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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2


青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
<第二次世界大戦(WW2)> ホロコースト地図  年表・資料  ホロコースト概要  個別収容所詳細 ビデオライブラリー  戦犠牲者数
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ホロコースト関連用語解説   出典:Wikipedia
ナチスドイツ強制収容所の歴史   ホロコースト用語解説   強制収容所の組織体制 
  アウシュヴィッツTUV共通解説   ナチスドイツの人体実験   *アンネ・フランク   個別収容所詳細ヘ 

 本稿は未了!!

ホロコースト(独: Holocaust、英: The Holocaust)
 
ホロコーストは第二次世界大戦中の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)率いるナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。

 元来はユダヤ教の宗教用語にあたる「燔祭」(en)(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で、のち転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった。英語では、ユダヤ人虐殺に対しては定冠詞をつけて固有名詞 (The Holocaust) とし、その他の用法を普通名詞 (holocaust) として区別している。動詞としても使用されることがある。

ウスタシャ(Ustashe)
 クロアチアに存在したファシズム政党・民族主義団体。第二次大戦中にドイツと同盟を結び、大量虐殺を行ったことで有名である。アンテ・パヴェリッチを指導者とし、クロアチア人による独立国民国家の樹立を目指した、農民を主体とする反資本主義を政治綱領に掲げていた。しかし反資本主義を目指していながらも私有財産制は認められており、ローマ・カトリックの思想を強く受けているのが特徴である.

 第一次世界大戦後に誕生したユーゴスラビア王国は、建国当初からセルビア人に国の中枢が牛耳られており、民族意識が強いクロアチア人の反発が絶えなかった。ウスタシャはクロアチア人のこうした反セルビア感情に付け込んで勢力を伸ばした。 打倒セルビアの為には暴力も厭わないパヴェリッチは民族意識を煽り、同じくユーゴスラビア政府と対立していたブルガリアの内部マケドニア革命組織などと連携し、ユーゴスラビア政府に関係する機関へテロを繰り返した。

 ウスタシャと内部マケドニア革命組織の協力によるテロとして、1934年に当時のユーゴスラビア国王アレクサンダル1世が、フランス訪問中に暗殺されるという事件も起きている。ユーゴスラビア政府はウスタシャを取り締まったが、その後もクロアチア人によるテロは止む事が無かった。

◆ナチスの人種差別主義
 ドイツの首相に就任する何年か前から、アドルフ・ヒトラーは人種主義に取り付かれていた。ヒトラーはスピーチや文章によって、人種的「純度」および「ゲルマン民族」(彼が言う「支配民族」アーリア人)の優位性という彼の信念を広めた。彼は、いつか世界を制覇するためには人種の純度を保たなければならないと断言した。ヒトラーにとって理想的な「アーリア人」とは、金髪で目は青く背が高いことでした。

 ヒトラーとナチスが権力を握ったとき、これらの信念は政府の思想となり、ポスター、ラジオ、映画、教室、新聞で公に表示されました。ナチスは、劣性人種の繁殖を制限することで人類を改善できると信じているドイツの科学者の支援によって、この思想を実行に移し始めました。

 1933年、ドイツの医師は強制断種手術を行うことが許可され、手術により犠牲者は子供が生めなくなった。この公共プログラムの標的は、ロマ族(ジプシー)、ドイツの約3万人の少数民族、そして精神障害者と先天性の聾唖者や盲目者などの身体障害者であった。約500人のアフリカ系ドイツ人の子供たちも犠牲になった。この子供たちは、ドイツ人の母親と、第一次世界大戦後にドイツのラインラント地方を占領した連合国軍隊のアフリカ植民地の兵士との子孫であった。

 ヒトラーと他のナチスの指導者たちは、ユダヤ人を宗教的なグループではなく有害な「人種」とし、他の人種に「寄生して」その人種を弱らせる者として捉えました。ヒトラーが権力を掌握した後、ナチスの教師たちは学校の教室で人種の科学的「原理」を適用し始めました。彼らは、生徒が真の「アーリア人種」に属しているかどうかを判断するために、頭蓋骨の大きさと鼻の長さを測定し、生徒の髪や目の色を記録しました。ユダヤ人とロマ族(ジプシー)の生徒は、その過程でしばしば屈辱を受けました。

重要な日付
1920年2月24日
ナチスの政治目標の概要
 のちにナチ党と呼ばれるドイツ労働者党の最初の公開会議が、ドイツのミュンヘンで行われた。アドルフ・ヒトラーは、党の政治目標をまとめた「25か条綱領」を発行した。この党綱領は、人種差別を具体化するものだった。これはドイツにおける人種的な純度を要求し、劣性民族を支配するドイツの運命を明白に示し、人種の敵としてユダヤ人を特定するものだった。第4条には「ユダヤ人は国家の構成員たりえない」とまとめてある。

