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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2


青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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強制収容所の組織体制( Organization and System of Natiz Germaniy Concentration Camp
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収容所の組織体制

看守
 1934年以来、すべての強制収容所は、強制収容所監督官の管轄下にあった。テオドール・アイケ、後にリヒャルト・グリュックスが強制収容所監督官に就任した[99]。強制収容所監督官府ははじめ親衛隊本部(SS-HA)に属していたが、親衛隊本部から親衛隊作戦本部(SS-FHA)が独立するとそちらに移され、ついで1942年3月16日には親衛隊経済管理本部(SS-WVHA)のD部集団として再編された。

 各強制収容所には、司令部(Kommandantur)があり、その下に司令部幕僚部(Kommandanturstab)と保護拘禁収容所指導部(Schutzhaftlagerfuhrung)があった。これらの部局外に収容所の警備を行う監視隊(Wachmannshaften)があった。

司令部
 収容所全体のトップは、司令部の長である所長(司令官)(Kommandant)である。所長は強制収容所の絶対的支配者であり、強制収容所監督官に対してのみ責任を負った。大きな収容所では所長は親衛隊上級大佐から親衛隊少佐ぐらいの階級の者たちが多い。大抵は親衛隊大佐か親衛隊中佐であった[100]。分所など小規模な収容所には下士官の所長もみられる[100][101][102]。所長には副官(Adjutant)がつけられており、副官が所長の命令が収容所全体で実行されるよう万事の手配をした。また所長の指揮下にない収容所監視隊との連絡役も副官が務めた。

司令部幕僚部(管理部)
 司令部幕僚は司令部に属する。管理部ともいう。そのトップは管理指導者(Verwaltungsfuhrer)である。この職位にある者が食糧や被服など収容所の経理事務のすべてを預かっていた。業務の範囲が広いため、大きな収容所では管理指導者には10人近い下士官が補助要員としてつけられていた。


 ついでイタリア人などラテン民族が低く扱われた。フランス人の地位も低かった。一方でオランダ人、ベルギー人、ノルウェー人、デンマーク人などゲルマン民族はたとえ反ナチ主義者であってもかなり寛大に扱われた。そしてゲルマン民族の中でも頂点の位置するのは、もちろん「支配人種」たるドイツ人である。

 ドイツ人囚人はドイツ人であるというだけで「収容所の貴族」であるようなものだった。ドイツ人囚人には楽な労働、豊富な食料、特権的地位、ゆったりとした居住が与えられた。戦争末期にはウクライナ人などスラブ民族だらけになってしまった監視兵よりもドイツ人囚人の方が優遇されていたといわれる。親ナチ派の「下等人種」より反ナチ派の「支配人種」の方が優先されたわけである。

囚人の役職
 強制収容所の囚人の中にも管理職が存在した。囚人たちのトップの地位にあったのは親衛隊から任命される収容所古参(Lageraltester)である。収容所古参は初め1人だったが、収容者数が増えてくると3人までに増やされた。親衛隊から信用のある者が任命された。収容所古参の下で個々の囚人移住ブロックの囚人を指導する囚人職がブロック古参(Blockaltester)である。

 ブロック古参は収容所古参の推薦を経て親衛隊が任命した。ブロック古参は各囚人移住家屋ごとに2名から3名の部屋係(Stubendienste)を持ち、彼らを通じてブロック全体の囚人を支配していた。また労働隊においては囚人の中からカポ(Kapo)が任命された。カポは、看守の親衛隊員が就任する労働隊指導者の下で労働隊の他の囚人の監督を行う。カポの下には先任労働者(Vorarbeiter)が置かれた。

 カポは、こん棒で殴りつけるなど他の囚人に懲罰を加えることもできたが、彼らも囚人であるので看守の親衛隊員からは懲罰を加えられることもあった。収容所古参、ブロック古参、カポ、先任労働者は、区別のため収容所指導部の看守から、白い文字の書かれた黒いリボンを左胸に付けさせられた。

 このような囚人役職に就ける者はカテゴリや人種により制限されていた。まず人種でいえば、囚人役職に就く道が一番開けていたのは言うまでもなくドイツ人囚人である。しかし意外なことであるが、ドイツ人囚人の次に役職に任命されることが多かったのは「下等人種」スラブ民族のポーランド人であった。

 この理由としては、ポーランド人にはドイツ語が話せる者が多かったこと、ポーランド人にはドイツ人並みに反ユダヤ主義者が多かったこと、ポーランドは早期に占領された国であったため収容所の中でもポーランド人囚人が古参になっていることが多かったことなどが考えられる。他のスラブ民族のロシア人やチェコ人が役職を得ることはまず無理であった。ユダヤ人も役職を得ることは無理であったが、ユダヤ人のみの収容所では任用例も見られる。

