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シルクロードの今を征く Now on the Silk Road

ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

マルコ・ポーロ(Marco Polo)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆マルコ・ポーロ(Marco Polo)

 マルコ一行はまずアッコまで船で往き、ペルシャのホルモズガーン州でラクダに乗り換えました。彼らは船で中国まで行きたかったのですが当地の船は航海に適さず、パミール高原やゴビ砂漠を越える陸路でクビライの夏の都・上都(現在の張家口市近郊)を目指しました。

 ヴェネツィアを出て3年半後、21歳前後まで成長したマルコを含む一行は目的地に到着し、カーンは彼らを歓迎しました。マルコらが到着した正確な日付は不明ですが、研究者によると1271年から1275年の間だと見なされています。 宮廷にて、一行はエルサレムから持参した神聖なる油と、教皇からの手紙をクビライに渡しました。

 一行は元の政治官に任命され、マルコは中国南西部の雲南や蘇州・楊州で徴税実務に就いたり、また使節として帝国の南部や東部、また南の遠方やビルマ(注:バガンも)、スリランカやチャンパ王国(現在のベトナム)など各所を訪れ、それを記録しました。

 マルコはイタリア語の他に、フランス語、トルコ語、モンゴル語、中国語の4言語に通じ、一行はクビライにとって有用な知識や経験を数多く持っていたこともあり、マルコの役人登用は不自然ではありませんでした。

 17年間中国に滞在した マルコら一行は元の政治腐敗を危惧し、中国を去りたいという申し出をしましたがクビライは認められませんでした。 しかし彼らは、もしクビライが亡くなれば重用された自分たちは政敵に狙われ無事にヨーロッパに戻れなくなるのでは、と危惧していました。

 1292年、イル・ハン国のアルグン・ハンの妃に内定したコカチンを迎えに来た使節団が、ハイドゥの乱のために陸路を取れず南海航路で帰国することになった際、航路に詳しいマルコらに同行を求めました。この許可を得た一行は同年に泉州市から14隻のジャンク船団を組んで南へ出航しました。

 彼らはシンガポールに寄港し、スマトラ島では5ヶ月風待ちして過ごし、セイロン島を経由してインド南岸を通過し、マラバールや アラビア海を通って1293年2月頃にオルムス(Ormus, ホルムズとも)に至りました。

 2年間にわたる船旅は決して平穏ではなく、水夫を除くと600人いた乗組員は到着時には18人にまで減っていましたが、コカチンやマルコら3人は無事に生き残りました。 オルムスに到着し行われた結婚の祝賀会が終わると、マルコらは出発し、陸路で山を超え黒海の現在ではトラブゾンに当たる港へ向かいました。 マルコらがヴェネツィアに戻ったのは1295年、通算24年間の旅を終えました。

評価

 マルコには『イル・ミリオーネ(Il Milione、百万男)』というあだ名がついていました。

 『東方見聞録』でルスティケロは「それらはすべて賢明にして尊敬すべきヴェニスの市民、《ミリオーネ》と称せられたマルコ・ポーロ氏が親しく自ら目睹したところを、彼の語るがままに記述したものである。」と述べています。

 このあだ名の由来には諸説あるがはっきりしたことは分かっていません。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたという説、またそれを大風呂敷だとして当時の人がからかい、そのように呼んだという説、またアジアから持ち帰った商品によって「百万長者」になったことを表すという説などがあります。

 大英図書館中国部主任のフランシス・ウッドは『東方見聞録』には実在した中国風俗の多くが紹介されていないことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示し、彼は黒海近辺で収集した情報を語ったと推測しています。

 日本のモンゴル史学者の杉山正明はマルコ・ポーロの実在そのものに疑問を投げかけています。その理由として、『東方見聞録』の写本における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なことなどを挙げています。

 但しモンゴル宮廷についての記述が他の資料と一致する、つまり宮廷内に出入りした人物で無いと描けないということから、マルコ・ポーロらしき人がいたことは否定していません。(杉山正明「世界史を変貌させたモンゴル」、「クビライの挑戦」など参照)

 2010年1月イランのハミード・バガーイー文化遺産観光庁長官は、国際シルクロード・シンポジウムにてマルコ・ポーロの旅には西洋が東洋の情報を収集して対抗するための諜報活動という側面があったという説を述べました。

 これは、単に交易の道だけに止まらないシルクロードが持つ機能を端的に表現したもので、この道が古来から文化や社会的な交流を生む場であり、マルコの旅を例に挙げて示したものです。


マルコの肖像が描かれた旧1000リレ紙幣
 1981年から1990年まで発行された1000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されています。  
Source:Wikimedia  Commons
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