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東勝寺跡のすぐそばに「腹切りやぐら」があります。 ◆源頼朝以来、140年以上も続いた鎌倉幕府の終焉の場所 1333年、鎌倉幕府を倒す目標を掲げ挙兵した新田義貞軍が鎌倉まで攻め込みます。 しかし、鎌倉の鶴岡八幡宮参道にある切通しは名だたる要害であり突破できません。そこで新田義貞軍は西海岸の稲村ケ崎から干潮を利用し侵攻することでで3つの切通し防衛が破れました。 鎌倉幕府の北条高時ら北条一門は菩提寺の東勝寺へ退却するものの、新田義貞軍には抗しきれず、寺に火を放つとともに、上述のように300人近くが自害します。 何と、北条高時出家後、15代の鎌倉幕府執権となった北条貞顕、さらにそのあとの16代執権となった守時も戦死し鎌倉幕府はここに滅びました。 そして、東勝寺の背後地斜面には、北条高時らを供養する横穴墳墓(やぐら)がつくられています。これが通称、「腹切りやぐら」と言われるものです。 こうして源頼朝以来、140年以上も続いた鎌倉幕府の終焉がきたのです。東勝寺跡そして腹切りやぐらは、その意味で歴史上非常に重要な場所となるのですが、実際に来てみると、東勝寺跡はフェンスで囲われ、東勝寺跡らしきものは名にも見えず、また、「腹切りやぐら」は、鎌倉幕府の執事らが自刃した跡地としては、あまりにも惨めな横穴墳墓でした。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-11-27 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-11-27 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 ◆東勝寺合戦をめぐる伝承 『太平記』によれば寺に篭った北条一族と家臣は、長崎高重、摂津道準、諏訪直性ら北条被官から順にそれぞれ切腹、最後に高時、舅の安達時顕と自害したといいます。 他に第13代執権の普恩寺基時(北条基時)、内管領の長崎高資、第15代執権の金沢貞顕(北条貞顕)なども自害しています。 『太平記』には、自害した人々は283人の北条一族と家臣の870人とあるが、文学的誇張もあると推察されます。高時らの自害を知った安東聖秀らもまた、降伏勧告を拒絶して市中で自害しています。 出典:Wikipedia ということで、この東勝寺では、北条一族と家臣ら最低でも300人近くが新田勢に追い詰められ、自害した場となっています。 ◆腹切りやぐら 現在の東勝寺の旧跡の北方には「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらが存在しています。 先に述べたように東勝寺跡での発掘調査では三つ香炉などが入った瓶などが見つかるものの、東勝寺跡からは300人近くの北条一族及びその家臣のものと思える遺骨の発見はなく、新田勢や時宗の僧らによって遺体が処理されたと考えられています。 この地に残る「腹切りやぐら」は、その名称から東勝寺での戦死者と何らかの関係があるとされていて、今でも供養会では卒塔婆が立てられています。 この地で死んだ北条一族を弔うため、足利尊氏によって宝戒寺が建てられました。宝戒寺の地は、もとの北条執権邸の地です。 鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷奥山頂部には、「宝戒寺二世普川国師入定窟」と伝える巨大なやぐらを中心に釈迦堂奥やぐら群と称する多数のやぐら群が存在しました。 やぐら群には多量の生焼けの人骨があったそうです。そんなことから、昔から東勝寺での戦死者の遺体をこのやぐら群に葬ったとの伝承があります。 昭和40年代の宅地開発の際、やぐらが破壊され、「元弘三年五月廿八日」の銘のある五輪塔の一部が発見されました。これはまさに東勝寺合戦の初七日の供養をしめすものであり、伝承が事実であったことがわかりました。 やぐら群は昭和40年頃に宅地造成によって主要部が破壊されましたが、一部は現存しています。 「腹切りやぐら」 出典:Wikipedia つづく |