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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2


青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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グリニ強制収容所(Grini:ノルウェー)
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概要
 グリニ強制収容所は、ノルウェーのアーケシュフース県バールムにあった、ナチス・ドイツの強制収容所。1938年、女性用刑務所として建設開始。

※ 英  Grini Concentration Camp
   独  KZ Grini
   ノルウェー  Grini fangeleir
   日  グリニ強制収容所
  
 1940年4月9日、ナチ・ドイツによるノルウェー侵攻、統治。ノルウェー軍関係者の収容
 1940年6月、ドイツ国防軍兵舎として使用開始。
 1941年6月、強制収容所として運営開始。
 1942年、増築
 1945年5月7日、閉鎖
 1951年、刑務所 "landsfengsel og sikringsanstalt" (national prison and security institution) として運営開始。

解説
歴史

 グリニは当初ノルウェーのラヴェンスキ家から購入した土地に造られたIlen(またIhlen)と呼ばれる古い小作地の近くに女性専用の刑務所として建設された。女性用刑務所の建設は1938年に始まり、1940年にようやく終了したが、当初の目的のためにはなかなか使われることがなく、第二次大戦中、ナチスドイツがノルウェーに侵略してきた。

 1940年4月9日には、ナチス政権が拘禁した囚人の収容施設として使われていた。最初、ナチスはこの刑務所をノルウェー戦線で拘束したノルウェー人の役人・幹部職員たちを収容するために用いていた。ノルウェー戦線の間にノルウェーの幹部たちが拘束されたのだ。こうした施設の利用は、ノルウェーが降伏した1940年6月まで続いた。

 その後、刑務所は、1941年6月14日に強制収容所が設立されるまでドイツ国防軍兵士を収容するために使用された。最初の拘留者は、ノルウェーのアニビイ強制収容所から移送され、それによってドイツ国防軍による施設の使用は中断された。その直後、バルバロッサ作戦中に捕まったたソビエト軍の兵士によって囚人の人数が増加した。

 収容所はナチスの親衛隊と秘密国家警察(ゲシュタポ)の職員によって運営され、グリニ収容所の名前を警察囚人収容所と変更した。この名前は、近くの農場や周辺の住宅地に由来したもので、グリニは収容所のすぐ南東に位置しているが、歴史的に小作地(イーレン)はグリニ農場とは関係がなかった。

※バルバロッサ作戦(Wikiより)
 第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始されたドイツ国によるソビエト連邦 奇襲攻撃作戦の秘匿名称である。今日では独ソ戦序盤の戦闘の総称とされる場 合もある。

 最初の囚人は元の刑務所の敷地内に拘留されたが、1942年には収容能力を拡大するために追加の兵舎(バラック)を建設しなければならなくなった。1942年8月、ヴェイダル刑務所収容所がグリニ収容所の分室(サブユニット)として創設された。グリニ収容所は主にノルウェーの政治犯に使われたが、その後は、より一般的な犯罪者の収容に使用されることが続いた。

 多く囚人たちがドイツ国内の収容所に移送されるまでグリニに一時的に収容されていた。合計3402人の被収容者がドイツ全土の収容所に移送される際にはこのグリニ収容所を経由した。

 同様に、1942年の市民的不服従に参加した多くの教師が、グリニ収容所で一日収容され、その後、Jorstadmoen経由でKirkenesに連行された。少数の外国人もグリニには収容されていた。全体として、19,247人の囚人がグリニ収容所を通過し、最大時(1945年2月)には6,208人が収容されていた。

 グリニで殺された総数は不明であるが、秘密国家警察(ゲシュタポ)と警察は拷問の目的でこの地域を頻繁に使い、少なくとも8人が処刑された。 イギリスの空輸隊はグライダーを派遣し、ノルウェーの企業ノルスク・ハイドロの重水プラントを破壊しようとしたが、このフレッシュマン作戦は悪天候のためにノルウェーで墜落し失敗した。

 被害を受けなかった5人の生存者は、1943年1月18日までグリニ収容所で捕虜となり、ゲシュタポに近くの森に連れて行かれ、目隠しをして背後から頭部を撃たれて射殺された。これはジュネーブ条約に違反した戦争犯罪であった。こうした捕虜の射殺の執行は、通常Akershus FortressまたはTrandumskogenで行われた。

 Fannrem、Kvanangen、Bardufossを含むノルウェーの他の地域の収容所は、グリニ方式の一部として組織されていた。ドイツ軍はグリニからあまり遠くないHusbyでも軍事キャンプを維持した。

刑務所生活

 ドイツ占領軍は警備員以外は、収容所には、ごくわずかな人員しか投入しなかった。グリニでは多くの政治家、学者、文化人等が拘留されていたため、一定レベルの施設内組織ができあがっていた。 囚人は、製造、農業、その他の手作業をしながら働いていた。この手作業の多くは収容所外で行われていた。何人かの拘留者は戦前の専門を維持し、文学史家フランシス・ブルのように、秘密裏に数回の講演を行い、グリニ滞在中の3年間で書いた3冊の本を出版した者もいた。

 グリニの食事は粗末なものだった。戦後、解放されたノルウェー人のナチス捕虜がナチス政権の捕虜よりも良く扱われたとして、民衆の間で、ある種の騒動となったことがあったが、なかでも、ノルウェー人囚人の刑務所での食事はずっと良かった。その一方で、グリニではドイツの同様の収容所に比べ、レジスタンスの囚人たちにはかなり親切だった。

