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  厳寒のロシア2大都市短訪

エルミタージュ美術館 別館

風景画 ゴッホ、セザンヌ、モネ

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo
 
無断転載禁
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サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg)
  サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群

    

◆エルミタージュ美術館 別館紹介
  本館から別館へ    施設案内     フロア概要(2階~4階案内)    
  アレクサンダー・ワグナー作品等       ロシア・アートオブジェ作品等
  風景:ゴッホ、セザンヌ、モネ        裸婦:ドガ、ルノワール
  夫人:ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン  陶芸作品、版画:ピカソ 
  男性:セザンヌ、ドガ、マティス、ピカソ    静物:マチス、セザンヌ
  風景:ピサロ、ゴッホ、ボナール等      夫人:裸婦・ドニ、マティス他多数
  近代絵画・抽象画:マティス、ピカソ

         参考  西洋画コレクション(大エルミタージュ)

 ここからは、印象派を中心とした世界的に著名な画家の作品展示となります。具体的な作者としては、モネ、ゴッホ、セザンヌ、ルノワール、ドガ、ピカソ、ピサロ、ゴーギャン、アンリ・マチス、ジャン・ジャック・エンネルなどです。

 以下は印象派の概説です。

印象派または印象主義

 印象派または印象主義は、19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動であり、当時のパリで活動していた画家たちのグループが起源となっています。

 フランスの保守的な美術界からの激しい批判にさらされながらも、独立した展覧会を連続して開催することで、1870年代 - 1880年代には突出した存在になりました。この運動の名前はクロード・モネの作品『印象・日の出』に由来しています。


きっかけとなったクロード・モネの作品『印象・日の出』
Source:Wikimedia Commons
クロード・モネ - art database, パブリック・ドメイン, リンクによる


 この絵がパリの風刺新聞「ル・シャリヴァリ(フランス語版)」で、批評家ルイ・ルロワの槍玉に挙げられ、その結果「印象派」という新語が生まれました。

 印象派の絵画の特徴は、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光りの質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングル、などがあげられます。

 印象派の登場当初は、この時期には王侯・貴族に代わって芸術家たちのパトロン役になっていた国家(芸術アカデミー)にも評価されず、印象派展も人気がなく絵も売れませんでしたが、次第に金融家、百貨店主、銀行家、医者、歌手などに市場が広がり、さらにはアメリカ市場に販路が開けたことで大衆に受け入れられて行きました。

 ビジュアルアートにおける印象派の発展によって、他の芸術分野でもこれを模倣する様式が生まれ、印象主義音楽や印象主義文学(英語版) として知られるようになりました。

出典:Wikipedia


 最初は風景画です。

風景画とは

 風景画は山、渓谷、木々、河川、森などの景観を描いた絵画である。多くの場合空が描かれ、天候が記述されています。これら風景画の起源は、私たちも過去何度も訪れたイタリアのポンペイとヘルクラネウム(現在のエルコラーノErcolano)にあるようです。1世紀頃のローマ帝国時代のフレスコによる風景の室内装飾が残されています。

 15世紀初頭、ヨーロッパでも風景画はひとつのジャンルを確立しました。17世紀のオランダでは、豊かになった市民階級の家屋を飾る絵画として風景画が確立し、ヤーコプ・ファン・ロイスダールやメインデルト・ホッベマなどの専門的な風景画家が登場しました。オランダの風景画は、国土が平坦なことから、空と雲が重要な要素となった。

 19世紀に入るとヨーロッパでは自然主義が主流となり、宗教的、歴史的な画題や理想化された風景を室内で描く従来の風景画を否定し、野外に出て直接観察しながら風景を描くバルビゾン派(カミーユ・コローやテオドール・ルソー)が生まれました。

出典:Wikipedia


 以下は、199世紀を代表する印象派の巨匠、ゴッホのライラックの木 1889年です。

◆フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ
 (Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)


:VanGogh 1887
Source:Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

 ゴッホは、オランダのポスト印象派の画家です。オランダ人名のvanはミドルネームではなく姓の一部であるために省略しません。つまり正確にはゴッホでは無く常にファン・ゴッホと呼ばなければなりませんが、日本ではファン・ゴッホもゴッホという呼び方で定着してしまっています。

 主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミでの療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作されています。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。

出典:Wikipedia


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2
ゴッホ  ライラックの木 1889年


 以下は印象派の巨匠、セセザンヌの有名な風景画です。

◆ポール・セザンヌ(Paul Cezanne, 1839年1月19日 - 1906年10月23日) 


Source:Wiki,edia Commons
不明 - Claude Monet, 1840-1926, Gedachtnis-Ausstellung in unserem Berliner Haus : Februar bis mitte Marz 1928, Galerein Thannhauser, Published 1928 by Galerien Thannhauser in Berlin, パブリック・ドメイン, リンクによる

 セザンヌは、フランスの画家。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していましたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求しています。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及されています。

出典:Wikipedia


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2017-2
   セザンヌ、「トロネの道とサント=ヴィクトワール山」 1896~98年頃



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2


クロード・モネ


Claude Monet, photo by Nadar, 1899.
Source:Wikimedia Commons
ナダール, パブリック・ドメイン, リンクによる

 クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家です。

 1840年、パリで生まれましたが、5歳の頃から少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごしました。絵がうまく、人物のカリカチュアを描いて売るほどでしたが、18歳の頃、風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられました。1859年にパリに出て、絵の勉強を始め、ピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合いました。

 1865年にサロンに初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立して行きましたが、1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭いまさいた。私生活では、カミーユとの交際を始め、長男も生まれましたが、父親からは援助が断たれ、経済的に苦しい時代が始まりました。1870年、普仏戦争が始まり、兵役を避けてロンドンに渡りました。この時、画商デュラン=リュエルと知り合い、重要な支援者を得ることとなりました。パリに戻ると、その近郊アルジャントゥイユにアトリエを構え、セーヌ川の風景などを描きます。

 1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』などを出展し、これは後に第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となりました。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものでした。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加しました。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まりました。他方、印象派グループは、会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かってゆきました。
 
 1890年代、自宅に「花の庭」と、睡蓮の池のある「水の庭」を整えてゆきましたが、1898年頃から、睡蓮の池を集中的に描くようになりました。1900年までの「睡蓮」第1連作は、日本風の太鼓橋を中心とした構図でしたが、その後1900年代後半までの第2連作は、睡蓮の花や葉、さらに水面への反映が中心になっていき、1909年の「睡蓮」第2連作の個展に結実しました。その間、ロンドンを訪れて国会議事堂の連作を手がけたり、1908年に最後の大旅行となるヴェネツィア旅行に出たりしています。

 最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面しましたが、友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる「睡蓮」大装飾画の制作に没頭し、86歳で最期を迎えました。

出典:Wikipedia



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2017-2
   モネ 「ジヴェルニーの干草」 1886年



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2
    クロード・モネ 1875年 W 407



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2
    クロード・モネ、「庭の隅」A  Corner of the Garden at Montgeron, 1876-7



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2017-2


つづく