1925年7月18日
 「Mein Kampf(我が闘争)」の上巻刊行
 アドルフ・ヒトラーは1923年に権力の掌握に失敗し、国家反逆罪で刑務所にいる間に「我が闘争」を書いた。ヒトラーは「我が闘争」で彼の人種についての考えをまとめた。ヒトラーは歴史を、生活圏を求める人種間の闘争として捉えた。彼はドイツの利益のために、スラブ民族を奴隷化する東方での征服戦争を想定していた。彼はユダヤ人を、「民族純化」を破壊するために国家内で作業に従事する絶対的な悪と信じた。彼はドイツからのユダヤ人の「排除」を主張した。

1933年7月14日
 ナチス国家による民族純化法の制定
 アドルフ・ヒトラーは、民族純化のためには人間の繁殖に国の規制が必要であると信じ、遺伝性疾患を持つ子孫の誕生を阻止するための法律を作った。他の規定での主要な禁止事項として、身体又は精神に障害のある個人が子供を作ることを好ましくないとし、断種手術を強制的に義務付けた。この法律は、その後18か月間にわたって約40万人に適用された。

T4作戦(独: Aktion T4)
 T4作戦は、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を短縮したもので[1]、第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である。

 一次資料にはE-Aktion(エー・アクツィオーン)〔E作戦〕、もしくはEu-Aktion(オイ・アクツィオン) の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し[3]、その後も継続された安楽死政策により、後述の「野生化した安楽死」や14f13作戦によるものも含めると15万人から20万人以上が犠牲になったと見積もられている[4]。

◆トラヴニキの男達(Trawniki men)
 トラヴニキの男たち(ドイツ語でTrawnikimanner)とは、1941年6月に発足したバルバロッサ作戦中に国境地域で逮捕されたソビエト赤軍兵士のためにナチスドイツが設立した捕虜収容所で募集された東ヨーロッパ主審者の協力者を指す。

 数千人におよぶ彼らは、占領下のポーランド総督府の領土内で、第二次世界大戦の終わりまでドイツ軍に奉仕した。トラヴニキの男たち(Trawnikis)はヒヴィ(Hiwis:Hilfswilligerのドイツ語略語)、文字通り「助けてくれる人」)の同類であり、地元の人々からリクルートしたナチの補助軍を指す。

◆アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)
 アインザッツグルッペン(独:Einsatzgruppen)は、ドイツの保安警察 (SiPo) と保安部 (SD) がドイツ国防軍の前線の後方で「敵性分子」(特にユダヤ人)を銃殺するために組織した部隊である。アインザッツグルッペンは複数表記で、単数形はアインザッツグルッペ(Einsatzgruppe)となり、直訳すると「出動集団」である。正式名称は「保安警察及び保安部のアインザッツグルッペン」(Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des Sicherheitsdienstes)という。

 意訳で「特別行動部隊」「特別任務部隊」という表記もよく見られる。それ以外には「移動虐殺(もしくは殺人・抹殺・殺戮)部隊」といった意訳も見られる。

 ポーランド侵攻以前のアインザッツグルッペンの銃殺活動は主に知識人・聖職者・政治家など指導層を対象とした。対して独ソ戦におけるアインザッツグルッペンは、ユダヤ人やロマ、共産党幹部などを対象に銃殺を行った。

 都市が陥落するとアインザッツグルッペンはその都市の「敵性分子」を集め、森や野原に追いたて、そこで銃殺して遺体を壕に埋めた。銃殺だけではなく、ガス・トラックによる虐殺も行われた。アインザッツグルッペンは1943年に解散された。

◆ポグロム(погром)
 ポグロムとは、ロシア語で「破滅・破壊」を意味する言葉である。特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う。チェコ語には同系のポフロマ「pohroma」という言葉があり、不時の災難を意味する。

 歴史的にこの語は、ユダヤ人に対して、自発的計画的に広範囲に渡って行われる暴力行為と、同様な出来事について使われる。ポグロムは標的とされた人々に対する物理的な暴力と殺戮を伴っている。

 13世紀のカリシュの法令によって権利および安全をシュラフタ(ポーランド貴族)およびポーランド王の庇護のもとに保障されたことから、ユダヤ人はポーランドに集まり生活していた。1543年にプロテスタント運動の創始者の一人であるマルティン・ルターが著書『ユダヤ人と彼らの嘘について』においてユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱した。17世紀ウクライナ・コサックのフメリニツキーの乱で起こったポグロムはその犠牲者の数で最悪のものとなった。

 1795年の第三次ポーランド分割によりポーランド・リトアニア共和国が完全に消滅してその東部(旧リトアニア公国領)がロシアに併合された。もはや消滅したポーランド国家による庇護を受けることができなくなったポーランドやリトアニアのユダヤ人はハプスブルク家に庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人には裏切り行為と受け取られた。

