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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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赤十字強制収容所(The Crveni Krst concentration camp:セルビア)
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概要
 セルビアの赤十字強制収容所(The Crveni Krst concentration camp)は、ドイツのゲシュタポによって運営され、第二次世界大戦中に連行されたセルビア人、ユダヤ人、ロマ人を収容するために使用された。1941年中頃に設立され、戦争中に35,000人もの人々を拘束するために使われ、1944年にユーゴスラビアパルチザンによって解放された。

※  英  The Crveni Krst concentration camp
    独  Das Konzentrationslager Crveni Krst
   セルビア Концентрациони логор
      Црвени Крст
   クロアチア Crveni koncentrirani logor Krst
   日 セルビアの赤十字強制収容所

 1万人以上の人々が収容所で殺されたと考えられている。戦争後、多くの受刑者が射殺されたブバンの丘に犠牲者の記念碑が建てられた。 記念博物館は1967年に旧収容所跡地に開設され、1979年には収容所は重要文化財であることが宣言され、セルビア社会主義共和国の管理下に置かれた。

解説 
背景

 1941年4月6日、枢軸軍はユーゴスラビア王国を侵略した。ロイヤル・ユーゴスラビア軍はすぐに敗北し、ベオグラードは4月12日に陥落した。ドイツ国防軍は軍事政権下でセルビアに軍事司令官の領土を確保したことにより、セルビアは国が占領、分割されることとなった。この地域には、コソボの北部(Kosovska Mitrovicaを中心に)とBanatを加えたセルビアの大半が含まれていた。それは、ドイツの占領者たちが軍事政権を確立し、分割したユーゴスラビアの唯一の区域であった。これは、そこを通過する主要な鉄道と河川(船舶)輸送ルートを奪い取るためであり、貴重な資源、特に非鉄金属の輸送のためだった。

 セルビアに入った(ドイツの)軍司令官は、セルビアの傀儡政権に対し、「ドイツの監視監督下で行政の仕事を遂行せよ」と命じた。1941年8月29日、ドイツ人はミラノ・ネディッチ将軍の下で国民救済政府(セルビア語:Vlada Nacionalnog Spasa、ВладаНационалногСпаса)を任命し、一時的に行政長官を置き換えた。枢軸国寄りとして知られる戦前の政治家、ネディッチが選出されたのは、ドイツ人が、彼(ネディッチ)は激しい反共主義的者であり軍事的な経験があることから、シュマディアのセルビア地域で武装蜂起を鎮圧することができると信じていたからである。

 ドイツは、東部戦線に援軍兵士を派遣す必要があったが、それができなかったため、(セルビア内の)反乱を鎮圧するため、ドイツ人1人につき100人のセルビア人を殺し、また、負傷したドイツ軍兵士 1人につき50人を処刑すると宣言した。1941年10月までに、この政策によって2万5千人のセルビア人が死に追いやられた。ドイツ人はまた、強制労働、懲罰的課税、制限令の対象となっていたユダヤ人も標的としていた。

 ユダヤ人はまたドイツ当局に登録され、見分けるための腕輪を付けさせられさらに、財産は没収されていた。間に武器を特定するように強制されたユダヤ人は、ロマ人に比べると、人種的な理由で標的にされていたが、徹底的に殺されてはいなかった。反ドイツ蜂起の開始後、ドイツの宣伝工作は、ユダヤ人を共産主義と反ドイツのイデオロギーと関連づけ始めた。


 その後、セルビア人ユダヤ人の処刑と逮捕が続いた。

 ドイツ人が1941年4月にセルビア南西部のニシュ島を占領したとき、彼らはロマ人を区別するためのザグネー(ジプシー)と表記した黄色の腕章を持たずに家を出ることを禁止した。その後、ドイツの兵士たちはロマ人地域に入っていき、ニシュのすべてのロマ人の頭を、シラミがいるという口実の下で強制的に剃った。

作戦

 Crveni Krst(赤十字)強制収容所は、1941年半ばにドイツのゲシュタポによってニシュに設立された。収容所の近くにある赤十字社の施設にちなんで命名された。もともと通過収容所(ドイツ語:Durchgangslager)として創られた収容所であった。しかし、その年の9月までに、強制収容所に変容した。

 ロマ人の男性、女性、子供たちは、開設直後に赤十字強制収容所に投獄された。1941年10月、ニシュに住む200~300人の国内外のユダヤ人が収容所に連行された。多くはセルビアの内陸部の町からここに輸送された。9月にドイツ人が可決した法律はユダヤ人は他の受刑者とは別に拘束されることを確実にしていた。

 ドイツ人は11月初めに成人男性の受刑者を処刑し始めた。1月に、セルビアのパルチザンの集団が少数のユダヤ人捕虜を解放して収容所を攻撃した。最初の大量処刑は、1942年2月にブバンの丘で行われた。

 犠牲者の中には、ここで人質にされ、撃たれ殺されたロマ人の受刑者が多数いた。1日に 100人もが射殺された。その月には、収容所の一員が収容所から脱出しようとする組織的な試みを行った。

