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ポーランド現地調査(後半)
ポーランド東部の3大絶滅収容所
ベルゼック(Belzec)④
文献調査編

青山貞一 Teiichi Aoyama
東京都市大学大学院環境情報学研究科

池田こみち Komichi Ikeda
環境総合研究所(東京)

19 June 2009 拡充 1 November 2010, 1 December 2024
初出:
独立系メディア「今日のコラム」 現在 E-wave Tokyo


ベルゼック(東ポーランド、ウクライナ国境)

 その1   その2   その3   その4



 以下はWikipedia(英語版)に見るベルゼック絶滅醜状所の概要である。

ベルゼック(Belzec)絶滅収容所  出典:Wikipedia(英語版)


ナチスドイツがポーランドに設置した強制収容所。ベルゼック(Belzed)は南東(右下のウクライナとの国境沿いにある
Intelligenzaktion w Okr?gu Rzeszy Gda?sk - Prusy Zachodnie (1939-1940).
・Source:Wikipedia Commons
 By Lonio17 na podstawie: Maria Wardzyńska: Był rok 1939. Operacja niemieckiej policji bezpieczeństwa  w Polsce. Intelligenzaktion. Warszawa: Instytut Pamięci Narodowej, 2009 - Praca własna, CC BY-SA 4.0, Link

概要

 ベルゼック(Belzec)絶滅収容所(波語:ベウジェツ絶滅収容所)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがルブリン県ベウジェツ村(リヴォフとルブリンの中間地点にある)に設置した強制収容所。上記の地図を参照のこと。ベルゼック(Belzec)絶滅収容所はポーランドの南東、ウクライナとの国境沿いにある。

 
WW2当時、ウクライナ西部はポーランドの領土であり、当該地域は巨大な強制収容所、絶滅収容所及びゲットー、さらに森林などでの大虐殺執行地などが多数存在していた。
ベルゼック収容所は占領下のポーランドにあった6つの大規模ナチス絶滅収容所の中で3番目に犠牲者数が多く、男性、女性、子供が50万人から60万人と推定されている。

※ 
露  Лагерь уничтожения Белжец
  英  Belzec extermination camp

   独  Belzec Vernichtungslager
   波  Belzec oboz zag?ady
   日  ベルゼック絶滅収容所、ベウジェツ絶滅収容所

 ラインハルト作戦に基づく三大ユダヤ人絶滅収容所の一つである(他の二つはソビボル強制収容所とトレブリンカ強制収容所)。三つの絶滅収容所の中では最初に作られ、他の二つの絶滅収容所のモデルともなった。

 開設から閉鎖までのわずか1年の間に40万人にも及ぶユダヤ人をはじめとして、ロマ民族・ポーランド人政治犯などが大勢ここで殺害された。「ベウジェッツ」「ベウゼツ」「ベウゼッツ」「ベルゼク」「ベルゼック」などの表記も散見される。

解説

 ポーランドルブリン地区SS警察高級指導者オディロ・グロボクニク親衛隊上級大佐(当時)が親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受けて建設を開始した。ベルゼックが選ばれたのはひと気がなく、鉄道に近い場所であったためであった。ベウジェツ駅から分岐した線路を300メートルほど進んだところにベウジェツ強制収容所の入り口が存在した。

 1941年11月から建設が開始され、翌12月に完成した。ベルゼックの初代所長には後に三大絶滅収容所総監となるクリスティアン・ヴィルトが就任した。後に「ラインハルト作戦」と名付けられることになるポーランドユダヤ人絶滅作戦のための三大絶滅収容所の最初の収容所であった。ベルゼックに移送されてくる者はガリツィア、クラカウ地域、ルブリン地域からの者が多い。

 1942年2月末に移送されてきたユダヤ人を使ってガス室実験が行われた。はじめ一酸化炭素が試用されたが、続いて試された戦車の排気ガスを管を通してガス室に流し込むやり方の方が良いと判断して以降ベルゼックではこの方法でガス殺が行われることとなった。

 絶滅作戦に拍車がかかったのは1942年7月から11月にかけてであった。1942年7月19日にハインリヒ・ヒムラーが、年内に総督府のユダヤ人は全員殺害するようにと各絶滅収容所所長に命令したためであった。