 1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロムが発生すると瞬く間にドイツ文化圏の全域に大規模な反ユダヤ暴動が広まった(ヘプヘプ・ポグロム(英語版))。1821年、オデッサ・ポグロム。19世紀後半になると、主に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、ロシアで反ユダヤ主義のポグロム(1881年-1884年)が起こった。後にはロシア帝国をはじめ各国でユダヤ人殺戮のポグロムが盛んに行われた。

 帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので助長されることになった。1903年から1906年にかけての度重なるユダヤ人襲撃はユダヤ人の国外脱出の引きがねとなりシオニズム運動を招くことになった。第二次世界大戦でもポーランド東北部の村落を中心にユダヤ人がソ連および赤軍と密通しているとの疑いを掛けられ、時にはポーランド人やウクライナ人などナチス・ドイツ支配下に置かれた民族によってポグロムが起こされている。その代表的なものにイェドヴァブネ事件が挙げられ、数百人のユダヤ教徒の村人たちが近隣のキリスト教徒に殺された。ユダヤ教徒の住民の一部は実際にソ連側と密通していたとされているが、罪のない住民も同様の疑いを掛けられて巻き添えとなった。

 このような暴動を起こす人物は「理性をなくした、へべれけに酔っ払った農民」[1]だという者もいるが、実際には計画的、組織的に徹底して行われた。

◆4万2千カ所確認、ナチス収容所新調査(ナショナリ・ジオグラフィック)
 第三帝国と呼ばれたナチス・ドイツ時代のヨーロッパの地図が、大幅に書き改められようとしている。13年前、研究者のジェフリー・メガーギー(Geoffrey Megargee)氏は過去の資料をもとに、ナチス統治時代のゲットー(隔離地区)や強制収容所の数とその詳細を記録する調査を開始した。

 当初、同氏はその数を7000カ所ほどではないかと見積もっていたが、これは実態よりもはるかに少ない数字だった。結果として4万2200カ所を超える施設が、同氏が編集を進めている全7巻予定の「The United States Holocaust Memorial Museum Encyclopedia of Camps and Ghettos, 1933-1945(米ホロコースト記念博物館編・強制収容所とゲットー百科事典 1933-45)」に収録される見込みだ。

 ・困難を極めた収容施設の調査

 この百科事典では、少なくとも20人以上を収容し、1カ月以上存続していた施設を収録している。さらに、地図上の位置も特定するという条件もついた。調査の対象となる町が第2次世界大戦以来、何度も名前を変えているため、これは決して容易な作業ではない。

 調査にあたった研究者たちは、過去の研究や生存者との面談を手がかりにしたほか、「10カ国を超える国々の公文書館に埋もれていた」資料を探し回ったと、メガーギー氏は振り返っている。1990年代まで、こうした文書館の多くは鉄のカーテンに閉ざされた旧共産圏に属しており、域外の研究者が立ち入ることはできなかった。現在でも、外部による調査が制限されている場所がある。

 こうした施設には、ユダヤ人の大量殺戮(当時ドイツでは「最終解決策」と呼ばれた)目的で設けられたガス室を持つ絶滅収容所も含まれている。だがそうした収容所の調査は、この調査プロジェクトの一部にすぎない。

「我々が調査したのは、ホロコーストに直接関与した施設だけではない。(加えて)ナチスとその同盟国が運営していたあらゆる種類の迫害施設も調査の対象になった」とメガーギー氏は話す。

 ・ヨーロッパ全土で行われた強制労働

 百科事典の各項目では各種の記録や生存者の証言をもとに、施設の実態が慎重ながら身の毛もよだつような描写で明らかにされている。同事典に掲載されている項目の多くは強制労働施設だ。

「当時のドイツでの生活を想像してみてほしい。農場、工場、小売店、病院、鉄道など、考え得るあらゆる事業で、強制的に働かされている外国人労働者がいたはずだ。ドイツ全土で、自らの意志に反して身柄を拘束され、強制労働に従事させられた人を見ない場所はなかっただろう。こうした人々の権利は侵害されていた」。

 さらに、これらの強制労働施設で職務怠慢とみなされた労働者は、労働教育施設に送られた。入所者は8週間にわたり、非常に過酷な労働を科せられ、殴打のほか独房監禁などの虐待を受けた。入所者の素行に改善が見られれば、もとの強制労働施設に戻す措置もとられた。だが改善が見られない場合、強制収容所に送られるおそれもあった。

 バテンシュテット・ザルツギッター労働教育施設は、ドイツの「ハレンドルフの北東に位置する森の中の某所」に設置され、女性800人と男性1000人を同時に収容できる規模だった。百科事典の記述によれば、1942年の1年間で資料に残っている同施設の死亡者は492人を数え、その死因は「心臓の弱さ」あるいは「逃亡を試みての射殺」だったという。この収容所の生存者は、あるナチスの親衛隊(SS)メンバーが「朝食に向かう収容者を殴っていた」と証言している(この施設にはユダヤ人も収容されていたが、ドイツにあった多くの強制労働/労働教育施設では、抑留者はユダヤ人以外の欧州出身の外国人であることが多かった)。

