させ反ユダヤ政策を実行してった。

 テッサロニキにはゲットーが設置され、そこはまもなく強制収容のための待合場となり、ポーランドで建設が進んでいた絶滅収容所(アウシュビッツ=ビルケナウ)に鉄道移送される中継点となった。

 イタリア占領地区には約14,000人、ブルガリア占領地区には約5,000人(最終的には領土の拡張により15,000人以上)のユダヤ人が住んでいたが、ブルガリア領のユダヤ人たちは最終的にトレブリンカ絶滅収容所に移送され、11,000人のユダヤ人が殺害されている。
 

 1943年後半からは、イタリアが降伏してギリシャ全土はドイツ国防軍により支配され、それまで比較的保護されていたイタリア系ユダヤ人もすべてヨーロッパ各地のユダヤ人と同じ運命を辿ることとなった。1943年10月にナチス親衛隊(SS)が人口調査を命じ、翌年3月には約500万人のユダヤ人が標的となって一斉検挙が行われた。

 地区ごとの人数を詳細に明らかにすることは難しいがおよそ65,000人(ドイツ占領地から54,000人がアウシュビッツへ、ブルガリア地区からは11,000人がトレブリンカへ)のユダヤ人が強制収容され抹殺されたと推計されている。占領されたギリシャ国内で死亡したユダヤ人は約2,500人とみられている。

(出典:本書の後半に掲載されているテラモ大学現代詩教授 ウンベルト・ジェンティローニ「ギリシャのイタリア系ユダヤ人-大失策の小史」よりとりまとめたもの)以下は、参考にした図書の紹介である。

タイトル:私はガス室の「特殊任務」をしていた
     知られざるアウシュヴィッツの悪夢

著者  :シュロモ・ヴェネツィア
訳者  :鳥取絹子 
発行者 :小野寺優
発行所 :株式会社河出書房新社 Kindle版 216頁
単行本出版:2008年12月、文庫本:2018年5月25日 
  
原著者及び原題:Shlomo VENEZIA et Béatrice Prasquier
   “SONDERKOMMANDO; Dans l'enfer des chambres à gaz”
   (ゾンダーコマンド;ガス室の地獄のなかで)
原著出版:Albin Michel, Paris 2007 

シュロモ・ベネツィアについて(1923~2012年:88歳ローマで没)

・1923年、ギリシャのテッサロニキ生まれのイタリア系ユダヤ人
・20歳でアウシュビッツ=ビルケナウに強制収容され、特殊任務部隊(ゾン
 ダーコマンド)として同胞ユダヤ人の遺体処理という地獄の体験をするが、
 奇跡的に生き残り、のちに各地での講演活動と50回の現地訪問を行う。
・体験について証言を始めたのは会報から47年を経た70歳近くになってか
 らだった。その証言が出版されたのは80歳を過ぎてから。

本書について

・2005年1月、アウシュビッツ解放60周年を機に多くの関連する図書が出版された中のひとつで2007年1月にフランスで原著が出版されるとベストセラーとなり、その後世界15ヶ国以上で翻訳されることとなった。

・もとは、フランス人女性のベアトリス・プラキエさん(1980年生まれで、※政治学者・歴史学者とあるが、当時の肩書きはコンサルタントとなっている)が2006年4月~5月にかけてローマ在住のシュロモ氏に面談し、イタリア語で対談したものをフランス語でとりまとめたもので2007年1月ににフランスで出版され大きな反響を得た。

 本書はそれを2008年に邦訳し単行本として出版し、さらに2018年に文庫本として再発行されたもの。本書には、同じくアウシュビッツに送られシュロモ氏と同様に、特殊任務部隊(ゾンダーコマンド)に属し、奇跡的に生還したポーランド出身でフランスに移住しパリで活躍した画家ダヴィッド・オーレル氏(1902~1985)の挿絵が多く掲載され、シュロモ氏の証言をよりリアリティのあるものとしている。

■目次構成

・序文 ショアー記念財団会長 シモーヌ・ヴェイユ
・本書によせて ベアトリス・プラスキエ
・まえがき シュロモ・ベネツィア
 第1章 収容前-ギリシャでの生活
 第2章 アウシュビッツでの最初の一か月
 第3章 特殊任務部隊-焼却棟
 第4章 特殊任務部隊-ガス室
 第5章 反乱と焼却棟の解体
 第6章 強制収容所-マウントハウゼン、メルク、エーベンゼー
・歴史のノート-ショアー、アウシュヴィッツ、そして特殊任務部隊 
  マルチェロ・ペゼッティ
・ギリシャのイタリア系ユダヤ人-大失策の小史 
  ウンベルト・ジェンティローニ
・ダヴィッド・オーレル(挿絵の作家)について
・訳者あとがき