 カテゴリで見ると役職に就いた者はほとんどが「赤」(政治犯)か「緑」(刑事犯)である。それ以外のカテゴリの者は役職を得るのはまず無理だった。意外なことに「赤」の中では共産党員が特に重用された。彼らの組織力・秩序維持能力を親衛隊が評価したためであるらしい[132]。特にブーヘンヴァルト強制収容所では共産党員囚人たちが強大な実権を掌握し、他のカテゴリ、あるいは同じカテゴリでも別の党派の囚人たちに迫害を加えていた。

囚人用売春施設
 ハインリッヒ・ヒムラーがソ連のラーゲリ強制労働所における報奨制度にならって強制労働の生産性を向上させるために構想した。1942年6月にオーストリア、ドイツ、ポーランドにあった強制収容所などに13の強制売春施設を建設した。そのうち9カ所が囚人専用、4カ所は収容所警備のウクライナ人親衛隊員専用であった。

 被害女性の数は210人と推計され、114人がドイツ人、46人がポーランド人であった。この実証研究によって、これまで流布した「ナチスがユダヤ人女性を強制売春させた」ということには根拠がなくなった。女性たちの平均滞在期間は10ヶ月で、最長34ヶ月であった。食料は親衛隊員待遇で豊富であった。毎晩2時間、6人〜8人の男性囚人を規則に従って受け入れた。

類似施設
 以下は類似施設である。ただしいずれも親衛隊経済管理本部の管轄になく、原則として強制収容所(Konzentrationslager)とは別物である。しかしこれらの施設も広義の意味で「強制収容所」と呼ばれることもある。

強制労働収容所
 各地区の親衛隊及び警察指導者が運営していた強制労働のための収容所を強制労働収容所(Zwangsarbeitslager、ツヴァングスアルバイツラーガー)と呼ぶ。 強制労働収容所は強制収容所とちがって統一的な基準がほとんどなかった。

 強制労働収容所は主に東ヨーロッパに設置され、ポーランド総督府領には437もの強制労働収容所が設置されていた。ドイツ領東部のポーゼンにも1940年から1941年にかけて約70の強制労働収容所がおかれ、囚人たちはベルリン=ポーゼン間高速道路の設置作業に駆り出されていた。

 シュレージエンにもアルブレヒト・シュメルト(ドイツ語版)親衛隊上級大佐が創設した約160の強制労働収容所(これらは「シュメルト機関収容所(ドイツ語版)」と呼ばれた)が置かれていた。

 1943年3月には親衛隊経済管理本部が「東方工業有限会社」(de:Ostindustrie GmbH、略称OSTI)を創設し、ポーランド総督府のルブリン地区とラドム地区にあった多くの強制労働収容所を傘下に入れた。

 なおスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』で有名になったクラクフ・プワシュフ強制収容所は、強制労働収容所として発足したが、1944年1月に強制収容所に移行した収容所であった。

絶滅収容所
 ユダヤ人とジプシー(ロマ民族)の民族絶滅を狙って作られた殺戮工場たる収容所は絶滅収容所(Vernichtungslager、ファアニヒトウングスラーガー)と呼ばれる。

 最初に稼働した絶滅収容所はヘウムノ絶滅収容所である。この絶滅収容所は国家保安本部によって運営され、1941年12月からガス殺が開始された。

 一方、ルブリン親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクは、後に「ラインハルト作戦」と名付けられるポーランドユダヤ人絶滅作戦の執行のために三大絶滅収容所の建設を行った。1941年11月からベウジェツ絶滅収容所の建設が開始され、1942年3月半ばからガス室が稼働した。

 続いてソビボル絶滅収容所の建設が開始され、1942年4月末に稼働。最後にトレブリンカ絶滅収容所が1942年5月末から建設が開始され、7月半ばに稼働している。

 この三つの絶滅収容所は「ラインハルト作戦」のための三大絶滅収容所として機能し、刑事委員長クリスティアン・ヴィルトによって監督された。ヴィルトの部下たちが三大絶滅収容所に配されていた。なおヴィルトは安楽死計画(T4作戦)に携わっていたため、ヴィルトの部下たちも安楽死計画参加者が多かった。