・驚くべき高率に達したユダヤ人収容者の死亡率

 ヨーロッパ在住のユダヤ人は当初、ゲットーに隔離された。こうしたゲットーが閉鎖されると、ユダヤ人の多くは命を奪われたが、ごく少数が労働を担う者として選ばれ、強制労働施設や強制収容所に送られた。

 ここでも定期的に選別が行われ、労働を続けられる者と殺される者に分けられた。こうした収容所やゲットーでのヨーロッパ在住ユダヤ人の死亡率は実に90%と、ドイツの強制労働施設における外国人労働者の死亡率である10%と比べて、驚異的な数字に達しているという。

「強制収容所とゲットー百科事典」では、すべての施設の名を記すことで、身柄を拘束され虐殺された無数の人々に追悼の意を示している。事典のページをめくると、ほとんどの人は名前も聞いたことがないような施設名も目に入る。例えばポーランドのポズナンにあった聖マルティヌス墓地に設けられた労働施設では、ユダヤ人がポーランド人の墓を掘り起こし、死者が身につけている金歯や宝石、真鍮などを探す作業に従事させられた。

 これらはナチスの軍用に供され、さらには墓石を壊して用いるケースもあった。さらに同事典にはガス室で知られるアウシュビッツ・ビルケナウなど、世界の記憶に刻まれた悪名高い絶滅収容所の名前も記されている。


◆アインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)
 アインザッツグルッペン(この場合、移動虐殺部隊)は、主にドイツ親衛隊と警察官で構成された部隊でした。 ドイツ治安警察(Sicherheitspolizei、Sipo)と親衛隊保安部(Sicherheitsdienst、SD)の将校の指揮の下、アインザッツグルッペンの任務の1つは、占領下のソ連におけるドイツ戦線の背後で人種的または政治的な敵と認識された人を殺害することでした。

 この犠牲となったのは、ユダヤ人、ロマ族(ジプシー)、ソ連政府やソ連共産党の役人でした。 アインザッツグルッペンは、精神障害者や身体障害者の施設でも数千人の収容者を殺害しました。 多くの学者により、アインザッツグルッペンと秩序警察(Ordnungspolizei)大隊による占領下のソ連におけるユダヤ人の組織的殺戮は、ヨーロッパ全域のユダヤ人を殺害するナチスのプログラム「最終的解決」の第一段階だったと考えられています。

 1941年6月のソ連侵攻中、アインザッツグルッペンはドイツ軍に続き、ソ連領に深く侵入していきました。 アインザッツグルッペンは多くの場合、地元の民間人や警察の支援を得て、大量殺戮作戦を実行しました。 ユダヤ人を居住都市やゲットー地区から絶滅収容所に移送するという後日採用された方法とは異なり、アインザッツグルッペンはユダヤ人の住むコミュニティに直接出向いて大量殺戮を行いました。

 ドイツ軍はアインザッツグルッペンに後方支援を行いました。これには、補給品、輸送手段、宿泊場所、ときには囚人を監視および移送するための部隊が含まれます。 アインザッツグルッペンは当初、主にユダヤ人男性を射殺していました。 しかし1941年夏の後半になると、あらゆる先々で年齢や性別に関係なくユダヤ人の男性、女性、子供を射殺し、集団墓地に埋めるようになりました。

  しばしば地元の情報提供者や通訳の協力を得て、各地のユダヤ人は識別され、集合場所に連れて行かれたのです。 その後ユダヤ人は、塹壕が掘られた執行場所まで歩かされるか、トラックで輸送されました。 捕らえられた犠牲者は、自分自身の墓穴を掘らなければならないこともあったのです。 犠牲者は貴重品を押収され、衣服を脱がされた後、掘られた塹壕の前に立たされ、または掘られた穴にうつ伏せになった状態で、男性、女性、子供を問わず射殺されました。

 射殺は、アインザッツグルッペンが最も一般的に使用した殺害方法でした。 しかし1941年夏の後半に、大量射殺が部下に及ぼす精神的負担に気付いたハインリヒ・ヒムラーは、より簡便な殺害方法を開発するよう要求しました。 その結果、ガストラックが生み出されました。これは、トラックの排気ガスに含まれる一酸化炭素を利用して、貨物トラックのシャーシに搭載された移動ガス室で犠牲者を殺害するものです。 ガストラックは1941年秋の後半に東側前線に初めて登場し、その後アインザッツグルッペンが活動したほとんどの地域で、ユダヤ人やその他の犠牲者を殺害するために射殺と共に用いられました。

 ドイツ軍に続いてソ連に入ったアインザッツグルッペンは、4つの大隊規模の行動隊で構成されました。 アインザッツグルッペAは、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)方面に向かってリトアニア、ラトビア、エストニアにわたる東プロイセンに散開し、 コブノ、リガ、ビリニュスに住むユダヤ人を殺害しました。

