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バガンの歴史(1)
History of the Bagan

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2016年8月4日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁
(77) バガンの全体地図  (78) バガンの概要  (79) バガンの歴史(1
(80) バガンの歴史(2)  (81) バガン王朝とは(1)  (82) バガン王朝とは(2)


バガンの歴史 9世紀〜13世紀

 ビルマの歴史書によると、バガンは西暦、紀元2世紀に創建され、849年、Pyinbya王の時代に要塞化したとされています。Pyinbya王は、初期バガンを築いた人物から34代目にあたります。

 しかし、主流派の学者によると、バガンは9世紀末の半ばに、Nanzhao王国から最近になってイラワジの谷に入ってきたMranma(ビルマ人)によって創建されたと主張しています。

 バガンは、ビルマが権力者によって大々的に平定された10世紀の終わりまで、Pyu市群の中で争っていた複数の町のひとつでした。

 1044年から1287年にかけて、バガンはパガン帝国の首都であり、政治・経済・文化の中枢でした。250年の間に、バガンの権力者、そして、富裕層は、1万以上の宗教的な記念碑(およそ1000の仏塔、1万の小さな寺院、そして3000の僧院)を104平方キロのバガン平原に建設したのです。

 繁栄し続ける町は面積的にも大きく広がり、宗教と非宗教(現世)の研究の世界的な中心となったのです。特にパーリ語の学問として、文法や哲学的、心理学的研究とともに、様々な言語の韻律論、音韻論、文法、占星術、錬金術、医学そして法学研究の中心となりました。

 バガンの町は、遠くインドやセイロン、さらにはクメール帝国からも僧や学生を引き寄せました。

◆バガン初代国王 アノーヤター

 アノーヤター(1014年5月11日 - 1077年4月11日)はビルマ族の最初の王朝であるパガン王朝の最初の王(在位1044年8月11日 - 1077年4月11日)とされる人物です。

 伝説によればソーヤハンと呼ばれるビルマ人の王がいたが、これを暗殺し王に就いたチャウンビューという男がいたという。アノーヤターはチャウンビューの息子とされる。アノーヤターは、ソーヤハンの息子がチャウンビューを殺し、王位に就いたのを見て、逆にこれを暗殺し王位に就いたという。


出典:NHK アジア巨大遺跡 ミャンマーバガン遺跡

 軍人としてのアノーヤターはそれまでエーヤワディー川沿いを中心に展開していたパガン王朝の領土拡大を画策し、モン族の支配するタトンや、シャン族を掌握、遠くインド、雲南まで兵を送った。これにより、パガン王朝はその名をとどろかせ、東南アジアの一大王国となった。

 内政面では、それまで時に王の威光をも凌いでいたアリー僧と呼ばれる大乗仏教僧とおぼしき宗教集団がいたが、これを嫌ったアノーヤターはこの集団を解散させ、シン・アラハンと呼ばれるモン族の上座部仏教僧により国内を上座部仏教本位にした。

アノーヤターは1077年森の中で不慮の死を遂げるが、この王がビルマ人を一大民族に仕立てた功績はその後も語り継がれ、ビルマでは英雄視されている。

出典:Wikipedia

 下の地図は13世紀のパガン帝国の版図です。


13世紀のパガン帝国  Source:English Wiki


バガン草原にそそり立つ無数の仏塔(バゴダ)  Source:English Wiki

 バガンの文化は宗教が支配していました。後には、規範的であって、異端となったバガンの宗教は(この頃は)流動的であり、また、融合的なものでした。

 バガンの宗教の多くはPyu時代の宗教のトレンドを継承しており、上座部仏教は、Mahayana仏教やTantric仏教、各種ヒンズー教(SaiviteやVaishana)宗派や土着の物活論者・精霊信仰者の伝統とも共存していました。

 11世紀半ば以降、上座部仏教を王室が支援したことで、仏教の学校が次第に優位を得るようになる一方、パガン時代を通して繁栄し続けた他の伝統は、ほとんど見えなくなるほど衰退していきました。

 パガン帝国は1287年に、モンゴルによって何度も襲来(1277年〜1301年)を受け、崩壊しました。


モンゴル軍 

 2010年2月19日から2011年4月は、モンゴル帝国の考古学的な文化遺跡と武器を完備した魅力的なモンゴルの大草原と戦場を再現した、13世紀のモンゴルへ旅をします。

 征服者が統治していた時代から集められたチンギス・ハン工芸品の最大のコレクションによって、人々は、ハーンの改革、技術的な支配および文化的な創造性は、世界最大ではあるものの、最も誤解された指導者の一人であるという評判を与えることになりました。

 展覧会はモンゴル帝国が今日に至るまで、文化、国際法、財政にまで影響を及ぼしていたことに光を当てることになるでしょう。

 最近の研究によると、モンゴル軍はバガンにはたどり着かなかったのではないかとされています。もし、バガンに入ったとしても、その被害はおそらく小さなものだったろうとされています。しかし、すでに損傷は起きていました。

 まちは、一時は、5万から20万人の人々の故郷でしたが、小さな町へと縮小され、二度とその優越性を取り戻すことはありませんでした。

 1297年12月、上ビルマにおいて、Myinsaing王国が新しく力を持ち始めた頃、バガンは公式に、ビルマの首都でではなくなったのです。


つづく