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メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド
2200km走破


グレンコーの大虐殺2


青山貞一
Teiichi Aoyama  
池田こみち Komichi Ikeda
2017年12月10日公開予定
独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁
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 ネス湖  アーカート城  アーカート城博物館  フォート・オーガスタス
 フォート・ウィリアム1   フォート・ウィリアム2   グレンコー  
 グレンコーの大虐殺1  グレンコーの大虐殺2  グレンコーの大虐殺3
 グレンコーの大虐殺4  グレンコーの大虐殺5
  ※ジャコバイトについて1  ※ ジャコバイトについて2


◆大虐殺の背景    英文出典:Massacre of Glencoe

名誉革命体制


 17世紀末のブリテン島において、北端のスコットランド・ハイランド地方の人々はロンドン・ウェストミンスタの支配力が及ばない「化外の民」でした。地理的に遠いばかりでなく、交通の便も劣悪で、しかも言語・民族も異なっていました。

 1688年の革命によって王位についたウィリアム3世はウィリアマイト戦争を皮切りにフランスと交戦状態に入っており、北方の地を従わせることは対フランス戦略においても、また屈強をもって知られるハイランド人を味方に引き入れるためにも必要と考えられていました。

 ※名誉革命
  名誉革命はは、1688年から1689年にかけて、ステュアート朝のイング
  ランドで起こったクーデター事件。 王ジェームズ2世(スコットランド王
  としてはジェームズ7世)が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メア
  リー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)がイングラ
  ンド王位に即位した。これにより「権利の章典」が発布された。実際に
  は小規模の戦闘がおこり無血だったわけではないが、当時まだ記憶に
  新しいイギリスの内戦に比べると無血に等しいということで無血革命と
  も呼ばれている。清教徒革命と併せて「イギリス革命」と呼ぶ場合もある。 


 一方革命によって王の座を奪われフランスに亡命したジェームズは、革命の原因でもある自身のカトリック信仰によって、アイルランドやフランスで支持されていました。

 特にルイ14世とは親密な関係で、ルイ14世はたびたびジェームズのために、あるいは戦略上の理由から、ウィリアム3世のイングランドと砲火を交えていました。ハイランド氏族は、後述するように、海のものとも山のものとも知れないウィリアムよりも、ジェームズにおおむね同情的でした。

ジャコバイトとウィリアマイトの戦闘

 ダンディー子爵などジャコバイト(名誉革命の反革命派)急先鋒は、ウィリアマイト戦争(アイルランド)に呼応するかたちで、革命に対してただちに武装蜂起で応えました。イングランドはアイルランド・スコットランドを同時に相手することになり、結果キリクランキーの戦いでの敗北という結果を招きました。

 ※ジャコバイト(Jacobite)
  ジャコバイトは、1688年イングランドで起こった名誉革命の反革命
  勢力の通称である。彼らは追放されたステュアート朝のジェームズ
  2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支
  持し、政権を動揺させた。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン
  語名(Jacobus)である。


 しかし、この戦いでスコットランド・ジャコバイトの核であったダンディー子爵が戦死し、つづくダンケルドの戦いではイングランド側が勝利をおさめたのです。スコットランドはもとより上から下までジャコバイト一色というわけではなかったのですが、2つの戦いによって、とにもかくにも名誉革命体制に従う風潮が主流となったのです。

 戦いに勝利したといっても、ただちにスコットランドの安定までは意味しなかのです。ハイランドを中心に、各地でジャコバイトがくすぶっていました。南の敵国フランスと対峙するうえで、北方ハイランドの不安は厄介な問題のひとつでした。このような事情から、イングランド政府はハイランドに対して、何らかの方法によって実力を見せつける機会が必要だと考えていました。

名誉革命期のハイランド

 名誉革命期のブリテン島北端ハイランドにおいて、2つの理由から革命に反対する思潮が主流でした。ひとつは親近感の問題で、ハイランドからみれば遥か彼方のネーデルラント総督よりも、スコットランド王家の流れを汲むジェームズが王として望ましいものでした。

 ※ハイランド:スコットランド北部の山岳地帯を意味します。

 もうひとつはタニストリー(ケルト文化圏の王位・族長位継承制度)を始めとするスコットランドの法と伝統です。イングランドと違って法的にウィリアムの王位継承を正当づける根拠が薄かったのです。臣下が王を追放できるのは、スコットランドの法によれば、民意にそむいてイングランドに屈服したときだけでした。

 とはいってもハイランド人は戦闘に敗れたばかりで、さしあたりウィリアムに従ったほうが無難だという声もあり、内部で揺れていました。ウィリアム支持を鮮明に打ち出したキャンベル氏族は、ハイランド氏族社会のなかでは例外的な存在でした。したがって国王ウィリアムやイングランド政府は、キャンベル氏族を介してハイランドの情報を得たり、また懐柔させようとしたりもしました。

カトリックへの敵意

 1641年、清教徒革命の直前にアイルランドで虐殺事件がおこり、プロテスタント住民が犠牲になりました。これは後になって誇大宣伝だったことが明らかになりましたが、当時はこれによるカトリックへの恐怖と敵対心が根強く「野蛮で残忍なカトリックに対しては何をしてもよい」という風潮がありました。ハイランドはカトリックが多いと考えられており、そのことがイングランドの敵愾心をあおったのです。


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