 アインザッツグルッペBは、占領下ポーランドのワルシャワから始め、白ロシアからスモレンスクやミンスクに向け、数ある中でもグロドノ、ミンスク、ブレスト・リトフスク、スロニム、ゴメル、モギリョフでユダヤ人の大量殺戮を行いました。 アインザッツグルッペCは、クラクフから始め、西ウクライナを横切り、ハルキウやロストフナドヌーに向けて散開しました。

  隊員はリヴィウ、タルノポリ、ゾロチェフ、クレメネツ、ハルキウ、ジトームィル、キエフで大量殺戮を指揮し、キエフでは1941年9月の終わりに、アインザッツグルッペの4a特殊部隊によって、バビ・ヤールの峡谷において2日間で33,771人のキエフ在住ユダヤ人が虐殺されました。 4つの部隊のうちアインザッツグルッペDは、最南端から開始しました。 南ウクライナとクリミア、特に、ニコライエフ、ヘルソン、シンフェロポリ、セパストポリ、フェオドシヤ、およびクラスノダール地方で虐殺を実行しました。

 アインザッツグルッペンは、ドイツ軍および枢軸国の兵士、地元の協力者、その他の親衛隊の支援を受けました。 アインザッツグルッペンの隊員は、親衛隊、武装親衛隊、親衛隊保安部、治安警察、およびその他の警察部隊から集められました。

 1943年の春までに、アインザッツグルッペンと秩序警察の大隊は、100万人を超えるソ連在住のユダヤ人、数万人のソ連人民委員、パルチザン、ロマ族、障害者施設の収容者を殺害しました。 移動虐殺方法、特に射殺は非効率的であり、執行者の精神的な負担が大きいことが判明しました。

 アインザッツグルッペン部隊が作戦を実行している間にも、ドイツ当局では大量のユダヤ人を殺害する目的で、中央の絶滅収容所に特殊な固定のガス施設を設けることを計画し、建設し始めたのです。

収穫祭作戦(独:Aktion Erntefest, アクチオン・エルンテフェスト)
 収穫祭作戦は、ナチス・ドイツが1943年11月3日と11月4日の2日間にルブリン強制収容所(マイダネク)においてユダヤ人を大量銃殺した事件のドイツ側の作戦名である。ユダヤ人側は「血の水曜日」と呼んだ。詳細

 1943年10月、ドイツ内相・親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがルブリン・ユダヤ人の虐殺を目的とする「収穫祭作戦」を行うよう命令を下した[]。この命令は「ポーランド総督府」親衛隊及び警察高級指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーを通じて「ルブリン」親衛隊及び警察指導者ヤーコプ・シュポレンベルク(de)に伝達された。

 この時ルブリン地区のユダヤ人はルブリン強制収容所、トラヴニキ強制労働収容所(de)、ポニアトーヴァ強制労働収容所(de)のいずれかで働かされていた。ルブリン強制収容所の付属収容所には「東方工業所」があり、ここで1万6000人のユダヤ人囚人が労働していた。トラヴニキとポニアトーヴァのユダヤ人囚人は解体されたワルシャワ・ゲットーから連れてこられた人々で、それぞれシュルツ社とテベンス社で労働していた。

 1943年10月末頃、「防空壕」と称してルブリン強制収容所の死体焼却場の近くの第5地区と第6地区に突然穴が掘られた。作業を行ったのは囚人たちであり、深さ2メートル以上、長さ100メートルの穴が3つ掘られたという。

 11月3日朝からルブリン収容所にいるユダヤ人囚人8400人、呼び戻された外部作業班やトラヴニキ・ポニアトーヴァから連れてこられたユダヤ人囚人たち1万人ほどが長い隊列を組んで第5地区へ向かわされた。

 彼らは第5地区のバラックで裸にされ、50人から100人ずつ穴に入れられ、そこにうつぶせに寝かせられて銃殺されていったという。次のグループはその死体の上に寝るよう命じられ、また銃殺された。この繰り返しで穴がいっぱいになるまで銃殺が続けられたという。11月3日の1日だけで1万8000人が殺されたという。さらに11月4日に殺害されたユダヤ人の数とあわせて犠牲者数は総計4万人以上に及ぶという。

青師団(ス: Division Azul, ド: Blaue Divisionもしくは第250歩兵師団)
 青師団は、第二次世界大戦中、東部戦線においてドイツ軍に参加したスペイン義勇兵の部隊のことである。詳細
 
ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(独: Heinrich Luitpold Himmler、1900年10月7日 - 1945年5月23日)は、ナチス・ドイツの官僚。親衛隊や秘密警察ゲシュタポを統率した、アドルフ・ヒトラーの側近として著名。

 1929年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(SS)の第3代親衛隊全国指導者(RFSS)に就任し、党内警察業務を司った。ナチ党の政権掌握後には、1934年にプロイセン邦の秘密国家警察ゲシュタポ[注 2]副長官、1936年には親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官に任命されて国内の警察機構を一手に掌握した[3](ゲシュタポは全国の政治警察を直轄する組織となった)。