 ヘウムノでは最低でも15万人[# 3]、ベウジェツでは55万人、ソビボルでは25万人、トレブリンカでは最低73万人[143]が虐殺された。

 ポーランドのユダヤ人社会がほぼ壊滅すると、三大絶滅収容所は1943年代に早々に閉鎖され、植林などで証拠隠滅作業が行われた。その後はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所やマイダネク強制収容所、ヘウムノ絶滅収容所などが絶滅収容所として機能し、これらの収容所はドイツ軍の戦線後退でソ連軍が同地に到着するまで存続した。

通過収容所
 通過収容所(Durchgangslager、ドゥルヒガングスラーガー)は、強制収容所や絶滅収容所に移送されるまでの一時収容を行うための収容所のことである。移送を受けるのは多くの場合ユダヤ人であった。

ゲットー
 ゲットー(ghetto)とは、ユダヤ人の隔離居住区である。しかしここから強制収容所や絶滅収容所へ移送されるケースが非常に多く、実質がゲットーなのか通過収容所なのか区別しづらい物が多い。

 テレージエンシュタット・ゲットーはその典型である。テレージエンシュタットは公式にはゲットーであり、ドイツ系ユダヤ人をここに住まわせていたが、一方ベーメン・メーレン保護領に住むチェコ系ユダヤ人の多くもテレージエンシュタットに集められ、彼らはやがてアウシュヴィッツ強制収容所へ連れて行かれた。そのためゲットーを集合収容所(Sammellager、ザンメルラーガー)とみなして「収容所」とか「強制収容所」とか呼ぶケースがある。

保護拘禁収容所指導部
 保護拘禁収容所指導部も司令部に属する。「保護拘禁収容所(Schutzhaftlager)」とは囚人が収容される区域を指す。その長である保護拘禁収容所指導者(Schutzhaftlagerfuhrer)は収容所所長の指揮の下に囚人を直接に管理した。保護拘禁収容所指導者は3名まで増やすことができ、一日交代で勤務にあたった。親衛隊大尉から親衛隊少尉ぐらいの階級の者が務めた。

 保護拘禁収容所指導者の下には連絡指導者(Rapportfuhrer)がいた。囚人の状態などを保護拘禁収容所指導者に報告し、また保護拘禁収容所指導者の命令が保護拘禁収容所において遂行されているか監督するのが役割だった[105]。連絡指導者は抑留者の状態を正確に把握している必要があったため、ゲシュタポの出先機関である「政治局」とは別に抑留者内にスパイを放っていた。連絡指導者はたいてい2名おり、交代で務めた。連絡指導者には親衛隊曹長階級の者が就任するのが通常だった。

 連絡指導者の下にはブロック指導者(Blockfuhrer)がいる。彼らがそれぞれのブロックの囚人を直接管理した。ブロック指導者は一人につき、大体2個か3個のブロックを担当した[106]。親衛隊軍曹、親衛隊伍長、親衛隊兵長ぐらいの階級の者が多かった[107]。囚人に最も身近に接する役職であり、囚人たちの命にほとんど無制限の権利を有したため、数々の残虐行為を起こした。ブロック指導者は戦前は親衛隊髑髏部隊(SS-TV)から選ばれていたが、戦中には収容所職員が就任した。

 囚人の労働を監督したのが、労働指導者(Arbeitsdienstfuhrer)だった。戦時中、強制収容所の奴隷労働力が重視されるにしたがってその権限は大きくなり、1942年には労務指導者の上位職として労働配置指導者(Arbeitseinsatzfuhrer)が置かれた。どの囚人に何の労働をさせるかは彼らによって決定された。囚人を危険な労働に配置転換させる権限を有したため、彼らも囚人の生死にかなり関与することが多かった。

 その下で囚人の労働を直接に取り扱ったのが、作業班指導者(Kommandofuhrer)である。彼らもブロック指導者と並んで直接に囚人と関与し、その生命に無制限の権利を有していた。しかし作業班が増えてくると作業班の指揮は囚人職のカポにゆだねられることが多くなった。

政治局
 各収容所内には政治局(Politische Abteilung)という部署が置かれていた。これは収容所の機関というよりゲシュタポの出先機関である。

 名目上はこれも所長の司令部に属していたのだが、実態はほとんど独立していた。強制収容所の日常の運営は強制収容所総監(すなわち、その部下である各強制収容所所長)にゆだねられていたが、強制収容所の囚人の収容と釈放と裁判に関してはゲシュタポに決定権があったため、収容所内にもゲシュタポの機関が存在する必要があったのである。

