日本と中国の歴史をひも解くシリーズ 南京大虐殺の前夜、唐生智は南京を 死守しようとしたが、蒋介石は3通の 電報で早急な撤退を命じた② 南京大屠杀前夕,唐生智本想死守, 蒋介石连发3道电令:从速撤退 来源:腾讯网/百度 2022年2月8日 中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授) 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年2月9日 |
唐生智 総合メニューへ (1) (2) (3) (4) 本文 02 「南京を死守する 南京をどう守るか? 蒋介石は「短期塹壕」の方針を打ち出し、軍の一部を使って南京を守り、できるだけ長く日本軍を阻止することで、敵の西進を阻止して遅らせ、国民軍主力の移動と適所への集中を可能にし、日本軍に対抗する戦場を設定することを提案した。 このように唐生智の南京防衛は、日本軍の大軍をできるだけ長く食い止めることであった。 1〜2カ月でも開催できれば、戦略的な意義も出てくるはずだ。 唐生智は、最後まで戦争に抵抗する決意を示すため、南京の全軍人・民間人に向けて檄を飛ばした。 防衛戦が始まる前には、毎日南京周辺の各要塞を訪れ、準備状況を点検した。 唐生智は将校や兵士に言った。 「抵抗戦争」というと、「普段は犠牲を払えと言っているだけなのであろう? 私たち役員は、模範となるべき存在です。 兵士として国土を守る責任があるのだから、敵の攻撃を前にして、危険や困難に直面しても、混乱してはならない。」 軍隊と民衆の心を安定させるために、市民を避難させる際、唐生智は家族を南京に残すことを決意したことは注目に値する。 日本軍の飛行機は毎日のように爆撃を行い、爆弾は唐家の庭に直接落ちたが、幸いにも犬が死んだだけで誰も怪我をしなかった。 このような状況下でも、唐生智は妻子を南京に避難させることを許さなかった。 11月27日、唐生智は記者とのインタビューで、「私は南京を守るよう命じられたが、少なくとも二つのことを確信している。第一に、私と私の属する部隊は南京とともに生き、南京を守るために自らを犠牲にすることを誓ったこと、第二に、このような犠牲は必ず敵に多大な損害を与えるだろう」 と厳かに語っている。 しかし、実は唐生智の頭の中では、南京を長く守るのは容易ではないとも考えていた。 晩年、彼はある人に、当時四川軍の将軍であった劉協から、「お前は本当に南京と生きて死にたいのか」と言われたと語ったと言ったそうです。 「南京は守れない」というのは、ちょっと軍事の常識があればわかることで、「バカなことをする」と言われることもあるが、世の中にはバカでなければできないことがあると思う。 南京は我々の首都であり、簡単に敵に渡すわけにはいかない」。 南京に侵攻した日本軍の兵力は10万人ほどだった。 南京の防衛に参加した守備隊は15万人に及んだ。 戦力的には国民党軍が有利であった。 軍備や訓練はやや劣るとはいえ、城壁や防壁に覆われているため、戦力はさほど大きくはない。 松湖海戦では、上海には南京のような強固な城壁はなく、日本軍は水軍の支援を受けていた。 このような不利な条件下で、上海の戦いは3カ月に及んだ。 南京防衛の実情に照らし合わせると、唐生智は南京を死守する「資本」があったのである。 水と戦い、運を断ち切り、南京を死守する覚悟を決めるため、唐は南京の輸送船の大半も移し、第一軍を浦口に駐留させ、いかなる軍隊も北へ渡ることを禁じた。 12月初旬、司令部の将兵は皆、その使命に深く心を砕き、国のために死ぬ覚悟で最後の手紙を事前に書き、全員が街に人が住み、人が滅びることを覚悟していた。 その頃、南京には日本軍の侵攻が始まっていた。 日本側の指揮官は、悪名高い陸軍大将の松井石根(まつい・いしね)である。 11月下旬、日本軍は東洋のマジノと呼ばれる4つの防衛線を突破し、南京の端まで進攻した。 南京防衛の任務を引き受けた唐生智は、南京周辺の地形を調べ始めた。 2日間の現地調査の後、唐生智は南京市を中心とした2つの防衛線を敷き、深謀遠慮の防衛を図った。 唐生智の戦法は、まず外周で戦い、外周の守備が守れなければ、外郭に入るというものだった。 外郭が失敗したら、内郭に退却する。 内郭が開催できない場合は、街中で路地裏の戦いをすることになる。 (3)へつづく 総合メニューへ |