 政権末期の1943年にはヒトラー内閣内務大臣も兼務するようになった。ナチ体制は当初、一元的に統制されているとは言いがたい多頭制の様相を呈していたが、その中でヒムラー率いる親衛隊が次々に権限を拡大して優位に立ったことにより、ナチ体制は「親衛隊国家」の性格を色濃くした。

社会ダーウィン主義とアーリアン学説の影響を受けたナチスの人種イデオロギーは、アーリア人種、特にその一派とされた北方人種と定義された人々を主たる人種(独版)とし、ユダヤ人、ロマ、スラヴ人は人種的に劣るとしたが、ヒムラーもまたそれらの人種的に劣るとされた集団を蔑視し、北方人種の優越性を信じていた。ヒムラー率いる親衛隊は水晶の夜事件以後、ナチスの人種政策に関与するようになり、ユダヤ人を国外退去させる任務に携わった。

 「北方人種」「アーリア人」として認定された者であっても、反ナチ運動家や障害者などは「人種の血を汚す者」として劣等人種とされた人々と同等に扱った。親衛隊の所管となった強制収容所(KZ)には、当初ゲシュタポが取り締まりの対象とした政治犯が主に収容されたが、同性愛者や浮浪者など「反社会分子」とみなされた人々やユダヤ人といった政治犯でない人々が収監者の多数を占めるようになった。

 第二次世界大戦期には、ドイツが占領したヨーロッパの広範な地域にヒムラーの権力が及ぶこととなった。ポーランド侵攻に際しては親衛隊特別行動部隊がポーランド人を奴隷化するための知識人掃討作戦を展開した。

 占領地域での生存圏政策の執行においてもヒムラーは中心的役割を担い、親衛隊はドイツに編入されたポーランド西部からポーランド人とユダヤ人をポーランド中部の総督府領に追放させる任務に当たった。

 その後ユダヤ人の追放政策は絶滅政策に転換し、「生きるに値しない命」とされた精神障害者等を殺害する安楽死作戦に従事したスタッフが絶滅収容所建設のために派遣され、親衛隊はそこでユダヤ人等の大量虐殺(ホロコースト)を組織的に実行した。

 大戦後期には軍集団の指揮も任されたが、軍事的素質には乏しく、目立った戦果はあげられなかった。ドイツの戦況を絶望視して独断でアメリカ合衆国との講和交渉を試みたが失敗し、アドルフ・ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。その後は逃亡を図ったが、エルベ川を渡った後の1945年5月22日にイギリス軍の捕虜となり、翌日の5月23日に自殺した。

◆ユダヤ人(英: Jews)
 ユダヤ人は、ユダヤ教の信者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(血統)によって構成される宗教的民族集団である。 ムスリムやクリスチャンと同じで、ユダヤ人という人種・血統的民族が有る訳では無い。

 ヨーロッパでは19世紀中頃まで主として前者の捉え方がなされていたが、近代的国民国家が成立してからは後者の捉え方が広まった。ハラーハーでは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている。

 2010年現在の調査では、全世界に1340万を超えるユダヤ人が存在する。民族独自の国家としてイスラエルがあるほか、各国に移民が生活している。ヘブライ人やセム人と表記されることもある。

 ユダヤ人はディアスポラ以降、世界各地で共同体を形成し、固有の宗教や歴史を有する少数派のエスニック集団として定着した[13]。しかし、それらを総体的に歴史と文化を共有する一つの民族として分類することはできない。

 言語の面をみても、イディッシュ語の話者もいればラディーノ語の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、一一つの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている。

◆ゲットー(ghetto)
 ゲットーは、ヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区である。第二次世界大戦時、東欧諸国に侵攻したナチス・ドイツがユダヤ人絶滅を策して設けた強制収容所もこう呼ばれる。

 ゲットーの名称は、主に以下の4つの文脈で用いられるが、本来は、中世ヨーロッパにおいてユダヤ人が法律によって居住を強制された市街地区を指す言葉であった。

 本記事では主に、この中世ヨーロッパの諸都市に設けられたユダヤ人強制居住区域としてのゲットー (1.) 、ならびに、ナチス・ドイツによって復活された強制収容所としてのゲットー (2.) について記述する。

 中世の西欧・南欧諸国で、都市の中でユダヤ人が強制的に住まわされた居住区。キリスト教徒の支配者の支配が及ばないという、宗教的な意味を持っていた。宗教弾圧の象徴。ドイツが第二次世界大戦中東欧諸国に侵攻した際に、ユダヤ人を強制的に移住させた地区。

 東欧のシュテットルや、ユダヤ人が自然と集住してコミュニティーを作った地区をこう呼ぶことがある。特にロシア帝国のユダヤ教徒居住区やチェルニウツィー、レンベルク(現リヴィウ)といった大都市のユダヤ教徒地区は、様々なユダヤ教徒への差別化政策(居住地制限など)が採られたため、このような通称で呼ばれることがある。転じて、少数民族など特定の社会集団が住む地域を呼ぶことがある。

