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第5回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2016-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune


ヘルクラネウム遺跡 現地視察
HERCULANEUM  Ruins
鹿の家 1
 

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo

鹿の家の庭 Source:Wikimedia Common CC BY-SA 3.0, Collegamento

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

ブロック IV
モザイク・アトリウムの家1   モザイク・アトリウムの家2   アルコーヴの家  フォーラム1  フォーラム2  鹿の家1  鹿の家2  鹿の家3

◆鹿の家(ブロックⅣ、カルドⅤ、No.21)
  Casa del Cervi(伊)、House of the Deer (英)


Source:AD79eruption - Google Sites

 「鹿の家」は、以下のブロック図のCにあります。


Source:AD79eruption - Google Sites


 鹿の家(Deer House)は、西暦41年~68年ごろに建てられたもので、ヘルクラネウムで発見された最もエレガントな家と言えます。場所はインスラ(,ブロック)Ⅳ、カルドⅤ、No.21にあります。

 以下は「鹿の家」(Casa dei Cervi)の周辺地図です。


Source:Googl Map

 以下は「鹿の家」(Casa dei Cervi)の地図です。


Source:Googl Map


◆鹿の家 現地ガイド 


鹿の家の庭
Source:Wikimedia Common
CC BY-SA 3.0, Collegamento

 ネプチューンの泉を過ぎて、デクマヌス・インフェリオールと、海の神を描いたガーゴイルの装飾があるカルドⅤの角から、さらに左側に進むと、ヘルクレニウム最大の商店とFablic House(織物の家)があります(名前は、その家の部屋からいくつかの織物が発見されたことに由来します)。

 そして次は鹿の家(Deer House;ブロックⅣ、カルドⅤ、No.21)です。この家は、おそらく、西暦41年~68年ごろに建てられたもので、ヘルクラネウムで発見された最もエレガントな家と言えます。広大な広さを持つこの家は、広い長方形の部屋があり、長辺は43メートルあり、二つのエリアに分かれています。


 北側は広間と複数の居室となっており、南側は海を見下ろすテラスが四面に窓のあるポルティコ(柱廊式表玄関)に繋がっています。屋根付きのアトリウムは、壁の半分が黒その上半分が白の背景に建築の要素が半分まで描かれ、上部のトリクリニウムにつながっています。極めて見事な大理石の装飾が床を覆っています。鹿が犬に襲われている二体の彫刻が発見されたことからこの家は鹿の家と呼ばれています。

 次の部屋は、赤く塗られた壁と大理石の床、そして同じ装飾が施された丸天井の小さな部屋です。そこには、小さな”Satyr with wineskin”(ワインの革袋を持った好色男サテュロス)の小さな彫刻が発見されています。広い中庭を通り抜けると、その周りには四方窓付きの柱廊式表玄関ポルティコがあり、その床はモザイクで装飾され、壁はエレガントなフレスコ画”Cherbus' Games"(智天使ケルビムの狩り)が描かれています。

 さらに、南側の広い夏の寝室に入っていくと両側に二つの小さな部屋があり、貴重な大理石の装飾と4本柱のロッジア(建物に沿って作られた屋根付きの柱廊)があります。さらにその傍には二つの部屋があり、ひとつには”Heracules Inebriated (酒に酔ったヘラクレス)の彫刻が発見されました。

 鹿の家を出て歩みを進めるとSea Gate(海の門)に到着します。ここから、ヘルクラネウムの最南端のエリアに入り、沿岸域となります。この辺りに残された遺跡はカルドⅣの端とカルドⅤの端の間に位置する町の壁の近くに埋もれていました。

 注)ガーゴイル(英: gargoyle) ウィキペヂア
  雨樋の機能をもつ、怪物などをかたどった彫刻である。単なる
  雨樋単体や彫刻単体ではガーゴイルとは呼ばない。本来の意
  味である彫刻としてのガーゴイルは、主として西洋建築の屋根
  に設置され、雨樋から流れてくる水の排出口としての機能を持つ。