 第1章から第6章までがシュロモ氏がフランス人女性ベアトリス・プラキエさん(当時26歳)との対談に基づき、Q&A形式でまとめられている。それはすさまじい体験談だ。そして、中心となる対談の後に、二人の歴史家による解説資料が付け加えられている。これらは当時の歴史的背景やシュロモ氏の語った内容をより深く理解する上で非常に貴重であり、また、有意義なものとなっている。

 ゾンダーコマンドは1945年5月にドイツの降伏で戦争が終わるまでに、最大2,000人ほどが働いていたという記録もあるが、その中で生き残ったのは100人にも満たないとされている。彼らは、ギリシャ、ブルガリア、ポーランドなど各地から集められたユダヤ人たちで、収容所では非拘禁者グループとして、他の一般の収容者に比べて物理的にはある意味で楽な生活だったこともあったが、ナチスドイツによる虐殺を一部始終を目撃した「証人」としていずれは殺される運命であり、それが早いか遅いかの違いしかなかった。

彼らの日々はどれほどの肉体的精神的苦痛をともなうものであったのか、改めて思い知らされる。NHKの番組では、同胞の虐殺に手を貸したナチスの手先として生きるより自殺すべきではないのかなどの非難を受けながらも生き続けた彼らが「復讐するためになんとしても生き残る」とその心情をメモに残していた。

 ゾンダーコマンドの生存者シュロモ・ヴェネツィアの体験をインタビュー形式でまとめた本書のなかで、彼は次のように述べている。ゾンダーコマンドとしての作業内容を知らされないまま選抜され、それがわかった時には逃げ場がなくなっていたという。「1,2週間すると、結局慣れてしまった。すべてに慣れた。むかつくような悪臭にも慣れた。

 ある瞬間を過ぎると、何も感じなくなった。回転する車輪に組み込まれてしまった。でも、何一つ理解していない。なぜなら、何も考えていないんだから」と。自分が生きることだけに集中せざるを得なかった過酷な8ヶ月間であり、生還した彼が証言するまでに47年もかかったことがその苦しみを物語っている。

 ゾンダーコマンドとして生還した人々の証言としては、NHKの番組でも取り上げた、彼らのメモからたどり着いた人物たちの記録が解読されている。

 1943年から1944年の間、ビルケナウ収容所のゾンダーコマンドの数名が筆記用具やカメラなどを手に入れ、収容所内の様子を記録することに成功している。これらの情報は収容所内の火葬場近くなどの地面に埋められ、戦後の1980年から掘り起こされた。

 この原稿は劣化が激しく、2010年代の最新技術でようやく判読出来るようになった。掘り起こされた原稿などで作者がわかっている人物にザルマン・グラドフスキ、ザルマン・レヴェンタル(Zalman Lewental)、レイブ・ラングフス、Chaim Herman そして マルセル・ナジャリ(Nadjary)等がいる。

 最初の3名はイディッシュ語で文章を記述しており、Hermanはフランス語、そしてナジャリはギリシャ語で記述している。ほとんどの記録や原稿はアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所博物館に保存されている。記録の一部は「スクロールズ・オブ・アウシュヴィッツ (The Scrolls of Auschwitz)」というタイトルで出版されている。

 また博物館はその他の記録を「アミッド・ア・ナイトメア・オブ・クライム (Amidst a Nightmare of Crime)」という名前で出版している。その後、2020年8月16日には、日本のNHK総合テレビが、発見されたメモや生存していた隊員を取材した NHKスペシャル『アウシュビッツ 死者たちの告白』を放映した。

 これらのなかで、スクロールズ・オブ・アウシュヴィッツ (The Scrolls of Auschwitz)」については、日本語版が2019年に発行されている。

アウシュヴィッツの巻物 証言資料 (日本語) 単行本 – 2019/5/13
 ニコラス・チェア (著), ドミニク・ウィリアムズ (著), 二階 宗人 (翻訳)

 ナチのユダヤ人絶滅収容所内に設置されたガス室は、移送されてきたユダヤ人から選別された囚人「ゾンダーコマンド」(特別作業班)によって稼動していた。彼らは人々がガス室へ送られるのに立会い、遺体の焼却や処理、清掃など、「地獄」の労働を担わされた。

 ゾンダーコマンドたちがひそかに書き残してアウシュヴィッツ収容所の火葬場の地中に埋めた記録、手記や手紙が戦後、数十年にわたって発掘されている。イディッシュ語やフランス語、ギリシア語などの言語で書かれ、内容も文体も体裁もさまざまである。

