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   ウズベキスタン現地予備調査

ウルグベグ・メドレセ

  at Urgbeg Madrasah

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月7日
独立系メディア E−wave Tokyo
 無断転載禁
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タキ  アブドゥールアジズ・ハン・メドレセ  ウルグ・ベグ・メドレセ 
カラーン・モスク   カラーン・ミナレット  ミル・アラブ・メドレセ


 道路を挟んで アブドゥールアジズ・ハン・メドレセの反対側にあるのがウルグ・ベグ・メドレセです。

ウルグベク・メドレセ

 このアブドゥールアジズ・ハン・メドレセの真ん前に、かのティムールの孫、そして知事、ティムール王朝君主であるとともに、さらに天文学者でもあったウルグベックに建てられたウルグ・ベグ・メドレセがあります。

 このウルグベック・メドレセは、1418年に開設され、1585年に修復されています。このウルグベック・メドレセは、現存する中央アジア最古のメドレセでもあります。


ウルグベグ・メドレセ
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-2-25

 ウルグベグ(Ulug'bek)はティムール帝国第4代君主であり、天文学者、歴史家でもありました。ティムールはウルグベグの祖父に当たります。ウルグベグ(Ulug'bek)についての詳細は、サマルカンドの以下にあります。ウルグベグは為政者であるとともに、立派な学者、研究者でもあり、教育に力を入れたティムール帝国第4代君主です。

◆青山貞一・池田こみち:サマルカンド2日目、ウルグ・ベグ


ウルグベグ(Ulug'bek)


ウルグベツ・メドレセ
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-2-25

  ウルグベツ・メドレセの前の青山からおおよその建築物の規模を推定してください。


ウルグベツ・メドレセと青山貞一
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-2-25

 ウルグベグ・メドレセは3つメドレセをつくっていますが、その中で一番古いメドレセがこのウルグベグ・メドレセです。

 何と、メドレセの入口のアーチ部分に「知識を増やす事はすべてのイスラーム教徒の義務である」とか「本を友とする人々に常に神の恵みへの扉が開いていますように」などの言葉が刻まれています。

 サマルカンドのところで詳述するように、ウルグ・ベクが建てたメドレセなどの建築物はサマルカンドに多いのですが、ブハラに建てた建築物はこの一箇所のみです。

 このメドレセの正面には、上述のアブドル・アジズ・ハーンのメドレッセが建っており、ウズベキスタンの歴史上非常に重要なメドレセが向き合って立っていることになります。


ウルグベツ・メドレセ
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-2-25


◆メドレセ、マドラサとも(madrasa、神学校、学院)とは

 メドレセは、イスラーム世界における学院を指します。元々は単純にアラビア語で「学ぶ場所、学校」を意味するだけでしたが、11世紀に制度的に確立し、イスラーム世界の高等教育機関として広く普及してゆきました。

 モスクと併設される場合も多く、一般に寄進財産で運営されています。近代の世俗教育の普及によって、宗教教育の専門機関となっています。

 「メドレセ」は運営形態・宗教の有無などに関係なく「学校」という意味しかありません。現代アラビア語でも、「メドレセ」は宗教性の有無に関係なく「学校」の訳語として用いられています。

 したがって小学校・中学校・高等学校は全て「メドレセ」の範疇に入ります。ヘブライ語の "midrasha" も、「学ぶ場」という意味をもっています。

歴史

 メドレセは、イスラーム世界の創成期からあった機関ではありません。その起源は、ムスリムがモスクでイスラームの教義などを話し合ったことに由来するとされています。ムスリムたちは、このモスクでの対話を通じて、コーランやその教義について理解を深めていました。

 その際、講師役を務めて会合をまとめた人物が「シャイフ」(長老、老人を指すアラビア語、それが転じて集団の長を意味し、ウラマーやスーフィーを指すこともある)とみなされています。彼らは定期的に「マジュリス」(集会所、サロン、議会を指すアラビア語)と称される会合を開き、イスラーム諸学についての研鑽を積んで行きました。

 イスラーム世界では、859年に設立された、モロッコ、フェズのアル・カラウィーン大学が、世界最古のメドレセと考えられています。

 注)これについては、青山、池田のモロッコ現地視察報告を参考にしてください。

 10世紀より、ホラーサーン地方で各地の実力者によってマドラサが建設され、11世紀後半、セルジューク朝のワズィール(宰相)ニザームルムルクが、国家主導の公的な学術・教育機関としてメドレセを各都市に配置しました。これらは、彼の名をとってニザーミーヤ学院と称され、スンナ派法学を中心として諸学の振興が図られました。(当時有力であったイスマーイール派(ニザール派)による活発な布教活動への対抗があったとも指摘されています。

主な出典:Wikipedia

 下は宿泊先ホテルからほど近い、カラーン・モスク、カラーン・ミナレット、ミル・アラブ・メドレセなどが集中する地域の衛星写真です。

 ウズベキスタンでは、モスクなどの宗教施設、公共施設それに一般家庭まで中庭付きとなっています。この航空写真を見ると、ブハラの歴史地区にあっても、ほぼすべての建築物に中庭があることがよく分かります。右側にアブドゥールアジズ・ハン・メドレセとウルグベグ・メドレセがあるのが分かります。
 
 下の写真では、ほぼ中央にカラーン・ミナレットがあります。


出典:グーグルアース 衛星写真


つづく