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世阿弥と日蓮の足跡をたどる佐渡の旅

佐渡金山・概説

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2018年9月18日公開
独立系メディア Media E-wave Tokyo 
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佐渡現地視察総合目次 

 佐渡金山・概説・歴史  佐渡金山ツアー  宗太夫抗・資料展示
 ジオラマ@間歩  ジオラマA普請  ジオラマB排水  ジオラマC探鉱
 ジオラマD捨石  ジオラマE金鉱  ジオラマF小判


 以下は事業者による佐渡近在の概説。 出典:佐渡ゴールドマイン・新潟県

◆佐渡金銀山とは

 日本海に浮かぶ島、佐渡。その大きさは、855km2(東京23区の約1.4倍)と、離島としては日本第2位の面積を持つ島です。佐渡には金、銀などを産出する55の鉱山があり、西三川砂金山、鶴子銀山、相川金銀山など島内のおもな鉱山を総称して「佐渡金銀山」とよんでいます。佐渡金銀山は江戸時代からの400年間に金78トン、銀2,330トンを産出し、日本最大の金銀山として国内外の経済に大きな影響を与えました。

 以下は西三川砂金山、鶴子銀山、相川金銀山の佐渡におけるそれぞれの位置。


出典:佐渡ゴールドマイン・新潟県


◆世界遺産暫定一覧表に記載される

 佐渡金銀山は2010年11月に「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」という名称で世界遺産暫定一覧表に記載されました。

・勝場 読み方:セリバ
 近世の鉱山で買石が粉成・吹立を行う製錬所。
 買石(カイシ):江戸時代、鉱山で選鉱製練にあたった独立の経営者をさす言葉。

・寄勝場(よせせりば)
 粉成場(こなしば)ともいい、鉱石を粉砕し、金銀を取り出す場所。その技法に水流を使って砂粒の中から金銀を取る「ねこ流し」がある。展示されている絵図に描かれているのと同じ金の製錬を体験できる。

・佐渡金銀山 金を中心とする佐渡鉱山の遺跡群


西三川砂金山

 西三川砂金山は、平安時代の「今昔物語集」にも登場したと推定される、佐渡最古の砂金山です。西三川では、「大流し(おおながし)」と呼ばれる砂金採取が行われました。集落周辺の山の各所に堤や水路、砂金を採るために山を掘り崩した痕跡が良好に残っています。

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◆鶴子銀山

 鶴子銀山は、1542(天文11)年に発見されたとされる佐渡最大の銀山です。600カ所以上の採掘の跡が確認され、時代の異なるさまざまな掘り方を見ることができます。また、鉛を使って鉱石から銀を取り出す灰吹法などの技術が石見銀山(いわみぎんざん[島根県太田市])からもたらされました。

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◆相川金銀山

 相川金銀山は、江戸時代に本格的な開発が始まりました。大量に生産された金や銀は貨幣として利用され、国の財政を大きく支えました。また、採掘から小判製造までが同じ場所で行われていた鉱山は国内でも佐渡だけであり、その工程を鮮やかに描いた鉱山絵巻が100点以上も残っています。

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◆鉱石から小判ができるまで

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◆鉱山が育んだ暮らしと文化

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◆佐渡の金銀山関連年表

平安時代  『今昔物語集』に能登の人が佐渡で金を採取したと記録される
        (西三川砂金山)
15世紀    室町時代   世阿弥が佐渡に流され、『金島書』を書く
1542     天文11    鶴子銀山が発見される
1601     慶長6     相川金銀山が本格的に開発される
1603      慶長8     大久保長安が佐渡代官になる
1604     慶長9    佐渡奉行所がつくられる
1621     元和7    佐渡で小判の製造が始まる
1653     承応2    京都から水学宗甫が来島し、水上輪の作り方を伝える
1696     元禄9    延長約1kmの南沢疎水道が完成する
1758     宝暦8    佐渡奉行所に寄勝場が設置される
1868     明治元   イギリス人鉱山技師ガワ−が来島し、火薬発破法を伝える
1869     明治2    佐渡金銀山が明治政府直営の鉱山になる
1872     明治5    西三川砂金山が閉山する
1877     明治10   日本初の西洋式坑道である大立竪坑が完成する
1885     明治18   佐渡鉱山に大島高任が鉱山局長として赴任する
1889     明治22   佐渡鉱山が皇室財産となり、御料局の所管になる
1892     明治25   大間港が完成する
1896     明治29   佐渡鉱山が三菱に払い下げられる
1908     明治41   相川北沢に出力500kwの佐渡初火力発電所が完成
1915     大正4    戸地川第一発電所が建設される
1918     大正7    戸地川第二発電所が建設される
1940     昭和15   相川北沢に浮遊選鉱場が完成する
1946     昭和21   鶴子銀山が閉山する
1952     昭和27   佐渡鉱山の規模を縮小、従業員を530人から49人に
1989     平成元   佐渡鉱山が操業を休止する


佐渡金山とは  出典:Wikipedia他

 佐渡金山(さどきんざん)は、新潟県佐渡市にある金山である。鉱石は主に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。金山遺跡のうち相川鉱山関係遺跡が「佐渡金山遺跡」として国の史跡に指定されている。


