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旧中山道、信州 宿場探訪

望月氏・望月城跡
(佐久市)

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

May 15, 2015
Alternative Media E-wave Tokyo
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信州 宿場探訪 (中山道 長久保宿〜望月宿)
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望月氏



 望月氏(もちづきうじ)は、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族です。

 公卿正四位参議・滋野貞主の嫡流、滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとされています。

 滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、根津氏と並び、滋野三家と呼ばれています。

◆「望月」の姓の起こり

 平安時代初期、貞観7年(865年)に、それまで8月29日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月(望月)の日8月15日に改めた。この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏であり、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族にて望月の姓が与えられた。

◆滋野氏分家

 海野信濃守幸恒の長男海野小太郎幸明の次男の滋野直家は分家して小県郡祢津(根津)の庄を継承して根津氏(根津小太郎直家)を起こし、三男の滋野重俊は佐久郡望月邑(望月ノ牧)を継承し望月氏(望月三郎重俊)を起している。

 特に海野氏、根津氏、望月氏を滋野三家といい、三家は緊密で、出陣の次第によると海野氏が戦うときは海野幡中、左根津、右望月と称し、望月氏が戦うときは、望月幡中、左海野、右根津となり、祢津氏が戦うときは、根津幡中、左海野、右望月と、三家一丸となって外敵に当たったという。
この頃の家紋は海野氏が洲浜や月輪七九曜、結び雁金、六連銭(六文銭)を用い、望月氏は丸に七曜、九曜紋(九曜星)、下り藤を用い、祢津氏は丸に月、六連銭、丸に違い鷹の羽を用いた。

歴史
鎌倉時代

 望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曾義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月国親の時代と考えられ、望月国親は後に源義仲の従臣として侍大将の一人として仕える。当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。義仲が越後の平家方を迎撃した寿永元年(1182年)9月の横田河原の戦いでは、木曾衆と上州衆(甲斐衆とあるが、甲斐衆は頼朝・北条時政方として黄瀬川に参陣しているため誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録があり、この佐久衆の中心が古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定されている。また、義仲の四天王といわれた根井光親も望月氏傍流である。

 義仲の没落後は鎌倉幕府の御家人となり、望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。文治4年(1188年)、奥州藤原征伐に従い、建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を、幕命により追討している。さらに建保元年(1213年)の和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち、信濃国和田を恩賞として賜っている。幕府滅亡直後の元弘3年(1333年)10月には建武政権の国司清原氏から改めて所領を安堵されている。

室町時代

鎌倉滅亡後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児北条時行を擁して挙兵、足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け本拠地の望月城(現:佐久市)を喪うが、間もなく同城を再建し勢力を維持した。続く南北朝の争いでは一族の多くが南朝に与して戦った。

戦国時代

 戦国期に入り、望月氏も望月城を拠点に活動をするが、隣国甲斐国の武田氏や、越後国の長尾氏(上杉氏)などの度重なる侵攻により衰退し、天文12年(1543年)9月に望月源三郎が実弟の望月新六と共に武田氏に対し最後まで抵抗するが、同じく滋野氏の流れを汲む真田幸隆の仲介による説得を得て武田氏に服従し、望月氏を継ぐことになる(源三郎は、臣従後に晴信の一字「信」を与えられ信雅と名乗る)。その後望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を、武田信玄の弟・典厩信繁の嫁とし、信繁の子(望月信頼、望月信永)を信雅の養子とするなどして、名族望月氏は武田一門に組み込まれていった。

 信雅引退(出家し印月斎一峰と称す)の後は、望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として60騎を率いて本陣旗本として活躍する。しかし、その信永は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて討ち死する。その後、しばらくは信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれ、後に印月斎(信雅)が当主に復帰する異例の状態となる。

 天目山の戦いで武田軍が織田軍に敗れ、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、印月斎(信雅)や望月権兵衛など難を免れた者達は、富士川流域の山間(現在の山梨県南部(南部町や身延町、早川町)から、静岡県富士市や静岡市北西部からあたり)に身を隠し移り住んだ。現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。

 印月斎引退後、跡目は望月昌頼が継ぐことになったが、一族の出身かは不明(同名の盛時の兄とは年代的に別の人物と思われる)。昌頼は後北条氏の傘下に入るが、天正10年(1582年)9月、徳川軍の依田信蕃一か月に及ぶ攻城戦の末に望月城は落城し、望月昌頼は十八歳の若さで自刃し、望月氏嫡流は絶えたと言われている。

 なお、豪族望月氏の治めた地であり町名でもある「望月」ですが、町内には望月の姓の者が一人もいなかったそうです。(近年は外からの転入者が数名いますが)

 その理由として考えられているのが以下の2つです。

 武田氏が織田氏に敗れた際に、山梨県南部や静岡県に身を隠し移り住んだ為
 武田氏が織田氏に敗れた際に、身を案じて姓を変えた為


望月城


出典:グーグルマップ衛星画像



 望月城は長野県佐久市にあった日本の城です。

 戦国時代、信濃国の佐久郡望月地方の豪族望月氏の山城でした。

 城主郭部の標高は780m、市街地の標高が670m程度であるため、比高は110mほど。主郭部の東側は浅い谷津であり、比高は30m程度に過ぎません。

 城主郭部(山頂)から南西2kmほどの広さに、主郭から三の郭までが構築され、南方の支城には五の郭までは確認できています。


望月城推定図
撮影:池田こみち  Nikon Coolpix S6400  2015-5-4

 雄大にして堅固な山城で、腰曲輪や帯曲輪、空堀など整然と構築され、比較的保存状態も良いようです。

歴史・沿革

 望月城の歴史は古く、最初の築城は鎌倉時代頃であり、滋野氏の流れを汲む滋野三家の望月氏が本拠地として天神城として築城されました。中先代の乱(1335年)8月に、信濃守護の小笠原貞宗が経氏に命令し攻撃・落城したとありますが、望月氏は滅亡せず室町時代に新たに望月城をして築城しています。

 天文12年(1543年)、武田信玄の猛攻によって陥落しますが、望月氏が武田氏の支配下となることで城は存続しました。武田氏滅亡後、北条氏と一年も籠城戦を行い大軍を動員していた北条方が兵糧等の戦費が負担になり望月氏と和睦をするも、天正10年(1582年)に徳川軍の依田信蕃によって佐久の諸城は攻略され、望月城も一ヶ月半の籠城戦の後に落城しました。


つづく