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ベトナム・ホーチミン市短訪
Short visit to Ho Chi Minh City in Vietnam
戦争証跡博物館①
Vietnam War Remnants Museum 1

青山貞一・池田こみち
Teiichi Aoyama & Komichi Ikeda
Environmental Research Institute, Tokyo

    
掲載月日 掲載月日:2011年2月24日2013年8月7-11日拡充
 
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


戦争証跡博物館1 戦争証跡博物館2  戦争証跡博物館3
ベトちゃんとドクちゃん

 今回は3泊4日の旅ですが、実質2日だけです。しかも、ホーチミン市だけの訪問です。

 そこは仕事柄現地調査は、お手の物、ホーチミン市の中心地に位置する①戦争証跡博物館、②歴史博物館、③革命博物館、④作戦博物館、⑤トン・ドック・タン博物館など、ほぼすべての博物館、⑥統一公堂、⑦人民委員会、それに資料館など訪問しました。 いずれもベトナム戦争や独立と関連するものです。


ベトナム戦争証跡博物館

 とくに今回のメインの訪問先であるべトナム戦争証跡博物館には、海外からの多くの観光客はじめベトナムの学生らが見学にきていました。


ホーチミン市の戦争証跡博物館


ホーチミン市中心地における戦争証跡博物館の位置

◆ベトナム戦争とは

 ベトナムは、インドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生した戦争である。第二次インドシナ戦争とも。ベトナムでは抗米救国闘争といわれる(インドシナ戦争は抗仏救国闘争)。

 ベトナム戦争は宣戦布告なき戦争であるため、ベトナム戦争がいつ開始されたかについては諸説ある。南北ベトナムの統一戦争という観点からは、南ベトナム解放民族戦線がベトナム共和国(南ベトナム)政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的である。

 この戦争はアメリカを盟主とする資本主義陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営との対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」であった。ホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側は、南ベトナムをアメリカ合衆国の傀儡国家と規定し、ベトナム人によるベトナム統一国家の建国を求めるナショナリズムに基づく植民地解放戦争であるとした。

 第一次インドシナ戦争終結後も、北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線(アメリカ合衆国民からの敵視表現ではベトコン)が南ベトナムで反政府活動を続けたため、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権は少数のアメリカ軍人からなる「軍事顧問団」を南ベトナムに派遣した。ジョン・F・ケネディ大統領は軍事顧問団の規模を増大させた。リンドン・ジョンソン大統領は大規模なアメリカ軍を送ってベトナム戦争に積極的に介入した。

 アメリカの他にSEATO(東南アジア条約機構)の主要構成国である大韓民国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが南ベトナムに派兵した。ソビエト連邦や中華人民共和国は北ベトナムに対して軍事物資支援を行うとともに多数の軍事顧問団を派遣したが、アメリカやSEATO諸国のように前面に出る形での参戦は行わなかった。さらにソビエト連邦は西側諸国で行われた反戦運動に様々な形での支援を行っていた。北朝鮮は飛行大隊を派遣しハノイの防空を支援した。

 ベトナム戦争をめぐって世界各国で大規模な反戦運動が発生し社会に大きな影響を与えた。1973年のパリ協定を経てリチャード・ニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させた。その後も北ベトナム+南ベトナム解放民族戦線と南ベトナムとの戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦した。

出典:Wikipedia

ベトナム戦争における戦闘による死亡者概数   単位:人
米軍 サイゴン軍 第三国軍 サイゴン側合計 革命側合計
1965 1369 11243 31 12643 35000
1966 5008 11953 566 17527 56000
1967 9378 12716 1105 23199 88000
1968 14592 27915 979 43486 181000
1969 9414 21833 866 32113 157000
1970 4221 23346 704 28271 104000
1971 1380 22738 526 24644 98000
1972 300 39587 443 40330 132000
合計 45662 171331 5220 222213 851000
出典:SUZUKI Kentarou氏

