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ベルゼック(東ポーランド、ウクライナ国境) その1 その2 その3 その4 ■2009年3月12日 ポーランド東の3大絶滅収容所、ベルゼック収容所 ベルゼック収容所は1942年4月に竣工し、以降、閉鎖されるまでの間、ユダヤ人などが大量に輸送されてきて、ガス室などに送李込まれた。 下の地図は4大強制収容所の位置を示している。いずれもウクライナ、ベラルーシュなどとの国境近くにあることが分かる。また3大収容所は、いずれも人里離れたひとけのない地域、さらに鉄道輸送が便利な地域に立地されているという共通点がある。 東ポーランドにおける4大強制収容所の位置 出典:赤丸は青山、 元の地図の出典は http://biega.com/epoland-tour2.html ベルゼックでは、強制収容所の設置から最終的な閉鎖までのわずか1年間に40万人にも及ぶユダヤ人をはじめロマ民族、ポーランド人政治犯などが強制収容され、その多くは比較的短期のうちに殺害され、犠牲となっているという。 下はベルゼック収容所の計画図の一部。 以下はベルゼック収容所の絵画。上の図では人体を野焼き、下の図では強制収容された囚人がグランドに集められていることが分かる。 ベルゼックは、ルブリン地区SS警察高級指導者オディロ・グロボクニク親衛隊上級大佐(当時)が親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受けて建設を開始した最初のユダヤ人絶滅収容所であった。 ベルゼックが東部の強制収容所として選ばれた理由は、上述したように①はひと気がなく、②鉄道に近い場所であったためであった。これらはアウシュビッツなどとも共通するものである。 ベルゼック強制収容所の入り口は、鉄道のベルゼック駅から分岐した線路を300メートルほど進んだところにあった。 1941年11月から建設が開始され、1942年2月に完成している。 ベルゼックの初代所長には、のちに3大絶滅収容所の総監となるクリスティアン・ヴィルトが就任した。1942年1月のヴァンゼー会議でラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将がラインハルト計画を立ち上げるとベルゼックは改めて3大絶滅収容所の一つとされた。 ベルゼック収容所では1942年3月よりガス室を使っての絶滅作戦が開始されたとされている。 ベルゼックの司令部の外に整列するSS ベルゼックを視察するクルツ・フランツ ベルゼック収容所には2ブロック存在し、1ブロックは囚人の到着にかかる事務を担当するブロックで囚人から衣服や荷物をはぎ取り保管するための場所となった。 第2ブロックには、10個のガス室が設置され、他に共同墓地や死体の搬送作業などに当たる労務囚人の住居スペースなども存在したというい。 絶滅収容所であったベルゼックは一般の作業場を設けなかったため収容所としては狭く、縦275メートル、横263メートルのほぼ正方形型の収容所だった。 そのなかに5か所の監視塔があり、機関銃が常にガス室へ向かう囚人たちに狙いをつけていた。看守は20名から30名の親衛隊員と60名から80名のウクライナ義勇軍の兵士で構成された。看守たちは収容所内ではなくベルゼック駅の付近に住居を持ちそこで暮らしていたという。 1942年末になるとポーランドにおけるユダヤ人社会がほぼ壊滅し、またアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所が巨大化したため、ベルゼックの必要性は薄れた。1942年12月をもってベルゼックは活動を停止した。 1942年5月のベルゼック強制収容所の立地図 下の図は、上の1942年5月時点のベルゼック収容所が12月にさらに拡大、拡充されたもの。 9,10,11、12がガス室関連、13が人骨踏粉砕装置となっている。 1942年12月時点におけるベルゼック強制収容所の立地図 さらに、以下はベルゼック強制収容所の平面図と主な施設配置図。図中上下にユダヤ人、ロマらを輸送した鉄道の軌道が通っている。 ポローニュの絶滅収容所計画。 ポーランドの極限収置図 出典・ Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0、リンク その3へつづく その1 その2 その3 その4 |