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ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

ヴェネツィア共和国の歴史-4

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日 更新2020年3月16日改訂公表予定2020年7月1日
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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆ヴェネツィア共和国の歴史-4


source: Wikipedia

 1499年、ヴェネツィアはフランス王ルイ12世と同盟してミラノ公国と戦い、クレモナを得ました。同年、オスマン帝国はレパントを陸と海の両面から攻撃しました。

 アントニオ・グリマーニは航海者であると同時に優れた商人、そして外交官でもありましたが、ゾンキオの戦いで敗れ、フリウーリは再びオスマン帝国に略奪されました。ヴェネツィアは全面戦争への突入を回避するため、軍事基地であったレパント、モドンおよびコロニを割譲しました。

 ロマーニャは公式には教皇領でしたが、現実には小領主が乱立しており、事実上の独立状態にありました。1508年、教皇ユリウス2世は、ロマーニャの支配を取り戻すためにヴェネツィアの勢力を削ぐ必要があると考え、周辺諸国との間にカンブレー同盟を成立させました。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はフリウーリとヴェネトを、イスパニア王国はアプリア港を、フランス王国はクレモナを、ハンガリー王国はダルマチアを、それぞれ欲しました。

 最初にヴェネツィアに侵攻したのはフランス王国です。1509年5月14日、アニャデッロの戦いでヴェネツィア軍は完敗し、フランス王国と神聖ローマ帝国によりヴェネトは占領されました。しかしアンドレア・グリッティが1509年7月にパドヴァを神聖ローマ帝国から奪還し、さらに巧みな外交を展開することによりヴェネツィアは滅亡を免れました。

 アプリア港を割譲することによりイスパニア王国との講和に成功し、また、教皇ユリウス2世はヴェネツィアが滅亡すればイタリアはフランス王国やオスマン帝国に占領されるのではないかと危惧して神聖同盟を結成しました。最終的にはブレシアとヴェローナをフランスから奪還し、アッダ川までの領土を回復しました。諸戦の完敗から巻き返したとはいえ、この戦争により、ヴェネツィアの領土拡大は終わりを告げたのです。

 1537年から1540年の対オスマン帝国の戦争に、ヴェネツィアはイスパニア王国および神聖ローマ帝国のカール5世と同盟して参戦しました。しかし1538年のプレヴェザの海戦でアンドレア・ドーリアを提督とする同盟艦隊は敗北しました。

 1540年にヴェネツィアはオスマン帝国と講和し、サヌード家のナクソス公国を割譲しました。これにより、東地中海の制海権はオスマン帝国のものとなったのです。

 ヴェネツィアのガレー船の漕ぎ手は、初期はヴェネツィア市民のみで構成されていました。後にダルマチア人、クレタ人、ギリシア人なども多く加わりましたが、いずれにせよ1545年までは自由民がこの役に就いていました。

 しかし、ガレー船の増加に十分な漕ぎ手を集めることが難しくなったため、鎖に繋がれた奴隷を漕ぎ手として採用することにしました。これは、諸外国の海軍では古くから行われてきたことです。こうした奴隷による漕ぎ手は、Cristoforo da Canalによって初めてヴェネツィアに導入されました。1563年の時点で、ヴェネツィアの人口は16万8千人に減少していました。


レパントの海戦 Fernando Bertelli作
Source: Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる



レパントの海戦. レパントの海戦. レパントの海戦. レパントの海戦。. レパントの海戦(1571年).
Source: Wikimedia Commons
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 1570年にオスマン帝国はヴェネツィア領キプロスを攻撃し、ファマグスタの街は13ヶ月の間戦い抜いたものの、ついに陥落しました。オスマン帝国の提督ララ・ムスタファ・パシャは、ヴェネツィアの総督マルコ・アントニオ・ブラガディンの皮を剥いで殺しました。

 ヴェネツィアは、イスパニア王国、教皇庁と共に神聖同盟を形成し、ガレー船208隻から成る艦隊を構成しました。このうち110隻がセバスティアーノ・ヴェニエル率いるヴェネツィア船でした。提督はスペイン王フェリペ2世の異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアでした。

 オスマン帝国の艦隊は神聖同盟側とほぼ同数であり、アドリア海をレージナで北上した後パトラ湾のレパントへ補給のため入港しました。神聖同盟側はメッシーナに集結した後、10月7日にレパントのオスマン帝国艦隊を撃破、117隻のガレー船を拿捕しました。

 これがレパントの海戦である。ヴェネツィアはキプロス奪還を希望しましたが、フェリペ2世らが反対したため、神聖同盟はそのまま解散されました。結局、1573年にヴェネツィアはオスマン帝国と講和し、キプロスを割譲しました。1575年時点でのヴェネツィアの人口は17万5千人でしたが、1581年には12万4千人にまで減少していました]。

17世紀


1687年、アテネを包囲するヴェネツィア軍
Source: Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる


 1605年に教皇となったパウルス5世の意向を受けて、バルバロ家のエルモラオ・バルバロらが、聖職者に一般法廷で訴追されない特権を付与すべしと主張しました。ヴェネツィアではこれに反対する意見が多数であり、教皇への反発から、教会への不動産譲渡の禁止と無許可での教会新築の禁止を決定しました。

 そして、これに違反したとして二人の聖職者を投獄した。パウルス5世は、これらの決定が教会法に抵触すると主張し、撤回を要求しました。ヴェネツィアはこの要求に従わず、パウルス5世はヴェネツィアにおける聖務停止を決定しました。

 ヴェネツィアは聖務停止を意に介せず、聖職者達に通常の職務を遂行するよう要請しました。Servite Orderの教会法学者パオロ・サルピは、1606年の時点で神学および教会法に関するシニョーリア(Signoria)の顧問であり、このヴェネツィアの決定を理論面から支えました。この件はフランスの仲介により和解に至り、聖務停止は一年後に解除されました。ヴェネツィアは、法の支配は全ての市民に及び、一切の例外は存在しないことを確認しました。

 1613年から1617年までオーストリアとの間に戦争が行われました。ヴェネツィア政府の記録によれば、その戦争の原因は、ハプスブルク家がウスコッチにアドリア沿岸を攻撃させている、ということでした。ウスコッチ(イタリア語: Uscocchi)は、主としてボスニアやダルマチアのオスマン帝国領からのキリスト教徒難民であり、オーストリアに徴兵されて国境警備の任に就いていました。彼らはセーニャに居住してアドリア海で海賊を行い、ヴェネツィアの懸案事項となっていました。

 ヴェネツィアは1613年にウスコッチ討伐を行い、1613年にオーストリア大公を破りました。さらにオーストリアへ軍を派遣する一方、サヴォイア公国へ資金援助し、イスパニア王国の軍をロンバルディアで足止めさせました。

 この戦争でオーストリアから決定的な勝利を得ることはできなかったものの、1617年の講和条約でハプスブルク家に対し、ウスコッチを内陸へ移住させることに合意させました。

 1617年、イスパニア王国のナポリ総督はアドリア海の支配権をヴェネツィアから奪取すべく艦隊を派遣しました。これに続いて、暴動や反乱の噂がヴェネツィア中を駆け巡り、オーストリアとの戦争のために集められていた各国からの傭兵隊の間で衝突が起こりました。

 これはイスパニア大使ベドマルの陰謀でした。このことをユグノーの船長から知った十人委員会は直ちに3人の容疑者を逮捕し、議会はイスパニア大使の即時送還を決定、イスパニア王国との緊張は1622年に最高潮に達しました。


ヴェネツィア共和国の歴史5につづく