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パドヴァ( イタリア)
 
サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)

(Abbey of Santa Giustina in Padua)

概要

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日改訂公表予定2020年7月1日
独立系メディア E-wave Tokyo
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位置と外観    概要    内装    聖ジャコモ礼拝堂       聖グレゴリオ・マグノ礼拝堂
聖ダニエレ・レヴィタ礼拝堂       聖パルシド礼拝堂       聖マウロ/マウルス礼拝堂
殉教者ジュリアーノ礼拝堂        聖フェリシタ礼拝堂       聖ルカ礼拝堂 
ビート・アルナルド・ダ・リメナ礼拝堂 聖歌隊席(クワイヤー席)   主祭壇   ピエタの礼拝堂
聖マキシム礼拝堂              聖マティアス礼拝堂      殉教者の廊下
プロズドチモの聖なる場所        聖ウーリオ礼拝堂
無辜の幼児殉教者のための礼拝堂 聖ベネディクト礼拝堂      聖スコラスティカ礼拝堂
聖ジェラルド・サグレド礼拝堂     聖ゲトルデの礼拝堂     聖パウロの回心の礼拝堂

 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ、Padova) 

概要

 以下はパドバのサンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)の概要について紹介します。



パドヴァ - サンタジュスティーナ像 StatueSanta
Source:Wikimedia  Commons
CC BY-SA 3.0, Collegamento


 サンタ・ジュスティーナ教会(Chiesa di Santa Giustina)は、ヴェネツィア市のすぐ西側にあるパドヴァ(Padova)市の中心にあります。

 サンタ・ジュスティーナ大聖堂・教会はベネディクト派の修道院であり、プラート・デッラ・ヴァッレ(Prato della Valle)に面しておりその歴史は10世紀に遡ります。

 修道院は、サンタ・ジュスティーナ教会に付属しており教会は、6世紀に建設されました。現在の建物の形状は17世紀のものです。

 修道院は、パドヴァの聖ジュスティナ遺品物(304年10月7日)とまちのそのほかのキリスト教殉教者の遺跡を収容するために、520年代にオピリオス県によって建てられた大聖堂に付属してしています。

 豪華な装飾が施された建物は、詩人ヴェナンティウス・フォルトゥナトゥス(Venantius Fortunatus)が565年に書いた「聖マルティヌスの生涯(Life of St. Martin)」に記述がありあす。10世紀まで、教会に集められた聖人やその遺品物を礼拝するために大聖堂を訪れた多くの巡礼者たちに奉仕してきた修道院共同体を、最終的に聖ベネディクト(派)の管理下に置くことを971年にパドヴァの司教が決定しました。

 その時点で修道院は、大聖堂の改装に取りかかることになりました。この作業の過程で、1052年8月2日に、証聖者聖マクシモス(Maximus the Confessor)、パドヴァの聖フェリシタス(Felicitas of Padua)、看護者聖ジュリアン(Julian the Hospitaller)、そして聖なる幼子殉教者(Holy Innocents)として特定されたものを含む様々な聖人の遺品跡が発見されました。

 1110年に神聖ローマ皇帝ヘンリー5世は、修道院の修道士たちが教皇パスカル2世に忠誠を誓ったことを罰するため、彼の軍隊がロンバルディアに侵攻する途
中に襲撃され破壊されました。

 大聖堂の建物群は1117年に、イタリア北部とドイツ全体に大打撃を与えた非常に強い地震によって荒廃しました。大聖堂と修道院が再建された後、発掘調査が再開され、1174年に修道院の後援者の遺跡跡が発見されました。その中には、1177年に福音書記者聖ルカのものと判明したものも含まれていました。

 修道院のコミュニティにおける生活様式をみると、衰退の時代が始まっていることがわかります。同じ頃、修道士たちはリメナのアーノルド(Arnoldo ofLimena)のような崇高な修道院長によって導かれました。彼は、君主エッチェリーノ3世・ダ・ロマーノ(Ezzelino III da Romano)に投獄されている間に死去し、その名誉はプルシアのニコラス(Nicholas of Prussia)と同様に「祝福」されるべきであるとして、讃えられています。

 しかしながら、修道院はルドヴィコ・バァルボ(Ludovico Barbo)の指導の下でその影響は頂点に達しました。彼は、修道士ではなく正規の司祭であるにもかかわらず、修道院で修道院生活の改革を行うために司教によって修道院長に任命されました。

 彼は成功し、修道院はサンタ・ジュスティーナの会衆の核となり、サンタ・ジュスティーナ修道院の指導の下に集まったヨーロッパ中の修道院を含めて拡大していきました。会衆は後にカッシーナ会衆と呼ばれるようになりました。修道院は、大陸全体の学習の中心地との関係を発展させていくこととなりま
す。


Padova - Santa Giustina - Mantegna - San Luca Evangelista (copia)
Source:Wikimedia  Commons
CC BY-SA 3.0, Collegamento


 1797年、修道院の生活は終わりを迎えました。それは他のすべての宗教共同体と同様に、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス革命軍によってイタリアが占領され、チザルピーナ共和国(Repubblica Cisalpina)がを設立されたしたことによって抑圧されることになります。

注)チザルピーナ共和国(Wikipedia)
 1797年から1802年までイタリア北部に存在したフランスの衛星国である。1802年にイタリア共和国と改称。1805年にイタリア王国へ移行した。国名は古代ローマ時代の北部イタリアの呼称、ガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリア)に由来する。
 
 修道院や教会にあった芸術作品とその貴重な所蔵品のコレクションは占領軍によってパリに送られました。1810年、修道士たちは追放され、建物や財産は売り払われました。その後、修道院の回廊は軍病院として使用され、後に兵舎として使用されました。

 建物は1917年にカトリック教会に戻され、教皇ベネディクト15世は、すべての古来からの権限と特権をもって修道院を再建しました。彼はそれを近くのテオーロ(Teolo)の町にあるプラグリア修道院(Praglia Abbey)の下に置きました。 1942年11月1日に、このコミュニティは1943年1月22日から独自の修道院として設立された自治修道院となることが宣言されました。大聖堂と修道院は現在、国家遺跡としての地位を与えられ、市民遺産と祈念碑管理局の管理の下に置かれました。


内装 につづく