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シルクロードの今を征く
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ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

マルコ・ポーロ(Marco Polo)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆マルコ・ポーロ(Marco Polo)

死去

 ベネツィアのカステロ地区 (en) にあるサン・ロレンツォ・ディ・ヴェネツィア教会。マルコ・ポーロが埋葬されている。写真は再建されたもの。

 1323年、病気になったマルコ・ポーロは枕も上がらなくなりました。翌年1月8日、医師の努力も空しく死期が迫ったマルコは財産分与を認め、亡くなりました。遺言の公認を聖プロコロ教会の司祭ジョバンニ・ジュスティニアーニから得た妻と娘たちは正式に共同遺言執行者 (en) となりました。

 遺言に基づいて教会も一部の地権を受け、さらに多くの遺産分与をサン・ロレンツォ教会に行なって遺体を埋葬されました。 また、遺言にはマルコがアジアから連れてきたタタール人の奴隷を解放するよう指示されていました。

 マルコは残りの遺産についても、個人や宗教団体、彼が属したギルドや組織などへの配分を決めていました。さらに、彼は義理の姉妹が負っていた300リラの借金や、サン・ジョバンニ修道院、聖ドミニコ修道会のサン・パウロ教会または托鉢修道士 (en) のベンヴェヌートら聖職者が持つ負債の肩代わりもしました。

 ジョバンニ・ジュスティニアーニには公証人役への報酬、また信者からとして200ソリドゥスが贈られました。マルコの署名はありませんでしたが、「signum manus」の規則が適用され有効なものとされた遺言状は、日付が1324年1月9日になっていました。規則により遺言状に触れる者は遺言者だけと決められていたため、マルコの没日は9日ではないかとの疑問も生じましたが、当時の1日は日没で日付が変わっていたため、現在で言う8日深夜であった可能性もあります。

マルコ・ポーロの旅


マルコ・ポーロ存命中に発刊された『イル・ミリオーネ』の一ページ
『イル・ミリオーネ』 (Il Milione) のミニアチュール
Source:Wikimedia  Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる


「東方見聞録」を参照

 マルコ・ポーロの口述を記した原本は早くから失われ、140種類を超える写本間にも有意な差が見られます。初期はフランス語で書かれていたと考えられる本は1477年にドイツ語で初めて活字化され、1488年にはラテン語およびイタリア語で出版されました。

 しかし、これらにおいても、単独の筋書きに拠るもの、複数の版を統合したり、ヘンリー・ユールによる英語翻訳版のように一部を加えたりしたものがあります。同じ英語翻訳でもA.C.ムールとポール・ペリオが訳し1938年に出版された本では、1932年にトレド大聖堂で発見されたラテン語本を元にしていますが、他の版よりも5割も長くなっています。

  このように、さまざまな言語にまたがる異本が知られています。

 印刷機(en)の発明以前に行なわれた筆写と翻訳に起因して多くの誤りが生じ、版ごとの食い違いが非常に多くなっています。これらのうち、14世紀初頭に作られた、「F写本」と呼ばれるイタリア語の影響が残るフランス語写本が最も原本に近いと思われています。

内容

 本は、ニコーロとマフィオがキプチャク・ハン国のベルケ王子が住むボルガール (en)へ向かう旅の記述から始まります。

 1年後、彼らはウケク (en) に行き、さらにブハラへ向かいました。そこでレバントの使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがないクビライと面会する機会を設けました。 これは1266年に大都(現在の北京)で実現しました。

 クビライは兄弟を大いにもてなし、ヨーロッパの法や政治体制について多くの質問を投げ、またローマの教皇や教会についても聞いていました。兄弟が質問に答えるとクビライは、リベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた教皇に宛てた書簡を託しました。さらにクリスム(Chrism, エルサレムの、イエス・キリスト墓前に灯るランプの油)も持ってくるよう求めました。

 ローマ教会では1268年にクレメンス4世が没して以来、使徒座空位にあり、クビライの要請に応える教皇は不在のままでした。ニコーロとマフェオはテオバルド・ヴィスコンティ、次いでエジプト駐留の教皇使節から助言を受け、ヴェネツィアに戻り次期教皇の即位を待つことにしました。彼らがヴェネツィアに着いたのは1269年もしくは1270年であり、ここで当時16歳か17歳だったマルコと初めて会うことになりました。

 次期教皇はなかなか決まらず、1271年にニコーロとマフィオそしてマルコの3人はクビライへの説明のために旅に出発しました。彼らが小アルメニアのライアスに到着した時、新教皇決定の知らせが届いきました。彼らに、2人の宣教師ニコロ・ディ・ヴィツェンツァとグリエルモ・ディ・トリボリが同行することになりましたが、宣教師らは旅の困難さに直面し早々に逃亡してしまいます。


タタールの衣装を纏うマルコ・ポーロ
Source:Wikimedia  Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる


マルコ・ポーロ3つづく