 15人の囚人が逃亡したが、42人が失敗して殺された。2度目の大量虐殺のときには、多数のセルビア人とユダヤ人収容者の遺体が集められ、その死体が大墓地に投棄され、ロマの囚人に穴を掘り起こさせた。

 その春、赤十字強制収容所に拘束された女性と子供たちはベオグラードの郊外にあるサイミシュテの強制収容所に移され、そこで(車から一酸化炭素を引き込んで殺す)ガス・バンを使用して殺された。

 
 収容所は、1944年にパルチザンによって解放されるまで、その後2年間にわたって操業を続けた。戦時中に収容された35,000人以上の受刑者のうち、10,000人が死亡した。

レガシー
赤十字強制収容所博物館。
 戦後、収容所の犠牲者の記念碑がブバン山に建立された。1977年、収容所はセルビア社会主義共和国の保護下に置かれ、特に重要な文化記念碑として宣言された。

 1987年にこうした出来事を詳しく取り上げた映画「ラガー・ニシュ」がユーゴスラビアで公開された。この映画は、特に強制収容所の収容者達に思いを巡らせた国内初の映画となった。

脚注
1. Ramet 2006, p. 111.
2. Hehn 1971, official name of the occupied territory.
3. Tomasevich 2001, pp. 63?64.
4. Tomasevich 2001, p. 64.
5. Tomasevich 2001, p. 177.
6. Tomasevich 2001, p. 179.
7. Singleton 1985, p. 182.
8. Pavlowitch 2002, p. 143.
9. Mojzes 2011, p. 80.
10. Israeli 2013, p. 22.
11. Kenrick & Puxon 2009, p. 80.
12. Mojzes 2011, p. 84.
13. Mojzes 2011, p. 83.
14. Israeli 2013, p. 38.
15. Kenrick & Puxon 2009, p. 81.
16. Milton 1983, p. 284.
17. Al Jazeera & 5 July 2012.
18. Byford 2013, p. 528.

参照
著作
1.Byford, Jovan (2013). Himka, John-Paul; Michlic, Joanna Beata, eds. Bringing the Dark Past to Light: The Reception of the Holocaust in Postcommunist Europe. Lincoln, Nebraska: Nebraska University Press. ISBN 978-0-8032-4647-8.

2.Israeli, Raphael (2013). The Death Camps of Croatia: Visions and Revisions, 1941?1945. New Brunswick, New Jersey: Transaction Publishers. ISBN 978-1-4128-4975-3.

3. Kenrick, Donald; Puxon, Grattan (2009). Gypsies Under the Swastika. Hatfield, Hertfordshire: University of Hertfordshire Press. ISBN 978-1-902806-80-8.

4. Milton, Sybil (1983). "The Righteous Who Helped Jews". In Grobman, Alex; Landes, Daniel; Milton, Sybil. Genocide, Critical Issues of the Holocaust: A Companion Volume to the Film "Genocide". Los Angeles: Simon Wiesenthal Center. ISBN 0-940646-38-2.

5. Mojzes, Paul (2011). Balkan Genocides: Holocaust and Ethnic Cleansing in the 20th Century. Lanham, Maryland: Rowman & Littlefield. ISBN 978-1-4422-0665-6.

6. Pavlowitch, Stevan K. (2002). Serbia: The History of an Idea. New York: New York University Press. ISBN 978-0-8147-6708-5.

7. Ramet, Sabrina P. (2006). The Three Yugoslavias: State-Building and Legitimation, 1918?2005. Bloomington, Indiana: Indiana University Press. ISBN 978-0-253-34656-8.

8. Singleton, Frederick Bernard (1985). A Short History of the Yugoslav Peoples. New York: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-27485-2.

9. Tomasevich, Jozo (2001). War and Revolution in Yugoslavia, 1941?1945: Occupation and Collaboration. Stanford, California: Stanford University Press. ISBN 978-0-8047-3615-2.

雑誌
1. Hehn, Paul N. (1971). "Serbia, Croatia and Germany 1941?1945: Civil War and Revolution in the Balkans". Canadian Slavonic Papers. University of Alberta. 13 (4): 344?373. JSTOR 40866373.

ウエッブサイト
. "Srbija obnavlja logor na Crvenom krstu" [Serbia Renovating the Concentration Camp at Crveni Krst]. Al Jazeera (in Serbo-Croatian). 5 July 2012.


出典:Wikipedia英語版より日本語翻訳


欧州におけるナチスドイツの強制収容所。ユーゴスラヴィア南部のセルビアに赤十字強制収容所がある。
Source:Wikimedia CommonsSource:Wikimedia Commonss
I, Dennis Nilsson, CC 表示 3.0, リンクによる

ニースの強制収容所(セルビア)、08年11月撮影。
出典・Source:Wikimedia Commons CC BY 3.0, Link


赤十字強制収容所博物館(セルビア、ニース)
出典・Source:Wikimedia Commons  CC BY-SA 3.0, Link