 また収容所内部の地下活動(抵抗組織、サボタージュ、脱走計画、外部との接触など)を取り締まる役職でもあった。そのため収容所の囚人をわずかな特権を見返りにスパイにしたてあげて、収容所内にスパイ網を築いていた。

 政治局はしばしば突然スピーカーで囚人を呼びだして拷問を行ったという。個々の囚人も身元や経歴を記載した個人カードも政治局が所管していた。

監視隊
 収容所の警備を担当する親衛隊髑髏部隊(SS-TV)は、各収容所に警備を行う部隊として監視隊(Wachmannshaften)を配置していた。この監視隊は親衛隊髑髏部隊の指揮官の指揮下にあり、収容所所長の指揮下にはなかった。なお戦前期にはブロック指導者と作業班指導者も親衛隊髑髏部隊から出されることになっていたが、開戦後には収容所職員から出されることになった。

 監視隊は監視塔に登っての収容所内の警備、作業班の作業場の警備などを担当した。

 髑髏部隊は開戦とともにほとんどが第3SS装甲師団「髑髏」に編成されて出征した。代わりに強制収容所の警備を行う部隊として一般親衛隊の予備隊(Reserveabteilung)や壮丁隊(Stammabteilung)を使って親衛隊髑髏大隊(SS-Totenkopf-Sturmbann)が編成された。この隊には後に外国人(ウクライナ人、クロアチア人、ロシア人、ルーマニア人など)の補助兵も続々と編入された。

 戦争後期には監視兵がほとんど外国人になってしまい、収容所内に存在した人種ヒエラルキーに基づき、監視兵よりドイツ人囚人の方が重んじられるといった事態も発生していた。

囚人
囚人のカテゴリ

 強制収容所の囚人は服にバッジを縫いつけてなければならなかった。左胸と右のズボンに縫いつけられた。バッジは色つきの三角形で表された[117]。また三角形の下に囚人番号も入れられたが、アウシュヴィッツのみ囚人番号を左腕に入れ墨で入れていた。

 赤色の逆正三角形は政治犯、緑色の逆正三角形は刑事犯、紫色の逆正三角形はエホバの証人、黒色の逆正三角形は反社会分子(労働忌避者、浮浪者、ロマなど)、ピンクの逆正三角形は同性愛者を示した。なおロマ(当時はジプシー)は一時期茶色の逆正三角形をつけていた。

ユ ダヤ人の場合は黄色い正三角形を加え、収容理由の色の逆正三角形を加え(ユダヤ人と言うだけで収容所に入れられたものは黄色い逆正三角形)、ダビデの星の形になるようになっていた。

 ユダヤ人という理由だけで収容されたユダヤ人とはつまり「最終解決」のために絶滅収容所へ連れてこられた「移送ユダヤ人」達である。彼らは選別を受けたが、うち労働不能と判断された者はガス室に送られた。一方で何か他の理由で保護拘禁を受けて収容所に入れられたユダヤ人たちはこの選別を受けなかったのでガス室に送られることはなかった。これはすなわち同じユダヤ人でも「犯罪者」の方が優遇されたことを意味している。この不条理は「アウシュヴィッツのパラドックス」と呼ばれている。

 外国人の場合は彼らの出身国名の頭文字が三角形の上に記載された(Fはフランス人、Nはノルウェー人、NLはオランダ人、Pはポーランド人など)。

 精神障害者は政治犯に分類されていたので、赤い逆正三角形を付けたが、同時に「バカ」と大きな文字で書かれた腕章も付けることになっていた。時には「私はバカです。」と書かれた板を首に掛けさせられることもあったという。

 全ての収容所に全てのカテゴリの者がいるように配分された。同じ傾向の者を一つにすると団結されるのでそれを避けるために「分割支配」を行おうという意図だった。また囚人たちに自分たちが「社会のクズ」であることを認識させ合う意味もあったという。

囚人の人種ヒエラルキー
 開戦後には強制収容所に様々な国籍の者が収容されるようになった。ダッハウ強制収容所やブーヘンヴァルト強制収容所の囚人の国籍は32カ国以上に及んだという[125]。収容所が多国籍化すると人種ヒエラルキーが生まれた。直接的には親衛隊の人種差別意識が作り出したものであるが、囚人間の差別意識に支えられたものでもあった]。

 ナチス強制収容所の人種ヒエラルキーの最下層は、絶滅対象のユダヤ人とジプシーを別にすれば、ポーランド人、チェコ人、ロシア人などスラブ民族であった。スラブ民族はナチスの言う「劣等人種」の典型であった。スラブ人の中でもとりわけソビエト連邦に属する者は劣悪に扱われた。