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パガン王朝とは(2)
Bagan Dynasty

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2016年8月4日
独立系メディア E−wave Tokyo

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◆パガン王朝の概要

王権

 国王は専制君主であり、その権力は絶大であったとされ、碑文には王は万物を支配する人物と刻まれています。

 一方で王は「菩薩」の化身として崇められている白象の所有者であるとも見なされていました。原則として国王は世襲であり、次代の王に即位するのは先代王の直系の卑属でした。親から子へ王位が渡ることがほとんどでしたが、兄から弟へという場合もあり、チャンシッターは孫のアラウンシードゥーを後継者に任じていました。

官制

 官僚機構の最上位は大臣であり、国政全般を取り仕切りました。大臣は国王の信頼が最も厚い者が任ぜられました。大臣は原則として複数でしたが人数は2人から7、8人までの幅がありました。

 これ以外の重要官職は、軍事面では司令官及び各武将や水軍の将、司法官は裁判官及び検察官、書記長及び書記官、地方行政組織各段階の長である郡長・町長・村長、租税面ではカンコウン米を管理する穀倉奉行などがありました。その他、祭祀職として占星術師と婆羅門、侍医がいた。王宮内で国王の身近にあって公私ともに世話をするミンチンとミンセーと呼ばれる男性の役人がいました。

宗教

 パガン王朝の国教は上座部仏教です。アノーヤターはタトゥンから招聘した高僧シン・アラハンにより上座部仏教に改宗するとともに、民衆に影響力を持つアリー僧を強制的に還俗させました。アノーヤターがタトゥンに進攻した理由について史料は経典と仏舎利を入手するためと伝えています。

 1190年に留学を終えてセイロン島から帰朝したタラインの仏僧チャパタが創設した南伝系の大寺派が、王朝の国教に据えられました。チャパタの死後に大寺派は三つに分かれ、タトゥンに起源を持つ上座部仏教の一派とともに、いずれの宗派も在家信者への布教活動に熱心だったとされます。

 伝道活動は陸路と河川路の両方を経由してタイ、ラオス、カンボジアにわたり、今日の東南アジアにおける上座部仏教の地位を形成しています。

 上座部仏教以外に大乗系、密教系、ヒンドゥー教も王朝の宗教として併存しており、上座部仏教とそれらの宗教の違いは明確に認識されていなかったとされます。住民にはナーガ信仰を持つものも多く、宮廷行事には、ヒンドゥー教の占星術師、バラモン僧が参画していました。

 上座部仏教を導入したアノーヤターは大乗仏教寄りの信仰の持ち主であり、アノーヤターの名が刻まれた観音像が多く発掘されています。チャンシッターの治世まで大乗仏教、密教、ヒンドゥー教はパガンで広く受け入れられ、王朝末期の1255年に王妃タンブーラによって建立されたパヤートンズー寺院には密教的な要素の強い壁画が描かれています。

 13世紀以降には、密教的な要素の強いアラニャ僧団が勢力を拡大します。森の中で活動する出家僧の集団を母体としており、マハーカサッパの元で勢力を拡大しました。王朝滅亡後の1388年の碑文には、マハーカサッパがナンダウンミャーの病を治癒したことで王から財宝と土地を寄進された伝説が記されています。1240年代にチャウセー地方に進出、1247年から1272年かけてシュエボー、チンドウィン一帯の土地を購入して寺領を増やしています。

建築

 パガン王朝時代に建築された寺院、仏塔は、ビルマ芸術の頂点と言われています。

 特にこの時代は大型寺院の建築技術に著しい発展が見られ、シュエズィーゴン・パゴダは後世に建造された仏塔の基本形となりました。ピュー族の文化から受け継いだ迫持工法によるアーチ建築が特徴であり、ナラパティシードゥー以降は明るい色彩の窟院、仏塔が建てられるようになりました。


パヤートンズー寺院   出典:Wikipedia

 王侯貴族などの富裕層は来世の幸福を願って功徳を積むため、宗教施設の建設と三宝への寄進を盛んに行いました。寺院の建立には多額の費用が掛かり、1196年にナラパティシードゥーが建立した仏塔は一基あたり44027チャッ(Tyat、現在もミャンマーの通貨単位に名前を残す)の銀が払われた。


アーナンダー寺院 出典:Wikipedia

 成人男子の奴隷1人の価格は銀20チャッから25チャッであり、仏塔の建立に奴隷2200人と同じ支出を要した計算になります。別の碑文には、窟院の建設費用は施設一式を含めて20000チャッが払われたこと、仏像、窟院、僧院、塀の一式を建造するのに銀10000クラヤブ(165000グラム、奴隷300人超)[63]の出費があったと書かれています。

 そして建築事業に従事する労働者が報酬として支払われる銀、衣服、食料を求めてパガンに多く流入していました。

 家屋の素材は身分によって異なり、高位の者は木造の邸宅に住み、一般民衆はニッパヤシ、茅葺の屋根、竹壁の家に住んでいました。煉瓦は仏教建築にのみ許される特別な建材であり、建築面における聖俗の線引きが、民衆の信仰を固くする一因となったとも言われています。

農業

治水

 歴代の王にとっての課題は、パガン周辺地域の開拓と治水でした。アノーヤターはチャウセーの灌漑とメイッティーラの治水を行いました。チャウセーのパンラウン川とゾージー川に5つの堤と用水路が設置され、ナラパティシードゥーの治世に堤が一つ増設されました。アラウンシードゥーとナラトゥーはマンダレーの付近に2つの人造湖を建造し、ナラパティシードゥーはモンとムーで運河の工事を行うものの失敗しました。

用地の開拓

 土地の土壌と気候に応じて、低湿地には水田(レー)、高地には庭園(ウイン)、冠水する低地には沖積地(カイン)、水の確保が困難な土地には畑(ヤー)、以上4種の農地が開拓されました。

 さらに水田は冬季栽培用のムインと栽培に雨季の降水が必要なタンに細分された。牛、水牛、馬が耕作に使用され、収穫物は米、ヒヨコマメ、ゴマ、ココヤシ、バナナなど、碑文の記録により現在77種類が判明しています。

 そして国が推進した大規模な灌漑、国内で流行していた仏教建築は王都の土壌に変化をもたらしました。

 ビルマ史家ハーヴェイは王朝滅亡の一因にパガンからの人口流出を挙げ、それには土壌の変化が深く関わっていたことを指摘しています。仏塔の建築に要する煉瓦の燃料となる木材の乱伐、チャウセーでの大規模な灌漑によってパガンの土壌は建設当時以上に痩せており、モンゴルによる破壊と共に食糧の供給量が減少したことで、王都の人口流出が進んだとしています。

 農業がおこなわれていた範囲について、ビルマ史家タントンは王朝全体の農地の面積を8.8万ヘクタールから44万ヘクタールと計算し、英領化された直後である1892年当時のビルマ全体の農地面積(3640000ヘクタール)の40分の1から8分の1ほどの広さだったとしています。

 しかし、その多くは寺院の私領地であり、寺領が増大する王朝後期は税収の減少が問題となります。そのためチャゾワーなどの王たちは寺領への課税を試みたが、寺院の反対によって失敗に終わっています。

本稿の出典 Wikipedia

 以上みてくると、やはり仏塔(パゴダ)の作りすぎが、財政面だけでなく、残された樹木の伐採、レンガづくりによる土壌の荒廃などをもたらし、王朝の滅亡に無関係ではないことが分かります。


つづく