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ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

ヴェネツィア共和国の歴史-3

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日 更新2020年3月16日改訂公表予定2020年7月1日
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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆ヴェネツィア共和国の歴史-3

15世紀

 15世紀初頭に、ヴェネツィアはイタリアへの領土拡大を開始すると共に、ダルマチア沿岸でもイストリアからアルバニアへと拡大しました。ハンガリーのラディズラーオ1世は紛争に敗れてナポリへ逃げましたが、その前に、既に事実上は失っているダルマチア諸都市の支配権を10万ドゥカートで売り渡したのです。

 注)ドゥカート
  ドゥカート(イタリア語: ducato、ハンガリー語: dukát、オランダ語: dukaat、
  ドイツ語: Dukat, Dukaten [duˈkaːt(ən)]、英語: ducat [ˈdʌkət])は、中世後
  期から20世紀の後半頃までヨーロッパで使用された硬貨。同時期を通じ
  て、多様な金属で作られた様々なドゥカートが存在した。ヴェネツィア共和
  国のドゥカート金貨は、中世のヒュペルピュロンやフローリン、または現代
  の英ポンドや米ドルのように国際通貨として広く受け入れられていた。



ドゥカート
フランツ・ヨーゼフ1世の肖像が刻印された、オーストリアのドゥカート金貨。
Source:Wikimedia Commons

CC 表示-継承 3.0, リンクによる



ヴェネツィアのドージェ、ミケーレ・ステーノ(英語版)のドゥカート金貨。表面には、ひざまずくドージェにゴンファローネを授ける聖マルコが描かれている。裏面には、星々を背景に立つキリストが楕円形の枠の中に描かれている。
Source:Wikimedia Commons

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 ヴェネツィアは直ちに、この地域を統治すべく貴族を送り込みました。例えばザーラにはフィリッポ・スティパノヴが赴任した。これは、ミラノ公国のジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティによる版図拡大への対策でした。

 1408年にハンガリー王ジギスムントとの間に停戦が成立しましたが、ヴェネツィアは停戦が失効するや否やアクイレイア、トロギル、スプリト、ドゥラスその他のダルマチア諸都市を占領しました。これにより、ヴェネツィアのアドリア海支配は確固たるものとなりました。また、北東の陸路を確保することは通商の安全のために必要でした。1410年までに、ヴェネツィアは3300隻の軍艦を保有し、ヴェローナやパドヴァを占領しました。

 15世紀のイタリア都市国家では多くの奴隷が売られていました。ヴェネツィアでも、1414年から1423年の間に、1万人程度が売られていました。その多くは妙齢の女性であり、ロシア、ギリシア、ボスニア、グルジア、アルメニア、ブルガリアおよびトルコ出身者が大半を占めていました。


15世紀から16世紀にかけてのヴェネツィア共和国の領域。濃赤は15世紀初頭までの
領土、赤は16世紀初頭までの領土、ピンクは一時的に領有していた土地を示す。黄色
い領域は制海権を持っていた海域、オレンジの線は主要な商業航路、紫の四角は商
業拠点があった場所を示す。
Source: Wikimedia Commons
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 1423年から1457年のフランチェスコ・フォスカリの時代に、ヴェネツィアは版図を著しく広げました。

 1425年にミラノ公国のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと開戦しました。ヴェネツィア陸軍の司令官フランチェスコ・ブッソーネがマクローディオの戦いに勝利したことで、西の国境はアディジェ川からアッダ川へと移りました。これによりミラノ公国との緊張は高まり、1446年にヴェネツィアはミラノ公国、フィレンツェ共和国、ボローニャおよびクレモナの連合軍と戦いました 。


最大版図時のミラノ公国(1400年)
Source: Wikimedia Commons
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 ミケレット・アッテンドロ率いるヴェネツィア軍がカザルマッジョーレで勝利した後、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは死亡し、ミラノで黄金アンブローシア共和国の建国が宣言されました。そこでヴェネツィアはローディやピアチェンツァを占領しましたが、それ以上の進軍はフランチェスコ・スフォルツァにより阻止されました。

 フランチェスコ・フォスカリは、フランチェスコ・スフォルツァに対し、ミラノの支配権を認める代わりにブレシアとヴィチェンツァを割譲させました。しかし、フランチェスコ・スフォルツァの勢力が拡大すると、ヴェネツィアは再びミラノとの戦争に突入しました。結局、事態は1454年のローディの和によって終息しました。ここでは、ベルガモとブレシアがヴェネツィア領であることが確認されました。

 この時点で、現在のヴェネトとフリウーリ、ベルガモ、クレモナ、トレント、ラヴェンナ、イストリア、ダルマチアがヴェネツィア領となっていました。東の国境はゴリツィアおよびオーストリアの公爵領と、南はフェラーラ公国と接していました。海外領土はネグロポンテ(現在のエヴィア島)やアイギナなどでした。