佐渡金山の入り口  出典:Wikimedia Commons



往時の佐渡金山の風景   撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

概要
 戦国時代には佐渡金山と称される金脈は未発見であり、戦国大名の上杉謙信がかかわった記録はない。しかし、山の反対側では鶴子銀山が採掘されている。

 小説『武田信玄』において新田次郎は佐渡金山が上杉謙信の財源であったと描写し、「記録が無いのは秘密にしたからである」としているが、戦国時代の佐渡は本間氏の領国であり上杉氏は領有しておらず、その意味からも上杉謙信が佐渡金山を保有していたということはありえない。


歌川広重の描いた佐渡金山 
出典:Wikimedia Commons

 ただ、『今昔物語集』の巻26・第15話に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」という段があり伝聞の収録という形ながら佐渡で金が採れるという点に言及されている。今昔物語集の成立年代と推定される11世紀後半には少なくとも砂金等の形で佐渡で金が産出することは知られていたようである。

 天正17年(1589年)に上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝により本間氏が滅ぼされ佐渡は上杉領となる。

 慶長6年(1601年)徳川家康の所領となる。同年、北山(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。

 江戸時代初期すなわち慶長から寛永年間にかけての最盛期には金が1年間に400kg、銀が40トン以上採掘される。

 当時としては世界最大級の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。

 産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。

 鉱山の労働者の給与水準も高く、周辺の町は大変栄えたという。江戸時代後期には江戸から約1,800人の無宿人(浮浪者)・罪人が強制連行され過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたという金山側の事情もある。

 現在は金の値段と労働賃金がつりあわず、採算が取れないため、採掘を中止して観光施設となっている。坑道の総延長は実に約400kmに及ぶが、そのうち約300mが観光ルートとして公開されており、採掘風景を再現した人形が70体あまり設置されている。


沿革
 1601年(慶長6年) - 鶴子銀山の山師3人により発見。
 1603年(慶長8年) - 佐渡奉行大久保長安の管轄となる。
 1868年(明治元年) - 工部省に所属。
 1889年(明治22年) - 宮内省御料局に所属。
 1896年(明治29年) - 三菱合資会社に払い下げられる。
 1918年(大正7年) - 三菱鉱業株式会社(現・三菱マテリアル)に引き継がれる。
 1967年(昭和42年) - 佐渡鉱山のうち、相川鉱山関係遺跡が「佐渡金山遺跡」
   として国の史跡に指定された。
 1973年(昭和48年) - 佐渡金山株式会社として独立する。
 1989年(平成元年)3月31日 - 鉱量枯渇のため採掘中止。三菱マテリアルの
   100%子会社である株式会社ゴールデン佐渡に経営が引き継がれる。
 2007年(平成19年) - 日本の地質百選に選定。
 2008年(平成20年) - 大立竪坑櫓、大立捲揚室、道遊坑、間ノ山上アーチ橋
   および間ノ山下アーチ橋が登録有形文化財となる。なお、これらの物件が
   2012年(平成24年)に重要文化財に指定されたことに伴い、登録有形文化
   財としての登録は抹消されている[2]。
 2012年(平成24年) - 建造物3基4棟1所が「旧佐渡鉱山採鉱施設」として国の
   重要文化財に指定される。

文化財
重要文化財

 ・旧佐渡鉱山採鉱施設 3基4棟1所
 ・大立竪坑櫓(おおだてたてこうやぐら)1基
 ・大立竪坑捲揚機室(- まきあげきしつ)1棟
 ・道遊坑及び高任坑(どうゆうこうおよびたかとうこう)1所
 ・高任粗砕場(たかとうそさいば)1棟
 ・高任貯鉱舎及びベルトコンベアヤード 1棟
 ・電車車庫(機械工場)1棟
 ・間ノ山上橋(まのやまかみばし)1基
 ・間ノ山下橋 1基

史跡
 国の史跡「佐渡金銀山遺跡」に指定されているのは、「道遊の割戸」(どうゆうのわりと)、「宗大夫間歩」(そうだゆうまぶ)、南沢疏水、大立竪坑櫓、間ノ山搗鉱場(あいのやまとうこうば)などの採鉱関係の遺構・遺跡、佐渡奉行所跡、旧時報鐘楼、旧御料局佐渡支庁庁舎などの経営関係遺跡、また、佐渡鉱山の開発に功のあった佐渡奉行大久保長安の建てた大安寺である。2011年(平成23年)には鶴子(つるし)銀山跡を追加して「佐渡金銀山遺跡」の名称に変更された。


大安寺  出典:さど観光ナビ


重要文化的景観
・佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観(2011年(平成23年)選定)
『今昔物語集』に記され12世紀より砂金採取が行われていた佐渡最古の金山跡で、農山村へ移行する過程が見られる。

・佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観(2015年(平成27年)選定)
江戸時代の採掘中心地で佐渡奉行所が置かれた相川地区と、明治の近代化以降に中核となった北沢地区の施設(大間港含む)と京町通りの景観。


つづく