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西安城壁 
百度百科4
 西安 (Xi'an、中国) 

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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西安城壁  城壁(百度百科1)  城壁(百度百科2)  城壁(百度百科3)
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は西安城壁の詳細4です。参考は中国百度百科4す。

◆西安城壁 百度百科4Xi'an 中国西安市)



解放門 北側城壁六門の三番目


出典:中国百度百科

 中華人民共和国の21年(1932年)には、龍海鉄道が開通し、北の城壁の尚仁路に城門が開設され、尚仁門と命名されました。同34年(1945年)、尚仁路は中正路と改名され、城門の名前もまた中正門と変更され、1950年には、中正路が解放路に改められると城門の名前も解放門となりました。1952年には、鉄道駅の広場が拡大したために解体され、西安市の城壁のひとつの隙間となり、2005年には大きいな幅(広さ)をもったアーチ式の城門をつくり再度(城壁の内外を)連結し、すべての西安城壁が貫通することになりました。解放門の規格/様式は大スパンアーチ式3洞門(3つの開口部をもつ)です。

尚倹門


出典:中国百度百科

 尚倹門は北城壁の解放門と尚勤門の間に位置しており、建国後に造られました。新中国成立後、北城壁の尚倹路に城門を取り付け、名前を尚倹門としました。城門内は尚険路、城門の外には鉄道駅東盤道があります。尚倹門の規格/様式は3門洞(3つの開口部をもつ門)です。

尚勤門


出典:中国百度百科

 尚勤門は、中華人民共和国の設立後に開設された北城壁の最東端の門です。1949年、中華人民共和国が設立された後、北壁壁の尚勤路に3つの開口部を持つ門が造られ、尚勤門と名付けられました。城門の内側には尚勤路があり、外側には北環城道路への丁字路に繋がります。尚勤門の規格/様式は3門洞(3つの開口部をもつ門)です。


東側城壁の3つの門東城三門

朝陽門



出典:中国百度百科

 朝陽門は、東承平記最北の門で、建国後に開設されました。この門は、城門が太陽に面していて、最初に太陽光を見る門ということから朝陽門と名付けられました。 

 城門の内側は、東五路、外側は長楽路につながります。朝陽門の規格/仕様は、
5門洞(五つの門がある城門)です。

中山門


出典:中国百度百科

 中山門は一般に、小東門と呼ばれており、中華人民共和国の16年(1927年)の初めに、馮玉祥(ふうぎょくしょう)将軍が、国民各民の領袖である孫中山先生(孫文先生)を記念し、中山門の開設を提唱しました。1927年5月1日、馮玉祥将軍は軍を率いて東に攻め入り、中山門から城を出ました。
 
 中山門は両側に二つの開口部が設けられており、2つのドア開口部が並んでおり、馮は、それぞれに"東征門"と "凱旋門" と別の名前を付けました。出兵する日、馮玉祥は城壁の上から、各界の見送りの群衆に向かって演説し、「北伐の勝利を待ち、再び凱旋門を空けて歓迎せよ」と語りました。しかし、後に時局が変化し、彼は西安に戻りませんでした。中山門の規格/様式は、双洞門(二つの開
口部をもつ門)です。

長楽門


出典:中国百度百科

 長楽門は東門として一般的に知られています、それは東側城壁の正門であり、また、最も南にある門です。明時代に築造された城壁に建設された門であり、正式名称を長楽門といいます。明時代末期、李自成(農民反乱指導者)は東門から西安に攻め入りました。李自成は城門の上に「長楽門」と書かれた扁額を見て、周りの兵隊に言いました。「もし、皇帝に長い間楽をさせるならば、百姓たちは、長くくるしむことになるだろう」と。部下たちはそれを聞いてすぐさま城の楼閣に火を放ち、焼き払い、清時代になって再び建造されるまでそのままの状態でした。

 "西安事件 "の前、張学良将軍は一度、東門城楼の上で、指導隊と学兵隊を組織し、旧跡を修復して西安事件の記念の場所としました。長楽門の規格/様式は6-1式門洞(左右に3つずつの開口部、中央にひとつの開口部のある門)です。


