シルクロードの今を征く Now on the Silk Road ヴェネツィア( Venezia、イタリア) ヴェネツィア共和国の歴史-5 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2019年4月20日 更新2020年3月16日、改訂公表予定2020年7月1日 独立系メディア E-wave Tokyo |
<ヴェネツィア総合メニュー> <はじめに> 共和国の歴史1 共和国の歴史2 共和国の歴史3 共和国の歴史4 共和国の歴史5 古き良き時代のヴェネツィア共和国 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ◆ヴェネツィア共和国の歴史-5 17世紀のつづき アントニオ・フォスカーリニはヴェネツィア議会の議員であると同時に駐イングランド大使でしたが、大使在任中の内通、ならびに帰国後にイスパニア王国のスパイとして働いた容疑で告発されました。前者については無罪となりましたが、後者について有罪となり、1622年にピアッツェッタの絞首台に吊るされました。 しかし、数ヶ月後に十人委員会は、彼は無実であり、陰謀の犠牲者であったことに気が付きました。彼の名誉は回復されました。この事件はヨーロッパ中に知れ渡ることとなりました。 1628年から始まるマントヴァ継承戦争の際にはフランス王国と同盟してハプスブルク家およびサヴォイア公国と戦いました。ヴェネツィア軍は神聖ローマ帝国の攻撃を受けていたマントヴァの救援に向かいましたが、撃破されました。 戦争は1631年にフランス王国の事実上の勝利として終結しましたが、ヴェネツィアはこれに貢献しなかったと言えます。戦争の影響として1629年から1630年にかけてヴェネツィアで黒死病が流行し、16ヶ月の間に5万人が死亡しました。これは全人口のおよそ3分の1でした。これに関連してサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂が建設されました。 1638年、ヴェネツィア海軍がクレタを巡回している間に、アルジェやチュニスを拠点とするバルバリア海賊が16隻のガレー船でアドリア海に侵入しました。海軍が戻った頃には、海賊はヴァローナに拠点を再構築していました。ヴェネツィアの司令官マリノ・カッペロは海賊を攻撃し、拠点を砲撃し、敵船を捕獲しました。これにより3600人の奴隷が解放されました。これに対しオスマン帝国は駐コンスタンティノポリスのヴェネツィア大使アルヴィーゼ・コンターリニを投獄しました。この時は外交努力により戦争は回避されました。 しかし6年後にオスマン帝国はクレタ最大の港カンディアを攻撃したため交戦、クレタ戦争は25年続き、17世紀のヴェネツィアで最大の懸案事項でした。1645年に戦争はヴェネツィア本土に飛び火しました。オスマン帝国はダルマチアを攻撃しましたが、アドリア海での優位を生かしたヴェネツィアはこれを防ぎました。 しかし、同年8月22日、クレタの要塞カニア(現在のハニア)は陥落しました。1647年の8月から9月にかけて、オスマン帝国はシベニクを攻撃しましたが失敗しました。翌年、ヴェネツィアはクリッサを始めとするいくつかの要塞を奪還しました。 ヴェネツィアの基本方針はダーダネルス海峡を封鎖することクレタのオスマン軍への補給を断つことであり、実際に1655年6月21日の戦闘やダーダネルス海峡の戦いで勝利しましたが、クレタでの戦況は好転しなかったのです。1657年7月17日から19日まで3日間続いた戦闘では、ラッツァロ・モチェニーゴは手折れたマストの下敷きとなって死亡しました。 フランス・スペイン戦争が1659年に終結すると、ヴェネツィアに対するキリスト教諸国からの支援が増大しました。1666年にカニアの奪還を試みたが失敗しました。1669年には、カンディアを包囲するオスマン軍に対し、フランス王国の援軍が陸から、モチェニーゴの部隊が海から攻撃を行いましたが、これも失敗しました。 フランス軍は撤退し、カンディアには3600人の守備兵が残るばかりとなりました。フランチェスコ・モロシーニは1669年9月6日に降伏しました。クレタは、いくつかの小拠点を除いて割譲されました。ティノスやキティラといった島々やダルマチアはヴェネツィアが保有し続けました。 