|
|
私達は鶴岡八幡宮を後に東に向かいます。 最初に訪れたのは源頼朝の墓と白旗神社です。その後、江柄天神社、そして鎌倉宮と続きます。 出典:グーグルマップ ◆源頼朝とは 出典:Wikipdia 源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍です。 頼朝は河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流されました。 伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧します。 弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし全国を平定しました。 建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられます。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれます。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となりました。 源頼朝 出典:Wikipedia 死因 各史料では、相模川橋供養の帰路に病を患った事までは一致していますが、その原因は定まっていません。 吾妻鏡は「落馬」、猪隈関白記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記しています。 これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能でし。死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑問視する説は存在しないようです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 下は源頼朝の墓に登る石階段と鳥居です。しっかりとした手すりがついています。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 下は源頼朝の墓です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 下は五輪塔です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 ここには、ボランティアの学芸員がおり、いろいろ議論することになりました。郷土に対する愛着とともに歴史を今に伝えるボランティア学芸員の存在は、全国各地に広がっていますが、ここでお会いしたボランティアの学芸員はリタイヤ組みのシニアでした。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-11-27 つづく |