西安街壁の夜景 出典:中国百度百科

文化財保護

  中華人民共和国の建国当初は、西安城壁の修理と保護プロジェクトは、一時期、紆余曲折をたどりました。抑圧の歴史と「左翼」的思想の影響により、西安城壁は何度か完全に解体される危険を経験しましたが、幸いなことに、歴史文化保護プロジェクトを非常重視する一部の国家指導者、省および地方自治体の指導者、専門家、学者、社会各界の人々の粘り強い支援活動により、西安城壁は破壊される運命から解放され、改革開放後にその運命は大きな転換点を迎えました。

保護対策

 1983年に大規模な修復が行われました。壁の修復と補強プロジェクトは清王朝時代の乾隆年間の城壁修復のルールである、「古いものは古いままに修復すること」また、「文物の原状を変えないこと」という二つの原則に従って進められました。1990年に基礎工事が完了するまでのいくつかの工程の内容は以下の通りです。


西安市壁の夜景
出典:中国百度百科

◇壁の修理
 1.壁本体内部の泥製煉瓦の測量
 2.穴(窟)の封じ込め
 3.壁外側の補強
 4.城墙顶面海墁补砌
   城壁の頂上面にびっしり敷き詰めた石畳の補修
 5.胸壁と姫垣の修復
 6.城壁内側に流れる144の吹奏の補修
 7.新築、馬道(又は歩道)の拓修13箇所
 8.永寧門(大南門)月城の再建
 9.チケットを扱う入り口のある門の設置

◇ 古代の建物の修復:
 1.環城建設工事の開始後、まず保護に着手したのは、北門、東門の城楼、箭楼の補強でした。1983年9月に北門箭楼南側地下の防空洞の強化対策を行い、それによって、毎日8~9mm沈下していた建物の沈下が毎日1mmの沈下まで抑えられました。その後、東門の城楼と箭楼の全面修理が行われました。

2.1983年4月~1987年12月末までに、城壁上の敵楼12カ所を修復しました。敵楼は清時代末期に示されたデザインと関の設計資料を参考に修復され、庇が重なり、入母屋造りとなっている全体の広さは2層3間あり、下層には柱廊がありました。楼閣の基礎の長さは14.3メートル、幅は9.1メートル、高さは8.8メートルです。

3.南門城楼から607メートルの距離にあるもとの南城壁の上に魁星楼を一棟建設しました。既存の框の基礎の設計によれば、4面の先が尖った寄棟で、二層の重なった庇をもち、正方形で、一辺の長さは9.4メートルです。

4.馬道門楼は、城壁の内側から城に登る馬道の入り口であり、門楼の多くは古代にならって牌坊式となっています。新たに造られた馬道門楼は14箇所あります。

 注)牌坊(Wikipediaより)
  牌坊(はいぼう パイファン paifāng)は、中国の伝統的建築様式の門の一つである。 牌楼(はいろう
  ぱいろう pailou)または略して坊(ぼう ボウ fāng)と呼ばれることもある。 海外では中華文化のシン
  ボルの一つとされている。 世界各地の中華街には牌坊がしるべとして建てられている。

5.古代にならった管理室は、城壁管理人の仕事場であり、城壁内側の馬道入口たてられて近くにあり、部屋の形状は、古風で飾り気がなく、美しいことから、城壁の内環状道路のヴューポイントの一つです。

6.南門の閘楼は、1989年5月、南門の月城と同時期に建設されました。中華人民
共和国21年(1932年)より、張俊清が編纂して出版した「西安勝跡」のカバー写
真に依拠して造られました。楼内には、吊り橋を吊り上げる施設がありますが、
《武備志(ぶびし)》という古代の建築方法についての本には、ウィンチ式建設
についての記述があります。1989年に基礎が完成し、1990年9月に竣工しました。

 注)勝跡(コトバンクより)
   ① 風景がすぐれていたり、由緒があったりする場所。名所や旧蹟。

 注)武備志(ぶびし)
   中国,明代の兵書。茅元儀著。240巻。1621年(天啓1)に成る。著者は少時より兵家の学を好み,
   2000余種の書物を資料として歴代の戦術を詳述した。ことに明代の形勢を述べた部分は最も史
   料価値が高く,明代史研究の重要文献である。なお書中には戦陣図や地図をも収録しているが,
   中でも〈鄭和航海図〉は南海史研究の重要史料となっている。天啓刊本のほかに,1664年(寛文4)
   刊の和刻本がある。【谷 光隆】


西安城壁(百度百科5)つづく