ベトナム戦争でのベトナム人の死者推計
最も少ない数値をとった時 大きい方の概数をとった時
サイゴン軍の死者 220357 220000
革命側戦闘員の死者 666000
革命側の「烈士」 1000000
南の民間人犠牲者 247600 430000
北の民間人犠牲者 65000 65000
合計 1198957 1695000
(烈士とは革命の過程で犠牲になった人、戦闘員・非戦闘員の区別はない)
出典:SUZUKI Kentarou氏

米国が参戦した3つの戦争
  (第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争)の比較


 米国が参加した3つの戦争(第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争)の比較。継続年数は、第二次世界大戦が3年8か月、朝鮮戦争が3年1か月、ベトナム戦争が17年2か月と、ベトナム戦争が圧倒的に長い年月となっていることが分かる。

 米軍が投下した爆弾では、第二次世界大戦が500万トン、朝鮮戦争が260万トン、ベトナム戦争が1430万トンと、やはり圧倒的にベトナム戦争が多いことが分かる。

 さらに戦費では、第二次世界大戦が3410億ドル、朝鮮戦争が540億ドル、ベトナム戦争が6760億ドルと、ベトナム戦争が一番大きい。

 また米軍の戦死者は、第二次世界大戦が40万5399人、朝鮮戦争が36407人、ベトナム戦争が58159人と、第二次世界対戦が多くなっている。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


ホーチミン市の戦争証跡博物館
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 戦争証跡博物館は、ベトナム・ホーチミン市中心部にある、ベトナム戦争の歴史を綴る博物館です。

 開館時間は7:30~12:00, 13:30~17:00。建物は3階建てで、屋外にはベトナム戦争で使用された戦闘機や戦車が展示されています。屋内には大砲や爆弾などの遺物、戦争の足跡をたどる貴重な記録が展示されています。枯葉剤の犠牲となった人々の写真もあります。

 ベトナム戦争中に命を落とした戦場カメラマン、報道写真家たちについて紹介する階があり、ロバート・キャパをはじめとした世界中のカメラマンについての文が写真とともに展示されています。

 日本人カメラマンも多く紹介されており、ピュリッツァー賞を受賞した沢田教一の『安全への逃避』も展示されていました。また、『地雷を踏んだらサヨウナラ』で知られる一ノ瀬泰造を紹介する文と、彼が愛用していたカメラ(ニコンF。弾丸が貫通している)の写真があります。


ホーチミン市の戦争証跡博物館の庭にて


ホーチミン市の戦争証跡博物館の入口のすぐ左では
催奇形性の障害を背負った子供達が音楽を演奏していた


 展示写真には映画の「地獄の黙示録」にでてくるような米軍の戦争行為、逃げまどう人々を撮影したピューリッツア賞受賞写真、中村悟郎さん(Eforum正会員) 、石川文洋さん、西村洋一さんらの写真がコーナーごとに多数展示されていました。


映画の「地獄の黙示録」

戦争犯罪の記録

?戦争証跡博物館の写真
?戦争証跡博物館 (トリップアドバイザー提供)

?戦争証跡博物館の写真
?戦争証跡博物館 (トリップアドバイザー提供)

?戦争証跡博物館の写真
?戦争証跡博物館 (トリップアドバイザー提供)

?戦争証跡博物館の写真
?戦争証跡博物館 (トリップアドバイザー提供)

?戦争証跡博物館の写真
?戦争証跡博物館 (トリップアドバイザー提供)

?戦争証跡博物館の写真
?戦争証跡博物館 (トリップアドバイザー提供)

?戦争証跡博物館の写真
?戦争証跡博物館 (トリップアドバイザー提供)


映画、地獄の黙示録のエントランス画面ともなった米軍のヘリ軍団の写真
展示物撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

  有名なこの写真 『安全への逃避』もありました。沢田教一さん(UPI通信)が撮影したベトナム戦争の戦火を逃れるため河を泳ぎ渡る母親と子供の写真です。この写真は、ピューリッツァ賞を受けています。


沢田教一さんの 『安全への逃避』
展示物撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下は戦争の恐怖と題したナパーム弾に怯える子供たちの写真 です。撮影は、Huynh Cong Ut(AP通信) 、やはりピューリッツァー賞の特集写真部門 を受賞しています。


戦争の恐怖と題したナパーム弾に怯える子供たち
展示物撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


2へつづく