鹿の家の庭
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S8 2016年2月


◆鹿の家 歴史概要
Wiki;edia Italia

 鹿の家は、皇帝クラウディウスがローマに君臨していた時代に建てられたものである[2]が、Qの奴隷が所有していた。噴火の直前に解放されたグラニウス・ヴェルスは、デクマヌス・マキシマス(decumanus maximus)に沿って発見されたアウグストゥリのリストで証言されているように、Celerと名付けられた[3]が、パンの上のスタンプのおかげで焦げているのが発見された。

 家の入り口はカルドVに沿って配置されており、表面積は約1,090平方メートル[5]で、その後はアトリウムに直接アクセスすることができ、コンプルヴィウムとインプルヴィウム[4]はこの場合、家の中心としての本来の機能を失い、他の部屋に向かう廊下のようになります。

 この部屋は第4の様式で装飾されており、他の部屋では、黒の台座のパネル、黒と青の中間ゾーン、建築要素の図面で装飾された白のフリーズ[2]があり、アトリウムには、トリクリニウムと2つの小さなキュービクルの他に、上の階につながる階段があり、部屋の周囲に沿って配置されたバルコニー[1]に気づくことができます。

 トリクリニウムには、黒のパネルに赤で縁取られた絵画、建築的な要素を持つフリーズがあり、床は幾何学的な図形が配置されたポリクローム大理石である。アトリウムとトリクリニアムの軸上には、赤いパネルでフレスコ画を描いた部屋、赤とオレンジのフレスコ画を描いた部屋、赤とオレンジのフレスコ画を描いた部屋、黒で縁取られた赤のフレスコ画を描いた部屋など、一連の小部屋があり、そこには柱や建築の絵の古典的な装飾が加えられています[2]。

 この家のこちら側には、黒と白のモザイクの床と壁に描かれた60枚のフレスコ画のパネルがあるクリプトポルティカスが見渡せます(一部はブルボン時代の探検の際に取り除かれ、ナポリ国立考古学博物館に保存されています[3])。

 庭園を見下ろす大きな窓からは、円形のテーブルや、犬に襲われた2頭の鹿、ワインの皮を被ったサテュロス、酔っぱらったヘラクレス[4]などの彫像が発見されています。庭園を見下ろすクリプトポルティコの壁は白と赤のフレスコ画で飾られており、北側には、海の動物に乗った多数のキューピッド[3]に囲まれたオーシャンを描いたガラスモザイクで装飾されたペディメントを備えた大きな門があり、タブリナムに入ることができます。

 これは壁の装飾がほとんどなくなってしまった[2]。塔の周囲には2つのディアテアがあり、そのうちの1つはオプス・セクティル(opus sectile)で舗装されています[3]。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S8 2016年2月


◆ミニ解説:ラウディウス皇帝

 ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus, 紀元前10年8月1日 - 54年10月13日)は、ローマ帝国の第4代皇帝です。

 母方の祖父が第2回三頭政治主催者の一人であるアントニウスであり、父方の祖母が初代皇帝アウグストゥスの後妻リウィアです。また、アウグストゥス帝その人も母方の祖母の弟、つまり大叔父にあたります。さらに、父である大ドルススの兄が第2代皇帝ティベリウスで、実弟が第3代皇帝カリグラの父ゲルマニクス、加えて最後の妻にして第5代皇帝ネロの母である小アグリッピナは姪に当たります。

 このように4親等以内に元首政初期のローマ国政の重要人物が集中するユリウス・クラウディウス家の一員に生まれています。しかし、身体的ハンデから一族中では疎まれ、長らく公務に関与することは出来ませんでした。

 カリグラが暗殺されると、プラエトリアニに担がれる形で皇帝に就任しました。就任に際して元老院の承認を受けたものの、実質的にはプラエトリアニの軍事力によって就任しており、軍事力がローマ皇帝を決定する最初の例となりました。

 また、ユダヤの統治問題などを解決しました。身体の不具合から元老院議員に影響力や友誼を持っていなかったため、カエサル家の解放奴隷を積極的に行政に登用しました。このことは非元老院議員の統治への関与を増大させ、皇帝への権力集中や官僚制の発達を推進しました。


鹿の家2につづく