 収容所には2ブロック存在し、1ブロックは囚人の到着にかかる事務を担当する場所であり、囚人から衣服や荷物をはぎ取り保管するための場所であった。そして2ブロックに10個のガス室が存在し、他に共同墓地や死体の搬送作業などに当たる労務囚人の住居スペースなども存在した。

 絶滅収容所であったベルゼックは一般の作業場を設けなかったため収容所としては狭く、縦275メートル、横263メートルのほぼ正方形型の収容所だった。5か所の監視塔が存在し、機関銃が常にガス室へ向かう囚人たちに狙いをつけていた。

 看守は20名から30名程度の親衛隊員と60名から80名程度のウクライナ義勇軍の兵士で構成された。看守たちは収容所内ではなくベルゼック駅の付近に住居を持ちそこで暮らしていた。

 1942年末になるとポーランドにおけるユダヤ人社会がほぼ壊滅し、またアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所が巨大化したため、ベルゼックの必要性は薄れ、1942年12月をもって活動を停止した。
 他の三大絶滅収容所に先がけての活動停止だった。さらに墓地の死体の焼却と植林など証拠隠滅作業が始まり、1943年半ばには完全に解体されてベウジェツ収容所は跡形もなく消滅した。

所長
クリスティアン・ヴィルト親衛隊少佐(Christian Wirth)(在任1941年12月‐1942年7月31日)
ゴットリープ・ヘリング親衛隊大尉(Gottlieb Hering)(在任1942年8月1日‐1942年12月)

主な所員・看守
・ローレンツ・ハッケンホルト親衛隊大尉(Lorenz Hackenholt)
・ヨーゼフ・オーバーハウサー親衛隊少尉(Josef Oberhauser)
・クルト・フランツ親衛隊少尉(Kurt Hubert Franz)
・ウェルナー・デュボイス親衛隊曹長(Werner Dubois)
・フリッツ・ジルマン親衛隊曹長(Fritz Jirmann)
・ハインリヒ・ウンファーハウ親衛隊伍長(Heinrich Unverhau)
・エルンスト・ツィールケ親衛隊伍長(Ernst Zierke)

その他
・クルト・ゲルシュタイン親衛隊中尉(Kurt Gerstein)

参考文献
・マイケル ベーレンバウム著、石川順子訳、高橋宏訳、『ホロコースト全史』、1996年、創元社。ISBN 978-4422300320 。
・ラウル・ヒルバーグ著、望田幸男・原田一美・井上茂子訳、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下』、1997年、柏書房。ISBN 978-4760115174
・マルセル・リュビー著、菅野賢治訳、『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』、1998年、筑摩書房。ISBN 978-4480857507

出典
1.^ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下』170ページ
2.^ 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』332ページ
3.^ 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』333ページ
4.^ 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の

 以下は、ベルゼック(Belzec)絶滅収容所の関連写真と証言である。出典は、写真毎につけてある.


ベルゼック(Belzec)絶滅収容所
Bełżec - obóz zagłady 出典・Source:Wikimedia Commons
By Jan Koprowski, CC BY-SA 3.0, Link



Memorial in former German-Nazi extermination camp in Belzec
ベルゼックの旧ナチスドイツ絶滅収容所の遺跡
出典・Source:Wikimedia Commons



ベルゼック(Belzec)絶滅収容所
autor: Yarek shalom 08:09, 25 October 2006 (UTC)yarek shalom
出典・Source:Wikimedia Commons , CC BY-SA 3.0, Link


museum of former German-Nazi extermination camp in Belzec
ベルゼックの旧ナチスドイツ絶滅収容所博物館
出典・Source:Wikimedia Commons

ベルゼック絶滅収容所
の生存者と証言


Belzec Extermination camp survivors 
Source :Wikimedia Commons and Wikipedia
ルドルフ・レーダー、別名ロマン・ロバック(1881年4月4日、ドゥビツァ生まれ、1968年、トロント生まれ)は、ベーチェツ絶滅収容所のホロコースト生存者のうち、戦後に自身の体験を証言したわずか2人のうちの1人だった。彼は1946年1月、クラクフでドイツ犯罪調査委員会に証言書を提出した。[1] ガス室で死亡したポーランド系ユダヤ人の数で言えば、ベルゼック収容所は占領下のポーランドにあった6つの大規模ナチス絶滅収容所の中で3番目に多く、男性、女性、子供が50万人から60万人と推定されている。


本稿終了

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