※以下は米国)ホロコースト記念博物館の解説
 「ゲットー」という言葉は、1516年に設けられたベネチアのユダヤ人居住区の名前が起源となっています。ベネチア当局は、市内のユダヤ人をこの居住区に強制移住させました。 16世紀から17世紀にかけて ... 、地元の市当局からオーストリア皇帝カール5世まで、さまざまな権威者がフランクフルト、ローマ、プラハ、その他の都市にユダヤ人用ゲットーの建設を命令しました。 第二次世界大戦中、ゲットーは多くの場合、壁で取り ... 囲まれた地域であり、ドイツ軍によって市内や周辺地域のユダヤ人の住民が押し込められて、悲惨な環境での生活を強いられていました。 ゲットーはユダヤ人コミュニティをユダヤ人以外の住民から隔離し、他のユダヤ人

ポーランドのゲットー
「ゲットー」または「ユダヤ人居住区」と呼ばれ、占領地区に少なくとも1,000か所のゲットーが建設されました。最大のゲットーは、ポーランドの首都ワルシャワに設けられ、約50万人のユダヤ人が収容されました ... 。ゲットーの多くは、ユダヤ人の人口が既に集中している町や都市に設けられました。ユダヤ人と一部のロマ族(ジプシー)も周辺地域や西欧からゲットーに移住させられました。1941年の10月から12月にかけて、数千人の ... ドイツ系およびオーストリア系ユダヤ人が東欧のゲットーに移送されました。通常、ドイツは、都市の最も古くて廃れた地区をゲットーに割り当てました。ユダヤ人家族の施設を建築するために、ユダヤ人以外の居住者が立ち退

ワルシャワ・ゲットー蜂起
ゲットー蜂起が始まりました。1943年5月16日までにドイツ人は反乱を粉砕して、ゲットーは遺跡に残しました。生き残ったゲットーの住民は強制収容所や絶滅収容所ーに移送されました。 背景 1942年7月22 ... から9月12日にかけて、ドイツ政府はワルシャワ・ゲットーからおよそ300,000人のユダヤ人を移送または殺害しました。SSと警察部隊により、265,000人のユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ、11 ... ,580人が強制労働収容所へ送られました。移送作戦の間、ドイツ人とその補助部隊によりワルシャワ・ゲットーのユダヤ人10,000人以上が殺害されました。ドイツ当局は、わずか 35,000人のユダヤ人にゲットーに
ホロコースト百科事典 | 記事


◆SS(親衛隊)
(独:Schutzstaffel De-Schutzstaffel.ogg SS)
 親衛隊は、ドイツの政党、国家社会主義ドイツ労働者党の組織である。元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。1929年にハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。

 保安警察(ゲシュタポと刑事警察)、秩序警察、親衛隊情報部、強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。1934年には正規軍である国防軍から軍事組織の保有を許可され、親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は一般親衛隊と呼ばれるようになった。

 第二次世界大戦中、武装親衛隊がヨーロッパ各地で戦ったが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国において治安維持、反体制分子摘発、ユダヤ人狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は絶滅収容所やアインザッツグルッペンを組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした(ホロコースト)。

 そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後のニュルンベルク裁判では全ての親衛隊組織は「犯罪組織(英:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡されている。
 隊のモットーは「Meine Ehre heist Treue(My honor is called fidelity:忠誠こそ我が名誉、我が名誉は忠誠を宣する事)」。

◆ゲハイメ・シュターツポリツァイ
 ゲハイメ・シュターツポリツァイ(ド語: Geheime Staatspolizei=「秘密国家警察」、通称ゲシュタポ、独: Gestapo)は、ナチス・ドイツ期のプロイセン州警察、のちドイツ警察の中にあった秘密警察部門である。

 1939年9月以降、ナチス親衛隊の一組織であり、警察機構を司る国家保安本部に組み込まれた。

 1933年にプロイセン州の秘密警察として同州内相ヘルマン・ゲーリングが発足させた。1934年に親衛隊(SS)のハインリヒ・ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒが指揮権を握り、1936年に活動範囲を全ドイツに拡大させた。同年に保安警察の一部局、さらに1939年には国家保安本部の第IV局に改組された。

 第二次世界大戦中にはドイツ国防軍が占領したヨーロッパの広範な地域に活動範囲を広げ、ヨーロッパ中の人々から畏怖された。その任務はドイツおよびドイツが併合・占領したヨーロッパ諸国における反ナチ派やレジスタンス、スパイなどの摘発、ユダヤ人狩りおよび移送などである。

◆ラインハルト作戦
 ラインハルト作戦(独:Aktion Reinhardt)は、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に執行したユダヤ人大量虐殺作戦。ポーランドなど東ヨーロッパのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)を解体し、そこで暮らすユダヤ人を三大絶滅収容所(ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所)へ移送して殺害する、ホロコーストの一環である絶滅計画である。

