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メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド
2200km走破


ジャコバイトについて1


青山貞一
Teiichi Aoyama  
池田こみち Komichi Ikeda
2017年12月10日公開予定
独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁
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 ネス湖  アーカート城  アーカート城博物館  フォート・オーガスタス
 フォート・ウィリアム1   フォート・ウィリアム2   グレンコー  
 グレンコーの大虐殺1  グレンコーの大虐殺2  グレンコーの大虐殺3
 グレンコーの大虐殺4  グレンコーの大虐殺5
ジャコバイトについて1  ※ ジャコバイトについて2

 これはメアリー・ステュアート亡き後、スコットランドのスチュアート朝系のジェームス二世から英国議会が王位を奪い、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)を英国王位に即位させたこと(これを名誉革命という)により、スコットランド、イングランド、アイルランド、フランスを巻き込み、ジェームス二世の王位復権を願うジャコバイト(ジェームス二世を意味する)について要約しています。

ジャコバイト( Jacobite)要約

 ジャコバイト( Jacobite)は名誉革命(以下参照)で亡命した国王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)とその子孫を,正統のイギリス君主として支持した人々。ジェームズ派の意で,その名称は,ジェームズ Jamesのラテン語形ヤコブス Jacobusに由来します。

 フランスのサンジェルマンにあった亡命宮廷に仕えた者も,イギリス国内にとどまった者もいました。彼らはまずフランス王ルイ 14世の援助を得てイングランドのウィリアム3世の打倒とジェームズの復位を策し,1696年ウィリアム3世暗殺計画を試みました。

  1714年ハノーバー朝が成立すると,翌年彼らは,大王位僭称者 J.F.E.スチュアートを擁して「十五年の反乱」を起しましたが鎮圧されました。

 ※(参考)ハノーヴァー朝(Hanoverian Dynasty)
  1714年から1901年まで続いたイギリスの王朝です。ステュアート朝
  の断絶を受け、ドイツ北部の領邦君主の家系であったハノーヴァー
  家から国王を迎えて成立しました。


 続いてオーストリア継承戦争中に,小王位僭称者 C.E.スチュアートをスコットランドに迎えて「四十五年の反乱」を起しましたが,再び失敗し,こののち彼らの勢力は衰えました。

名誉革命要約

 名誉革命(Glorious Revolution)は、1688年から1689年にかけて、ステュアート朝のイングランドで起こったクーデター事件です。 王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)がイングランド王位に即位しました。

 これにより「権利の章典」が発布されました。実際には小規模の戦闘がおこり無血だったわけではありませんが、当時まだ記憶に新しいイギリスの内戦に比べると無血に等しいということで無血革命とも呼ばれています。清教徒革命と併せて「イギリス革命」と呼ぶ場合もある。

 本稿の以下の出典はWikipedia です。

概要

 1688年、名誉革命とその体制はジェームズ2世を追放、ジェームズ2世の娘であるメアリーと夫でジェームズ2世の甥のオランダ総督ウィレム3世をオランダから招聘、メアリー2世・ウィリアム3世として戴冠させました。それにともない、議会が王位の継承権を1701年の王位継承法によって規定しようとしました。

 しかし臣下である議会が王位継承に口をはさむという、当時としては革新的な制度に反感を持つ人々は多かったといえます。

 議会は、イングランドは国教会が主流のプロテスタント国であるがジェームズ2世はカトリックであること、さらに当時、非国教会信徒は政府官職につくことが禁じられていたことを理由にしましたが、それをもって王の海外追放や議会による王位のコントロールを正当化することには疑問を持つ風潮もあったのです。


 そうした疑問を持つ人々の間にも温度差はありましたが、とくに熱心にジェームズ2世とその正嫡(男系子孫)をイングランド王に復位させるべきとして、ジェームズを支持した人たちをジャコバイトと呼びます。また、彼らのとった政治・軍事的行動はジャコバイト運動とよばれます。

 ジャコバイトは、名誉革命以後半世紀にわたって、後述する国王暗殺未遂事件や反乱などを起こし、それらの運動は名誉革命体制に対する深刻な脅威となって、時に政権を動揺させました。しかし運動は次第に尻すぼみになっていき、ウォルポールらホイッグの政略もあって、ついに実を結ぶことはありませんでした。

ジャコバイトとそれを支援する勢力

 前述のとおり、名誉革命後も王位は世襲によって守られるべきであり、議会が王位継承に関与すべきでないという考え方は依然根強かったのです。このイデオロギーはイングランド内外で一定の支持をあつめ、ジェームズ2世とその後裔(こうえい:子孫)が核となりました。