戦争後
 1945年5月にノルウェーが解放された後、第二次世界大戦後のノルウェーでの法的制裁の一環として、反逆または利敵協力で裁判を受けるか、有罪判決を受けたノルウェー人のために、この施設が刑務所として使用された。 「グリニ」という名前は今やノルウェーのレジスタンス運動に関連付けられているので、英雄的な場所として認識されるように収容所の名前をIlebuに改名した。新しい名前は収容所の実際の位置をより反映したものとなっている。

 1945年7月には3,440人が拘禁されていた。収容所の状態は不健康で、夏には脚気が頻発した。一人の警備員は懲罰的な訓練が酷いやり方で行われていたことを報告した。1945年10月13日、国立移動警察庁は略奪を行い、その間に、ラウリッツ・ジェンセン・ドレンフェルド検察官と収容所司令官ヘルゲ・グレディチェの妻は、間違って庭で検挙された。

 グリニ収容所は1951年に閉鎖されたが、同年にIlaという名前で、長期刑を犯した犯罪者のための刑務所「国家刑務所と治安施設」として再オープンした。

 兵舎を含む収容所の多くは解体されている。 1つ保存された兵舎の建物が今日カデタンゲン(Kadettangen)残っている。現在のIla刑務所近くに、博物館ができ、グリニ博物館となっている。保存されていた兵舎バラックは2010年に戻った。

印刷された文書記録

 建築家Odd Nansenはグリニとザクセンハウゼンの日記の大部分を保存しており、その一部は1946年に3巻の本「Fra dag til dag(Day to Day)」として発行された。第1巻は1942年1月から1942年8月まで、第2巻は1942年8月から1943年8月までをカバーし、第3巻はナンセンのザクセンハウゼン滞在をカバーしている。

 1946年と1947年には、August LangeとJohan Schreinerによって編集された2巻の書籍「Griniboken(The Grini Book)」が数名の被拘禁者の協力を得て発行された。最初の巻は、グリニ収容所における数年間の日常生活を描いており、死を宣告され、処刑を待つ、「女性部門」、「Haft部門」(男性と女性のための分離病院)、「パラシュート(Fallskjermen)」に関する別々の記事を含んでいてた。

 第2巻は、労働、農業、医療制度などの内部組織をより詳細にカバーし、文化的および宗教的生活についても言及している。外部の場所(Kvanangen、Kongsvinger、Bardufossなど)について説明している。また、ニュースサービス、スパイ、開発された秘密の指紋言語などグリニにおけるレジスタンスの秘密に関する章もある。

 Borre R. Giertsenの1946年の書物( Norsk fangeleksikon)Grinifangene(ノルウェーの囚人たちの百科事典:グリニの囚人たち)には、グリニのドイツ人職員の概要と1941年3月15日にアニビイで投獄されたSolvarの人質から始まる囚人たちの時系列順の名簿が含まれている。

被収容者
・ラグナル・フリッシュ 経済学者
・オッド・ハッセル 物理化学者
・ペッテル・フークステット 元スキージャンプ選手、元サッカー選手
・アルノル・コングスゴール 元スキージャンプ選手
・アスビョルン・ルート 元スキージャンプ選手
・ビルゲル・ルート 元スキー選手
・シグムント・ルート 元スキージャンプ選手
・Odd Nansen 建築家

関連項目
List of Grini prisoners
List of Nazi concentration camps

文献
Christensen, Trygve (1995) (Norwegian). Barum og krigen 1940?1945. Bekkestua: Barum Public Library. ISBN 82-991713-5-0.
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Nansen, Odd (1946) (Norwegian). Fra dag til dag. Fra 22. august 1943 til 28 april 1945. 3. Oslo: Dreyer. pp. 1?302.

Soderman, Harry (1946) (Norwegian). Polititroppene i Sverige. Oslo: Gyldendal.
Vokso, Per, ed (1984). “Slipp fangene los - det er fred” (Norwegian). Krigens Dagbok. Oslo: Det Beste. p. 525. ISBN 82-7010-166-4.


出典:Wikipedia


欧州におけるナチスドイツの強制収容所。地図上最北のノルウェーにグリニ強制収容所がある。
出典・Source:Wikimedia Commons
I, Dennis Nilsson, CC 表示 3.0, リンクによる

Den siste appel pa Grini fangeleir, feiring av frigjoring og fred, siste apell pa Grini fangeleir, oppstilling, musikkorps, brakker. 
グリニ収容所の最後のアピール、解放と平和の祝典、整列、楽団、兵舎を撮影したもの。
出典・Source:Wikimedia Commons., CC BY-SA 4.0, Link
オスロ近郊のフィスケーヴェーリンにある拘留施設
出典・Source:Wikimedia Commons
By Unknown author, Public Domain, Link
新しく任命されたノルウェーのハーマル警察官で起訴当局の長であるSverre Knutsenが、ソ連の捕虜たちに向かってハーマル近くの収容所、おそらくヴァンサーセンから解放されたことを伝えている。出典・Source:Wikimedia Commons
By Eyolf Knutsen (1901 - 1995) - Photography
by Eyolf Knutsen (1901 - 1995), my grandfather. His photographic
material, including negatives was all willed to me., CC BY-SA 2.0, Link

出典・Source:Wikimedia Commons
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