 「ラインハルト」の名は国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将のファーストネームに由来するとされる。

 作戦により虐殺されたユダヤ人の虐殺数は次のとおりである。

収容所名          作戦期間           虐殺数
・ベルゼック強制収容所 1942年3月 〜 1942年12月 60万人
・ソビボル強制収容所 1942年4月 〜 1943年10月 25万人
・トレブリンカ強制収容所 1942年7月 〜 1943年8月 87万人
・ヘウムノ強制収容所。 1941年12月 〜 1945年1月 32万人

◆ヴァイマル憲法
(ド語:Weimarer Verfassung)
 ヴァイマル憲法は、第一次世界大戦敗北を契機として勃発したドイツ革命によって、ドイツ帝国が崩壊したあとに制定されたドイツ(ヴァイマル共和政)の憲法である。憲法典に記されている公式名はドイツ国家憲法(ド語:Die Verfassung des Deutschen Reichs)。1919年8月11日制定、8月14日公布・施行。

 ドイツの憲法は、フランクフルト憲法や現在のボン基本法のように、その憲法が制定された都市の名をつけて通称とする慣例があり、ヴァイマル憲法も憲法制定議会が開催された都市ヴァイマルの名に由来する通称である。ワイマール憲法と表記される場合も多い。

 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の権力掌握によって「憲法変更的立法」である全権委任法が成立すると、ヴァイマル憲法はほぼその機能を停止した。ナチス・ドイツの敗戦により全権委任法と関連法令が無効とされ、1949年のドイツ連邦共和国基本法(西ドイツ、いわゆるボン基本法)とドイツ民主共和国憲法(東ドイツ)の制定によってドイツの新たな憲法体制がスタートした。

◆国家緊急権
 国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止するなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことである。

 緊急権とは立憲主義、議会制民主主義、文民統制を基調とする国家において、国家の平和と独立を脅かす急迫不正の事態または予測される事態に際して、一刻も早い事態対処が必要と判断される場合において、憲法の一部を停止し、「超法規的措置」によってこれらの危機を防除しようとする権能である。多くの国家の憲法、特に大陸法をとる国のほとんどの憲法には緊急権の規定があり[3]、存在していない憲法は少数派である。

 国家緊急権は、立憲主義国家の下では、立憲主義体制を一時停止して一定の権力集中をともなうのを通例とする[5]。国家緊急権は立憲主義を守るために立憲主義を破るという性格を有するものであることから実定法化には難しい問題を伴う[6]。

 国家緊急権は抵抗権と同じく立憲主義の擁護を目的に唱えられるものであるが、抵抗権が国家権力による立憲主義への攻撃に対する国民の権利であるのに対し、国家緊急権は立憲主義の防御のために国家権力側が発動する権利であり対照的な構造をなす。

 詳細

全権委任法(正式名称:独: Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich、日語「民族および国家の危難を除去するための法律、または、国民および国家の苦境除去のための法)
 全権委任法は、ドイツ国において1933年3月23日に制定された法律。アドルフ・ヒトラー首相が率いる政府に、ヴァイマル憲法に拘束されない無制限の立法権を授権した。この法律は立法府が行政府に立法権を含む一定の権利を認める授権法の一種であり、単に「授権法」と呼ぶこともある。 詳細


◆ヨーゼフ・メンゲレ(Josef Mengele, 1911年3月16日 - 1979年2月7日)
 ヨーゼフ・メンゲレは、ドイツの医師、ナチス親衛隊 (SS) 将校。 親衛隊大尉。第二次世界大戦中にアウシュヴィッツで勤務し、収容所の囚人を用いて人体実験を繰り返し行った。実験の対象者やただちにガス室へ送るべき者を選別する際にはSSの制服と白手袋を着用し、クラシック音楽の指揮者さながらに作業にあたったと伝えられ、メンゲレの姿を見た人々からは恐れられた。

 人種淘汰、人種改良、アーリア化を唱えるナチス人種理論の信奉者であったが、その持論はまったく異なった独特の思想である。愛称のベッポ (Beppo) は、Josefのイタリア語読み「ジュゼッペ」 (Giuseppe) に由来する。

 戦後は南米で逃亡生活を送り、ブラジルで海水浴中に心臓発作を起こして死亡した。

◆NKVD(内務人民委員部)
 NKVDは、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン政権下で刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた国家機関。「エヌカーヴェーデー」と略称され)、ラテン文字ではNKVD(Narodnyi komissariat vnutrennikh del)と表記される。英語の略称はPCIA(Peoples Commissariat for Internal Affairs)。

 共和国レベルの内務人民委員部自体は革命直後から存在しており、本項で述べるのは1934年に秘密警察と強制収容所を統合したソ連内務人民委員部(後のKGB)である。主に秘密警察として「反革命分子」とみなした人物の逮捕、尋問、処刑やスパイの摘発などを行っていた。