 ジャコバイトは特にスコットランドやフランスで強く、イングランドの外側からうかがう形が多かったといえます。

 ここでは、イングランド、スコットランド、アイルランド、そしてブリテン諸島以外のジャコバイト、および支援した勢力・イデオロギーなどについて言及します。

イングランドのジャコバイト

 イングランド内では、ジャコバイトが高度に組織化されることはあまりなかったものの、ウィリアム3世・メアリー2世両王よりジェームズ2世を依然支持する声もありました。

 特に保守派であったトーリーに多かったといわれますが、その中でも公然とジャコバイトであると言明する者から、板挟みになって悩む者、名誉革命を支持する者など多様な反応に分かれました。

 これはトーリーは世襲君主政の原則を尊重しており、この意味では正嫡継承を主張するジャコバイトの立場に近かったためです。

 一方でトーリーは国教会維持の性格も併せ持っており、カトリック信者のジェームズを王に戴くことへの疑問もありました。しかし議会での反対勢力であるホイッグのウォルポールがおしすすめた「ジャコバイトは危険分子である」というキャンペーンや国際情勢から、公然とジャコバイトを名乗ることは次第に政治生命を危険にさらす行為となっていったのです。

 またこれとは別に、その時々の体制に不満を持つ者や失地回復を望む者が、ホイッグ・トーリーに関わらず、亡命したステュアート家に希望を託すためにジャコバイトとなる例もありました。

スコットランド・アイルランドのジャコバイト

 ジャコバイトの最大の支持基盤がスコットランド、特にハイランド地方でした。もともとスコットランドにはイングランドとの根深い対立意識があったばかりでなく、ステュアート家がスコットランド出身ということもあり、スコットランド人はジェームズに同情的でした。

 特に1707年に批准されたイングランド・スコットランド合同法は、歴史的・宗教的対立を抑えこんで経済的利益を優先させたものでしたが、すぐにはスコットランド側が期待していたほどの利益をもたらさず、イングランドに対する不満は高まってゆきました。1715年の反乱ではマー伯ジョン・アースキンという指導者を得て、スコットランドのほとんどが反乱軍の手に落ちたのです。

 一方アイルランドでは、宗教的側面(アイルランドはカソリックが多い)からジェームズが支持されました。清教徒革命以降、アイルランドは少数の国教徒が多数のカトリック信徒を支配する構図が成立しており、カトリックに対する宗教的寛容を求めてジャコバイトとなる者が少なくなかったのです。

 ジェームズ2世からアイルランドの統治を任されたティアコネル伯リチャード・タルボットは、カトリック支配の浸透とジャコバイトの拡大に尽くしてアイルランドの大半を制圧、アイルランドをジャコバイトの拠点に変えて行きました。

国外の支援

 ジェームズ2世はカトリックであったため、カトリック国でもあり、大同盟戦争におけるイングランドの敵対国でもあったフランスは、ジャコバイトを積極的に支援しました。

 特にルイ14世はこの支援に熱心であり、その在位中はジャコバイト運動が盛んでした。ルイ14世没後は、ジャコバイトやステュアート家に冷淡になったフランスに代わって、イタリア諸都市やスウェーデン、スペインなどが後ろ盾となりました。

ジャコバイト運動の経緯

 ジャコバイトはフランスなど海外勢力の後押しを受けて、イングランド内外で大小さまざまな政治的・軍事的行動を起こし、ステュアート朝の復活を企図しました。

 特に1715年と1745年の反乱はそれぞれ「the 'Fifteen」「the 'Forty-Five」と呼ばれ、イングランドの人々の記憶に長く残る事件となりました。後述するこうした反乱などに、17世紀末から18世紀前半の革命政府はすくなからず動揺しました。しかし1745年の反乱以降、ジャコバイトが組織化されることはほぼなくなり、名誉革命転覆の危機はひとまず去ったといえます。

ウィリアマイト戦争 

 ウィリアマイト戦争は、ウィリアム3世とメアリー2世の共同統治が決定してわずか2日後の1689年2月15日に起こりました。ジェームズが王位を取り戻そうと、亡命先のフランスからルイ14世に借りた軍を起こしたのです。

 ジェームズはアイルランドに上陸し、当地のジャコバイト勢力と結びついて、またたくうちにアイルランド全土を席巻しました。これを受けて5月5日、イングランドは対仏同盟に参加し、フランスに宣戦布告します。

 ウィリアム3世は自ら軍を率い、1690年7月1日、アイルランドのダブリン近郊ボイン川でジェームズ軍を破りました(ボイン川の戦い)。ジェームズはまだ余力を残していたにもかかわらずフランスに逃げ帰り、アイルランド各地で起こっていた武力抵抗も1691年10月に鎮圧されました。

 これ以降、カトリック教徒は公職・法律職を禁じられ、土地所有や借地も厳しく制限され、アイルランドは少数のプロテスタント勢力によって支配されることとなりました。

 また、これまでイングランドはヨーロッパ大陸の争いごとにあまり参加してこなかったのですが、この戦争からイングランドも大同盟戦争に巻き込まれ、「第2次百年戦争」ともよばれる対仏戦争を繰り返し、ヨーロッパの覇権争いに加わることになったのです。


つづく     スコットランド総目次へ