 ガス室の入り口から隠し撮りした写真もあった。やがて死の選別が自らにも下される恐怖のなかで、書くことは彼らの生を支え、同時にナチに対する抵抗でもあった。それは外部の他者、後世の人々とつながろうとする意志であり、ホロコーストがしばしば「表象不可能」と評されることへの根源的な反証となっている。

 ゾンダーコマンドの文書は旧約聖書の中でも特別な書とされる五書にちなんで「巻物」と呼ばれる。「巻物」の書き手たちはほとんど生きて還ることはなかった。彼らはなぜ、何を、どのように書いたのか。本書は「アウシュヴィッツの巻物」の全体像を詳しく考察した初めての書である。

[目次抄]

序文 証言問題
第一章 歴史問題
第二章 ザルマン・グラドフスキ 死の工場における文学
第三章 散在した自我 レイプ・ラングフスの話
第四章 終極の準備 ザルマン・レヴェンタルの抵抗史
第五章 筆跡と手紙 ハイム・ヘルマンとマルセル・ナジャリ
第六章 カメラの眼 ビルケナウからの四枚の写真
結論 炎の輪を通り抜ける
https://www.msz.co.jp/book/detail/08703/
 
 また、映像作品としては、つぎのような作品が制作されているが、ハンガリーのユダヤ人などをあつかったものであり、ギリシャのユダヤ人の証言としては本書のシュロモのインタビューが最も詳細で貴重な物と言われている。

『ショア』 - (1985年公開、フランス製作)

 1985年のフランスの映画。クロード・ランズマン監督。上映時間は9時間30分。製作には1974年から11年の歳月を費やした。日本での公開は1995年、東京日仏学院で行われた。ユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)に関わった人々へのインタビュー集であるが、演出もところどころ行われており、全くのドキュメンタリーではない。インタビューの対象は、被害者たるユダヤ人生還者、加害者たる元ナチス、傍観者たるポーランド人に大別することができる。

・『灰の記憶』 - (2003年公開、アメリカ合衆国製作)

 実在のユダヤ人医師、ミクロシュ・ニスリの手記を基に、ティム・ブレイク・ネルソンが映画化した。ポーランドのアウシュビッツ強制収容所のガス室で奇跡的に生き残った少女の命を守るユダヤ人たちの葛藤と勇気を描く。本作は第26回トロント国際映画祭出品作品である。

『サウルの息子』監督:ネメシュ・ラースロー
(2015年公開、2015年アカデミー外国語映画賞受賞)

 第二次世界大戦中のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を舞台に、ゾンダーコマンドの囚人であるハンガリー人の男サウルに起きる一日半の出来事を描く。ネメシュ・ラースローが監督を務め、ネメシュとクララ・ロワイエ(フランス語版)が脚本を務めた。
以下は関連写真です。
①ギリシャの将軍ゲオルギオス・ツォラコグロウは、1941年4月にテッサロニキの アナトリア大学のマケドニアホールに到着し、イピロスでのギリシャ軍の降伏に署名した。
Sourec:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる
②テッサロニキのキャンベル収容所でのユダヤ人に対する集団的迫害行為(ポグロム)の後、別の攻撃を恐れて家を出るユダヤ人難民。 1931年6月29日の夜、翌朝の早い時間に続いて、小アジアからのギリシャのキリスト教難民がポグロムを解き放ったとき、キャンベル収容所のユダヤ人居住地全体が火事で破壊され、500家族が家を失った。 この攻撃で数十人のユダヤ人が負傷し、1人のユダヤ人と1人のキリスト教徒が殺害された。1931年6月-1931年7月
Sourec:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる
③テッサロニキ中心部でのナチスによるユダヤ人男性の登録の様子
Sourec:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0 de, Link
④第二次世界大戦時、ナチの傀儡政権であったギリシャ国の時代にあった「ユダヤ人お断り」の貼り紙  
Sourec:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
⑤テッサロニキのユダヤ人捕獲の様子(ドイツ連邦情報アーカイブファイルより)
Sourec:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
⑥テッサロニキのユダヤ人狩りの様子(ドイツ連邦情報アーカイブファイルより)
Sourec:Wikimedia Commons  CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
⑦ドイツ人に強制的に集められたテッサロニキのユダヤ人たちの様子
Sourec:Wikimedia Commons  CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
⑧テッサロニキのユダヤ人ゲットーの建物(廃墟)
Sourec:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる
⑨墓地に設置されたテッサロニキのユダヤ人たちのホロコーストを記憶するための石碑
Sourec:Wikimedia Commons  CC 表示-継承 3.0, リンクによる
⑩テッサロニキのホロコースト記念碑
Sourec:Wikimedia Commons,  CC 表示-継承 3.0, リンクによる