1684年、前年の第二次ウィーン包囲の勝利からキリスト教国が反撃、大トルコ戦争の開始においてオスマン帝国に対抗するため、ヴェネツィアはオーストリアと神聖同盟を結びました。後にロシア帝国も同盟に参加しました。 モレア戦争の初期に、フランチェスコ・モロシーニはレフカス島を占領し、ギリシアの港の奪還に向かいました。1685年6月のコロニ上陸に始まり、8月のパトラ、レパント、コリント占領までに、モレア(ペロポネソス半島)はヴェネツィアの支配下に入りました。9月にアテネを攻撃した際、ヴェネツィアの砲撃はパルテノン神殿に命中しました。また、ヴェネツィアはダルマチアからもオスマン帝国の勢力を駆逐しました。 1688年のネグロポンテ奪還は失敗しましたが、フランチェスコ・モロシーニの後継者は、大艦隊を派遣して1695年にミティリニで、1697年6月6日にアンドロスで、1698年にダーダネルス海峡で勝利しました。しかしギリシアを奪還するには至らず、1699年にカルロヴィッツ条約ではオーストリアやロシア帝国に比べヴェネツィアが得た領土は僅かでした。過去2世紀の間にオスマン帝国に奪われた東地中海の拠点を奪還することはできませんでした。 1700年、スペイン継承戦争の前触れとして、フランス王国とハプスブルク家は共にヴェネツィアと同盟すべく使者を派遣しました。ヴェネツィア政府は不透明な成り行きを警戒して中立を保ちました。結局、戦争の終結までヴェネツィアは中立を貫いたのです。 衰退 コドローイポ郊外パッシリアーノのヴィッラ・マニン。カンポ・フォルミオ条約締結 に際してナポレオンは、ドージェであるルドヴィーコ・マニンの所有するこの館に 滞在した。 Source: Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの ヴェネツィアに海の恵みを与える ネプチューン(1748-1750)。 この絵は、海の支配と貿易から得られる ヴェネツィアの富と力を表したものである。 Source: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 1714年12月、オスマン・ヴェネツィア戦争が勃発しました。オスマン帝国はティノスやアイギナを占領し、コリント地峡を越えてコリントを占領しました。ダニエル・ドルフィン率いるヴェネツィア艦隊は、モレアの救援に向かうよりは戦力を温存すべきではないかとの意見もあり出足が遅れました。 艦隊がモレアに到着した時には、ナフプリオ、モドン、コロニおよびマルヴァージアは陥落していました。イオニア諸島のレフカス島と、クレタのスピナロンガおよびスーダはカンディア陥落後もヴェネツィア領でしたが、この時放棄されました。オスマン帝国はさらにコルフに上陸しましたが、防衛隊がかろうじて撃退しました。 オスマン帝国はオーストリアとも戦端を開き(墺土戦争)、バルカン半島で交戦していましたが、1716年8月3日、オスマン帝国はペーターヴァルダインの戦いでオーストリアに敗北、翌1717年のベオグラード包囲戦でも大敗しました。 これを受けてヴェネツィア海軍は1717年と1718年にエーゲ海およびダーダネルス海峡へ侵攻しましたが、芳しい戦果は得られませんでした。1718年7月21日のパッサロヴィッツ条約でオーストリアは領土を著しく拡大した一方、ヴェネツィアはアルバニアとダルマチアで僅かに領土を広げつつもモレアを失いました。これが、ヴェネツィアがオスマン帝国と戦った最後の戦争でした。 滅亡の前年、1796年時点でのヴェネツィア領。 Source: Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる トスカーナ大公国がティレニア海に面して建設したリヴォルノの港は、北海方面との貿易により発展しました。さらにアドリア海に面した教皇領のアンコーナや1719年に自由港となったハプスブルク家のトリエステのために、アドリア海はもはやヴェネツィアの海とは呼べなくなっていました。 また、ジェノヴァ共和国は古くからヴェネツィアの競争相手でした。これらの諸都市によりヴェネツィアの通商は18世紀に衰退しました。ヴェローナを始めとする本土東方の街でさえ、生活物資はジェノヴァやリヴォルノから輸入していました。さらにマグリブ沿岸の海賊により、ヴェネツィア商人は自由に往来することができなくなっていました。 