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足尾銅山現地視察
(7)銅山の諸施設

青山貞一 池田こみち
掲載月日:2014年5月9日
 独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁

 
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 以下は、現地視察時に撮影した足尾銅山創業時の施設を現地調査及びWikipedia などの文献からその概要をとりまとめた。足尾銅山の最盛時には煙突が山の急斜面に10本以上もあり、かなり大規模の精錬が行われていたことが分かる。


1895年頃の足尾鉱山 
出典:Wikipedia


足尾銅山、古河足尾精錬所
出典:足尾環境学習センター 


足尾銅山、古河足尾精錬所
出典:足尾環境学習センター


                足尾銅山の施設概要

                   主な出典:Wikipedia、現地調査時撮影

鉱山:備前楯山と呼ばれる銅山が1つある。その他の足尾近隣の山からは銅は産出しなかった。

坑口:本山坑(有木坑)、小滝坑、通洞坑の3つの坑口があった。本山坑から小滝坑はほぼ
    一直線に繋がっており、通洞坑はこの太い坑道に横から接続する形になっている。
    このため、3つの坑口を結ぶ坑道は、T字型になっている。小滝坑は1954年閉鎖。
    最後まで使われていたのは本山坑と通洞坑であった。(より正確には、本山坑と有木
    坑は微妙に場所が違い、これ以外に近くに本口坑があった。通常はこの3つの坑口を
    まとめて「本山坑」と呼ばれる。有木坑は当初梨木坑という名であったが、縁起担ぎで
    有木に変更された。また、簀子橋という名の坑口もあった。規模は小さく、通洞坑と
    同一視されることが多いが、名目上は独立していた。現簀子橋堆積場付近にあった)

    
    小滝坑坑口

    
    足尾銅山、通洞坑
    撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

   
   足尾鉱山、古河足尾精錬所の本山概念図
   出典:日光市

選坑場:通洞地区におかれた。最初期は女工が目で使える鉱石かどうか識別したという。

    

    
    撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

    
    撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8
    
製錬所:本山地区にあったものが最も大きかったが、小滝地区にも小規模なものがおかれ
    ていた時代がある。鉱石から銅が製錬された。1960年代以降は、製錬時に出る
    亜硫酸ガスを回収して硫酸を製造し、これも出荷していた。

    

    
    撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


出典:不明

    
    
    撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

    
    撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 <補遺>
 今回の現地調査で判明したことは、足尾銅山、古河鉱業、足尾製錬所は2010年に大部分(おそらく90%以上)の施設、設備を解体、撤去した。したがって、現在見える施設はおおきな煙突などごく一部だけであることである。 2010年より前に、現地に入り写真を撮影してきたひとがいて、写真をホームページ上で公開している。非常に貴重な写真場であるので、ぜひご覧いただきたい!



 ◆
廃墟探索報告写真集

  呼称・足尾銅山・本山製錬所 硫酸工場 沈殿湖場所・栃木県
 
最後のコーナーを過ぎるとそこには地上からは見渡せなかった工場施設が。1956年にこの施設が稼動するまでは、1日に約100トンもの濃硫酸が製錬所付近に撒き散らされていた。足尾銅山と言うと「田中正造」、「鉱毒事件」が良く知られているが、煙害の被害はその以前から発生していた。硫酸工場稼動後も大煙突から排出された鉱煙が「松木村」を直撃し 農作物が育たなくなったその村は消滅した。  

 

 

 
 
  出典:<廃墟探索報告>
 芝公園公太郎ブログ 「廃墟デフレスパイラル」

  なお、2010年以前に現地見学された方が撮影した製錬所の写真には、上記の骨材だけの写真が写っていることから、やはり2010年に本来歴史的に見てきわめて重要な古河鉱業、足尾製錬所にあった大部分の施設が解体、廃棄されたことが分かる。

<例証1>2006年
 
出典:あるきメデス、足尾銅山の痕跡と旧国鉄足尾線廃線跡を歩く(2006/10/10/28)

<例証2>2008年

出典:勝手に僻地散歩:足尾銅山にいってみた その2 (2008/04/05)

<例証3>2007年

 出典:週末探検隊:巨大銅山精錬場跡

 以上より明らかなように、結論として2010年、事業者は大煙突などごく一部の施設を残し、大部分の施設、設備は解体、撤去している。今回の現地調査では、さまざまな資料館、センターなどを訪問したが、上記ような戦後で2010年以前の時期に撮影された足尾製錬所の写真を見ることはほとんど無かった。どうやら、歴史から足尾製錬所は消し去られたことになる。その意味で上記の写真はきわめて貴重なものと言えよう。


浄水場:1897年、鉱毒防止策として政府は足尾の銅山施設すべてから出る水を一旦沈殿
    させることを命じた。中才浄水場、間藤浄水場の2箇所が2005年当時も稼動していた。
    閉山後も浄水設備の稼動は続けられる。小滝にも浄水場はあったが、規模が小さか
    ったため、中才に統合された。

   

堆積場:鉱石くずなどを貯めている場所。公表されているものは足尾町内に14箇所ある。

  

  
   撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  

社員住宅:坑口付近に多くつくられ、ほとんどの鉱夫は徒歩で通勤した。小学校や商店など
   も周辺につくられたが、閉山後はほとんどが無人化しており、現存しないものも多い。

  

  
  足尾銅山労働者用の浴場跡)にて
  撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400

神社:本山坑向かいの山頂付近に鉱山神社が存在する。本殿と拝殿の2棟があるが、
   何れも放棄されている。このほか、通洞坑には別に神社があり、足尾銅山観光
   出口付近に拝殿がある。

  
   撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

  
  廃墟となった鉱山神社への参道にて
  撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400

鉄索:足尾ではケーブルカー(索道)のことを鉄索と呼んだ。1890年にまず、細尾峠を
   越えて日光を結ぶ路線が作られた。最も大規模なものは、本山坑から銀山平を経て
   小滝坑に向かい、そこからさらに利根村根利に向かう路線である。物資や鉱石を運
   ぶため、足尾町内に大規模なものがいくつも作られたが、閉山後にすべて撤去され
   ている。登山家を乗せたという記述も残っており、鉱夫などの輸送にも使われたと
   みられる。

馬車鉄道、ガソリンカー:人や物資を運ぶために町内の道路に路線がつくられた。
   初期には馬車鉄道であった路線が、後に鉄索や鉄道に切り替えられたところも多い。

つづく