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      ■プラハ城のすべて(目次) 
       (1)世界史とグーグルアース  (2)チェコ・プラハの歴史  
       (3)ヤン・フスのこと 
       (4)プラハ城に入る (5)プラハ城の歴史 (6)プラハ城の建築  
       (7)ヴァルダヴァ川とカレル橋 
       
       
      ■プラハ城の歴史  出典:Wikipedia 
       
       ところで、肝心なプラハ城はボヘミアの国王や神聖ローマ皇帝の居城であり、チェコ共和国の大統領府のある場所でもある。ボヘミア王国の宝冠はここで保管されている。 
       
       プラハ城の歴史は9世紀(870年)にさかのぼる。  
       
       壁に囲まれた最初の建築物は、聖母マリア教会であった。 聖イジーと聖ヴィートのバシリカは、10世紀の前半に建設された。ボヘミアで最初の修道院は城の中、聖ジョージ教会の隣に建設された。ロマネスク様式の宮殿がここに建てられたのは、12世紀のことである。 
       
       14世紀には、ボヘミアの黄金時代を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世(ドイツ語名カール4世=ボヘミア国王カレル1世)の支配のもと王宮がゴシック様式で再建され、城砦として強化された。聖ヴィートのロトンドとバシリカの代わりに、広大なゴシック教会が建設されたが、完成までには、ほぼ6世紀かかった。 
        
      ヴルタヴァ川の河畔から見た現在のプラハ城 
       
        
      ヴルタヴァ川の河畔から見た19世紀頃のプラハ城 
      教会の尖塔の数が少ないことが分かる。 
       ボヘミアの宗教改革者とされ、ローマ教会によって火刑に処せられたヤン・フス派によるフス戦争の間とその後の10年、城は空位のままであった。 
       
        
      ヤン・フス(Jan Hus) 
       
       1485年、ウラースロー2世(ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー)が城の再建に着手した。広々としたヴラジスラフ・ホールがベネディクト・レジェによって王宮に建設された。その後、城の北側には新しく防御の塔も建設された。1541年の大火で城は甚大な被害を受け、ハプスブルグ家の支配下では、いくつか新しくルネサンス様式の建物が建設された。フェルディナント1世はベルヴェデーレを妻のアンナのために夏の離宮として建設した。 
       ルドルフ2世はプラハ城を主たる居城とした。彼は宮殿の北翼を建設し、そこにスペイン・ホールを作って、自分の貴重な芸術コレクションを展示した。1618年に起きた二度目のプラハ窓外投擲事件は白山の戦いの契機となり、戦闘の間にプラハ城は荒れ果てた。三十年戦争の過程で1648年、ルドルフ2世のコレクションは、多くの作品がスウェーデンによる略奪に遭った。 
       
        
      プラハ窓外投擲事件   出典:Wikipedia 
      
        
          
            
            第二次プラハ窓外投擲事件
             1618年5月23日、プラハ城を襲った民衆によって王の使者である国王顧問官2名と書記の3名が窓から投げ落とされた事件。三十年戦争の発端となった。 
             1617年、熱烈なカトリック教徒で対プロテスタント強硬派として知られていたハプスブルク家のフェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王に即位し、新教徒を迫害する政策を実行しようとした。これに反対するプロテスタントのボヘミア貴族たちはフェルディナントを王と認めず、対立が深まっている最中の事件であった。投げ落とされた3名は命を取り留め、フェルディナントのいるウィーンへ逃れてプラハの反乱を報じた。 
             事件後、ボヘミア貴族たちは、新教徒でプファルツ選帝侯のフリードリヒ5世をボヘミア王に迎え、神聖ローマ帝国から離反する動きを見せた。ハプスブルク家は鎮圧のため軍を派遣し、1620年の白山の戦いに勝利して、ボヘミアの支配を固めた。しかし、財産の没収や国外追放といった苛烈な戦後処理は他の新教徒諸侯の離反を招き、戦争が長期化する原因となった。 
             
            出典:Wikipedia 
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       プラハ城の再建としては、18世紀後半に女帝マリア・テレジアが行ったものが最後となる。フェルディナント5世は1848年の退位後、プラハ城を居城とした。1918年、チェコスロバキア共和国の成立とともに、プラハ城には大統領府が置かれた。新王宮と庭園は、スロベニアの建築家ジョゼ・プレクニクにより修復された。 
       
        
      マリア・テレジア
       第二次世界大戦のさなか、ナチスによるチェコスロバキア占有中、プラハ城はラインハルト・ハイドリヒの本拠地となり、「ボヘミアとモラヴィアのライヒ公安」の本拠地となった。
      ラインハルトはボヘミアの王冠を頭上に載せたといわれ、彼自身も王のように振舞った。
      ボヘミアの王冠には、それを頭上に載せた簒奪者には一年以内に死が訪れるという伝説があった。
      権力を握って1年も経たぬうちに、ラインハルト・ハイドリヒは暗殺された。 
       チェコスロバキア解放の後は、プラハ城はチェコスロバキア社会主義共和国の共産主義政府が置かれた。
      ビロード革命の際、「プラハの春」の指導者だったアレクサンデル・ドゥプチェクはヴァーツラフ広場に面したバルコニーに現れ、「ドゥプチェクを城へ!」と叫ぶ民主化デモの群衆の声を聞いた。
      彼らの声が、プラハ城にある国家指導者への椅子へとドゥプチェクを導き、彼は民衆にとって民主主義と自由のシンボルとなった。 
       チェコスロバキアがチェコ共和国とスロバキア共和国に別れた後、プラハ城には新しくチェコ共和国の大統領府が置かれている。
      初代大統領トマーシュ・マサリクがプレクニクに依頼したのと同様ヴァーツラフ・ハヴェル大統領は、ポスト共産主義建築家としてプラハ城の改修に取り組むようボリク・シュペクに委託、城のギャラリーの絵も修繕された。  出典:Wikipedia 
        
      チェコの初代マサリク大統領(Tomas Garrigue Masaryk) 
       
       
      ■聖ヴィート大聖堂  出典:Wikipedia 
       
       プラハ大司教の主座である。 大聖堂の正式名称は「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイテフ大聖堂」。
      プラハ城の内側に位置し、多くのボヘミア王の墓を有する。この大聖堂はゴシック建築の代表例であり、チェコで最も大きくて重要な教会である。  
       
       下の写真は、プラハ城内にあるその聖ヴィート大聖堂を正面から撮影したもの。上の3次元画像と対比すると位置がよく分かる。  
       
        
       
       下の写真は、プラハ城内にある聖ヴィートをヴルタヴァ川側から撮影したもの。。 
       
        
       
       下の写真は、上野写真の下部を撮影したもの。 
       
        
       
       下の写真は、同じくグーグルアースで3次元立体展開したプラハ城である。上の写真の位置とほぼ同じ角度から見ている。 
       
        
      グーグルアースの3次元地図で見たプラハ城 
       
       下の写真は、大聖堂の裏側から撮影したもの。出かけたときはちょうど、改修工事中だった。 
       
        
       
        
      グーグルアースの3次元地図で見たプラハ城 
        
      つづく 
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