カルロ・コンタリーニやジョルジョ・ピサーニらは、少数の有力貴族による寡頭制を廃することを提案しました。しかし、そうすることによる混乱を恐れたドージェパオロ・レニエールは反対しました。さらに一部の勢力がこの提案を政権転覆の陰謀であると主張したことにより、カルロ・コンタリーニはカッターロの砦に、ジョルジョ・ピサーニはヴェローナのサン・フェリーチェの城に、それぞれ幽閉されました。 1784年から1786年にかけて、チュニスの海賊はマルタの聖ヨハネ騎士団により受けた被害の保証をヴェネツィアに要求しました。もちろん、聖ヨハネ騎士団はヴェネツィアの管轄ではないから、これは言いがかりです。しかし外交による解決は失敗しました。 アンジェロ・エモ率いるヴェネツィア艦隊はチュニスを封鎖し、1784年11月と1785年5月にスースを、1785年8月にスファックスを、同9月にラ・コレッタを、1786年にビゼルトを砲撃しました。しかし、それ以上の成果を挙げることができず、議会はエモと艦隊をコルフに呼び戻しました。エモの死後、チュニスとの講和が成立しました。1792年までに、ヴェネツィアの商船は309隻にまで減少していました。 1789年に新興貴族のルドヴィーコ・マニンがドージェに選出されました。選挙のための費用は18世紀になって高騰していました。貴族のピエトロ・グラデニーゴは「フリウーリ人のドージェが誕生した。共和国は死んだ。 」と述べました。 滅亡 コドローイポ郊外パッシリアーノのヴィッラ・マニン。カンポ・フォルミオ条約締結に際してナポレオンは、ドージェであるルドヴィーコ・マニンの所有するこの館に滞在しました。 ヴェネツィア共和国はもはや自力で防衛することができなくなりました。1796年の時点でヴェネツィアが保有していた艦隊は4隻のガレー船と7隻のガリオット船のみでした。また陸軍も、おもにクロアチア人傭兵からなるわずかな旅団があるのみでした。 1796年の春、フランス共和国のナポレオン・ボナパルトはピエモンテを攻略し、敗走するオーストリア軍をモンテノッテ(モンテノッテの戦い)からローディ(ロディの戦い)へと追撃しました。ナポレオン率いるフランス軍は、オーストリア軍を追求して中立を保っていたヴェネツィアの国境を越えました。 年末までに、アディジェ川までのヴェネツィア領は占領されました。また、ヴィチェンツァ、カドーレ地方 (Cadore) およびフリウーリはオーストリアが支配しました。翌1797年の戦争の中で、ナポレオンはオーストリアとの休戦を模索し、アルプスをまたぐオーストリアの領土確保を認めるようになりました。1797年4月18日に調印されたレオーベンの和約は、その条項の大半が秘密にされましたが、ヴェネツィア共和国領をオーストリア領土とすることで休戦が成立しました。 休戦協定は、市街と潟湖上にのみ限ったヴェネツィア共和国の存続を想定していましたが、おそらくは教皇領の犠牲に対する補償でした。ブレシアやベルガモはヴェネツィア共和国に反旗を翻し、一方ほかの地域では反フランスの運動が広がりました。ナポレオンは4月9日、ヴェネツィアに対して戦争をちらつかせて脅迫しました。4月25日に彼は、グラーツでヴェネツィアの代表に以下のように告げました。「異端審問も元老院もたくさんだ。私はヴェネツィアにとってのアッティラとなる」と。 Domenico Pizzamanoは、強引に入港しようとするフランス艦に、リドの砦から砲撃を加えました。5月1日、ナポレオン・ボナパルトはヴェネツィアに宣戦を布告しました。フランス軍はヴェネツィアの街の端にまで迫りました。フランスによって「革命化」されたヴェネト地方の都市では臨時市政府が設立されていました。 5月12日、ヴェネツィア共和国大評議会(Maggior Consiglio)は、臨時市政府に権力を引き渡すことを決議しました。投票総数は512であり定足数には足りず、反対10、棄権5でした。5月16日、ヴェネツィアの臨時市政府が設立されました。 1797年10月18日、ウーディネ郊外のカンポ・フォルミオにおいてフランス・オーストリア間の正式な講和条約が調印されました(ナポレオンは滞在していたドージェ・マニンの館で署名したともいわれれています)。このカンポ・フォルミオ条約によりヴェネツィアとヴェネツィア共和国領はオーストリアが領有することとなり、ヴェネツィア共和国は正式に消滅しました。 古き良き時代のヴェネツィア共和国へつづく |