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アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2003~2020
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

 ポンペイ遺跡ブログ
Pompei Ruins Blog1
    
青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo  
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 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

    
アマルフィの位置    ポンペイの紋章    イタリア国旗

◆ポンペイ遺跡ブログ1  ソレントからポンペイ

 半日時間をとってソレントからポンペイにでかけた。

 私がポンペイに関心を持つのは、私たちの環境総合研究所の別荘(保養所)が北軽井沢にあることに関連している。別荘の比較的近くに浅間山がある。


ソレントからポンペイへ   出典:Google Map より青山が作成

 以下の記述にあるように、ヴェスヴィオ同様、活火山の浅間山は、天明3年(1783年)に大噴火し、その火砕流によって浅間北麓の吾妻郡鎌原村、今で言う群馬県嬬恋村一帯に住んでいたひとびと1000人以上が亡くなったという。

 たまたま火砕流に早く気づき、鎌原地区に今もある鎌原観音堂に階段を上り、逃げ込んだ93名のみ助かったとされいる。

 火山災害から命を救った観音堂は厄除け信仰の対象となっている。 この災害では当時の村の人口が600人程であり、477名もの人命が失われたという。鎌原観音堂の階段の高さ分が生死の分かれ目になったという。


天明3年(1783)の浅間山大噴火鎌原村

 
天明3年の大噴火は5月9日にはじまり、7月26日以降は絶え間ない噴火が続いた。8月4日には遂に吾妻火砕流が発生。翌5日にはあの悲惨な鎌原火砕流と鬼押し出しの溶岩流を起こし、しばらく終息に向かった。

 この噴火はすごい者で、「浅間山変異記」によると、「8月5日、暁4時より甚だしき大焼く、8時より11時に至る3時間は前代未聞の噴火にて、鳴動の激烈なること千萬の雷、一度にとどろくというも愚かなり。総身唯是。恐怖の魂。痛烈なる響音は、棒をもって胸を突き倒すごとくなり」と記されている。

 噴煙は関東に流れ、砂石を含む降灰は離山以東の軽井沢に4尺(焼く1.32m)、碓氷峠に5尺余り、松井田2尺、安中・高崎は1尺、遠く江戸にも一寸あまり(焼く3.3cm)に及んだという。浅間北麓の吾妻郡鎌原村を中心に火砕流に見回れ、犠牲者は総数1,370余名にのぼった。3尺を越す熱灰をこうむった地域の植物はほとんど死滅したと思われていた。


                 
 (長野県立小諸高等学校地学クラブの研究より)


 浅間山大噴火の被害については、群馬県指定文化財のなかに以下のようなきじゅつもある。


 天明3年の浅間山噴火により、旧鎌原村落は土石流に襲われ、118戸、477人、馬165頭は一瞬のうちに流失し、台地にあった観音堂だけが唯一の建物として残りました。 その後、生き残った90数名の人たちが被災者の供養を続けながら、村の再建に努めてきました。

                      出典:群馬県指定文化財


 
私たち環境総合研究所の別荘(保養所)はその鎌原観音堂のすぐ近くにあることもあり、浅間山大噴火との関連でヴェスヴィオ山の大噴火のことが気になっていた。


グーグルアースで3次元展開した浅間山 作成:青山貞一

グーグルアースで3次元展開した浅間山の火口部分 作成:青山貞一


 下図は、ヴェスヴィオ山大噴火による影響範囲を示したものである。おそらく風向の関係でソレントは影響、被害を免れ、またアマルフィ海岸地域はソレント半島の高い山脈が壁の役割をすることで甚大な被害を免れたことが推測される。


ヴェスヴィオ山大噴火による影響範囲
L'eruzione del 79 d.C.
Source:Da Wikipedia, l'enciclopedia libera.(イタリア語版ウィキペディア) 

  以下はヴェスヴィオ山の大噴火による火山灰と火砕流がポンペイの町を襲ったときの史実の一部である。なお、その詳細は、イタリア語版のウィキペディアはじめ多くの文献・資料がある。ここでは概括するにとどめておく。


AD79年のヴェスヴィオ大噴火とポンペイ

 ポンペイはローマ帝国の属国となり、ローマ人の余暇地として栄えた。最盛期の人口は約2万人といわれる。噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに使者を出すが、市は壊滅したあとだった。市民の大多数はローマなどに逃げたが、助からなかった市民も多くいた。

 軍人でもあった博物学者の大プリニウスは、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙に巻かれて死んだことが甥の小プリニウスによる当時の記述により知られている。現代のポンペイは人口25,751人のイタリア共和国カンパニア州ナポリ県のコムーネの一つであり、その中心部は古代遺跡とは少し離れている。

 .....

 紀元62年2月5日、激しい地震がポンペイを襲った。これにより、ポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。町はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全に終わらない前の紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続け、翌25日に完全に地中に埋まった。

 当時の、唯一の信頼できる記録は、死亡した大プリニウスの甥の小プリニウスが歴史学者タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂、火口付近から、松の木のような形の暗い雲を見た。雲は山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだ。そして雲は火口から海までを覆った。小プリニウスが書いたこの現象は、現在では火砕流として知られる。

 これは、火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩れのように流れる現象である。プリニウスは、爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れた、と述べた。さらに、灰がどんどん積もり、彼がいた村から逃げなければならなかった。そして、海の水がみるみる引いていき、「津波」がおきた。

 ただし、当時のヨーロッパ人は津波(Tsunami)という言葉を持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。プリニウスの次の記述は、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかった、と続いている。大プリニウスはこの現象を調査するため、船で再び陸に向かったが、窒息して死んだ。二酸化炭素中毒によるもの(訳者註:二酸化硫黄のことか?)と現在では考えられている。

出典:(Wikipedia



グーグルアースで3次元展開したヴェスヴィオ山 作成:青山貞一



グーグルアースで3次元展開したヴェスヴィオ山の火口部分 作成:青山貞一



ヴェスビオ山大噴火の影響範囲 L'eruzione del 79 d.C.
ソレント半島の付け根、アマルフィ海岸にもかなりの灰が落ちたことが分かる
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 3.0, Lien


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