1450年時点でのギリシアにおけるヴェネツィア領
Source: Wikimedia Commons
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 1453年にコンスタンティノポリスがオスマン帝国のメフメト2世により攻められた際、ヴェネツィアは援軍を送りましたが、ついに陥落し、再興した東ローマ帝国は滅亡しました。しかしその後も東ローマ帝国の時代に確立された拠点や利権を維持しようと試みました。オスマン帝国はハンガリーのフニャディ・ヤーノシュやアルバニアのスカンデルベクらに敗北しましたが、西への野心を捨てておらず、ヴェネツィアとの戦争は避けられませんでした。

 1463年にアルゴスにあるヴェネツィアの砦が破壊されました。ヴェネツィアはハンガリー王マーチャーシュと同盟し、ギリシアの島々を海から、同時にブルガリアを陸から攻撃しました。しかし、いくつかの小戦闘で同盟軍は勝利したものの、結局は撤退せざるを得なかったのです。1470年のオスマン帝国の大規模な反撃により、ヴェネツィアはエーゲ海の要衝、ネグロポンテを失いました。

 ヴェネツィアはペルシアや他のヨーロッパ諸国との同盟を模索しましたが、十分な支援を得ることはできず、アナトリアのハリケルナッソスやスミュルナに小規模な攻撃を加えることしかできませんでした。一方、オスマン帝国はペロポネソス半島を占領し、ヴェネツィア本国へ進軍を開始し、ウーディネの街にまで到達しました。ペルシアやカルマン侯国からの援軍も撃破され、ヴェネツィアは孤立無援となったのです。

 アルバニアはスカンデルベクの死後その大半を占領されていたにもかかわらず、アントニオ・ロレダンの指揮によるシュコドラの抵抗により、オスマン帝国は撤退を余儀なくされました。しかし、オスマン帝国は再びアルバニアに侵攻し、2年後にシュコドラは陥落、続いてフリウーリもオスマン帝国に破壊されました。

 1479年1月24日に講和条約が締結された。これによりヴェネツィアはアルゴス、ネグロポンテ、レムノスおよびシュコドラを割譲し、さらに賠償金1万ドゥカートを支払いました。この5年後にメフメト2世の後継者であるバヤズィト2世との間で、ケファロニアを手放す代わりにザキントスをヴェネツィアに返還する合意が為されました。

 1482年、ヴェネツィアは教皇シクストゥス4世と同盟してフェラーラ公国に侵攻し、フィレンツェ共和国、ナポリ王国、ミラノ公国、およびエルコレ1世・デステ率いるフェラーラ公国の連合軍と戦いました。これはフェラーラ戦争と呼ばれます。

 注)フェラーラ公国
  フェラーラ公国は14世紀、この地を治めたエステ家によって整備され、
  ルネサンス期に文化の中心地の一つとして栄えた。エステ家の居城
  エステ城が一般に公開されている。1995年にはフェラーラのルネサン
  ス期の市街とポー川デルタ地帯がユネスコの世界遺産(文化遺産)
  に登録されている。

  ヴェネツィアはこの戦争で大きな痛手を被りましたが、結果的にポレージネとロヴィーゴを獲得し、イタリア半島における勢力を確固たるものとしました。1480年代後半に、ヴェネツィアは教皇インノケンティウス8世とオーストリアのシギスムンドを相手に戦いました。また、フランス王シャルル8世に対するイタリア同盟にも参加しました。また、1503年のイスパニア王国によるナポリ王国侵攻に加わり、アプリア港を得ました。この港は、アドリア海とイオニア諸島の安全確保において重要な役割を果たしました。

 キプロス王国では後継者争いの中でヴェネツィア貴族のコルナーロ家が影響力を増していました。ジャック2世はコルナーロ家の娘カタリーナ・コルナーロを妻として王位に就きましたが、男子を得た直後に病死しました。その男子はジャック3世となりましたが夭逝し、カタリーナが王となりました。そして1489年、カタリーナはキプロスをヴェネツィアに譲渡しました。

 15世紀末の時点で、ヴェネツィアの人口は18万人に及び、パリに次いでヨーロッパ第2の大都市となっていました。ヴェネツィア共和国の面積はおよそ70,000km²に及び、総人口は210万人でした。行政上、ヴェネツィア領には3つの区分が存在しました。

 「ドガード(Dogado, ドージェの領域の意)」は首都ヴェネツィアとその周辺領域であり、「海洋州 (Stato da Mar)」にはイストリア、ダルマチア、アルバニア沿岸、アプリア港、イオニア諸島、クレタ、エーゲ海の諸島、キプロス、西南ヨーロッパおよび近東の要塞および商業基地が分類されました。「安定地域 (Stato di Terraferma)」はヴェネト、フリウーリ、イリリア沿岸、東ロンバルディアおよびロマーニャでした。


ヴェネツィア共和国の歴史4につづく