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都城隍廟(百度百科2) 

西安
(Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は中国西安市(長安市)にある都城隍廟です。

◆都城隍廟2Xi'an 中国西安市)



歴史的沿革


都城隍庙
出典:百度百科

 西安城隍廟は、道教の道観(道教寺院)であり、正式名称は「都城隍廟」と言います。西安市西大街大学习巷東側に位置しており、敷地面積は約11,024㎡、建築面積は約4,466㎡です。

 西安城隍廟は、全国三大「都城隍廟」の一つであり、北京や南京の城隍廟と並び有名です。もともとの主要な建築物は、大門、玉皇閣、楽舞楼、牌楼、大殿、道舎、厢房等がありましたが、多くが破壊され、現在残っているのは、清王朝時代の雍正元年(1723)に大殿が改修されました。

 注)道観(どうかん、拼音: dàoguàn ダオグアン)
  道教教団において、出家した道士が集住し、その教義を実践し、なおかつ祭醮
  を執行する施設である。道教寺院。道教宮観の略。宮観(きゅうかん)とも呼ば
  れる。

 注)牌楼(ぱいろう)
  中国の門型建築で,扉がなく開放的なもの。日本では〈はいろう〉とも読み,ま
  た牌枋(はいほう)ともいう。柱を1列に立て3~5間などに作り,上に段差のある
  小屋根をいただくが,奥行はなく,独立して立つ。木造のほか石造のものも少なく
  なく,彫飾や彩色で華麗な装飾を施すものもある。宮殿,陵墓,孔子廟,道観,仏
  寺,ラマ廟などの前方に建てられるものが多く,烏頭(うとう)門,櫺星(れいせ
  い)門もその一種に属する。またかつての北京城内のように街路上に設けられるも
  のもあった。


規模の大きさ

 西安城隍廟は、反った(弓なりの)庇が貼り出し、崇高な景観を創り出し、屋根には瑠璃瓦が施され、前の庇には美しい図案や花模様が彫らた透かし模様の門や窓があり、その模様は非常に美しく、堂内には、城隍(町の守り神)、役人、子供などの塑像が置かれていました。また、一対の銅製の獅子の像が廟の外の牌坊(門)の前に置かれていますが、それは、明王朝の嘉靖三十八年(1559年)に鋳造されたもので、現在は陝西省博物館の門の外に置かれています。この廟は、西安の有名な古い道教寺院と商人や様々な職人が集まる場所にあります。

 注)城隍神(じょうこうしん) Wikipediaより
  城隍は、町の守り神を指す。城隍神とは、中国の民間信仰における土地の守護
  神である。別名は福徳正神もしくは土地公ともいう。基本的に、都市の守護神を
  城隍神と呼び、それぞれ階級があり、その中でもっとも高い地位にあるのが都の
  守護神である城隍神であり、さらに府、州、県の順にランクづけられている。土
  地の神とされるのは、その土地に縁ある人物が生前の功績により、玉皇上帝やそ
  の配下の関帝に任命されると考えられている。土地の神の信仰が始まったのは一
  世紀ごろと考えられ、それ以降、戦争や災害、疫病などが起こるたびに祈りを捧
  げられた。この信仰は、土地の神にも昇進や左遷もあるとされ、功績や失敗でよ
  り高い地位の土地神とされたり、低い地位の神にされたりすると考えられていた。


文物の保護

 西安城隍廟は、現在、西安都城隍廟ショッピングセンターとなっており、陝西省の重点保護文化遺跡保護施設となっています。

 2001年6月25日、西安都城隍廟は、明・清時代の古代建築の力作であるとして、国務院により第五次全国重点文物保護対象施設に指定されました。

 明時代の洪武二十年(1387年)に西安東城門内の九曜街に創建され、明の宣徳八年(1432年)に今の場所に移築されました。

 清王朝時代の雍正元年(1723年)、大火に見舞われ消失し、川陝総督であった年羹堯(ねんこうぎょう)は、同じ年に寺院の修復を行いました。

 史誌の記録によると、西安都城隍廟の建築規模は広大で、全国各地の城隍廟の中でも希有な存在であるとされています。

 注)年羹堯(ねんこうぎょう:1679年 - 1726年)
  清の康熙・雍正期の官人。安徽懐遠を原籍とする漢軍旗人。
  ジュンガルのチベット侵攻に対して、康熙57年(1718年)に四川巡撫から四川総
  督に進められ、チベットよりジュンガル兵を撃退した。妹は雍親王の胤禛(のち
  の雍正帝)の側室であり、年羹堯は皇位継承争いで雍親王の擁立に大いに貢献し
  た。雍正帝の即位後、太保に任じられ、また一等公爵に封じられた上、雍正元年
  (1723年)に撫遠大将軍としてチベットに遠征して青海ホシュートを制圧し、ア
  ムド地方(青海)を藩部とするなど第一次チベット分割を実施した。しかしチベ
  ット制圧の翌年(1725年)に川陝総督から杭州将軍に遷されると、「九十二大罪
  」を理由に軟禁され、11月に無期懲役に処された。同月、妹の貴妃年氏も死去し
  た。翌月(1726年1月)、年羹堯は賜死に処された。

建物の構成部分

 城隍廟は寺院部分と道院部分に分けられます。城隍廟山門には、五つの大きな牌坊(門)があります。牌坊(門)の上には、枡組が何層にも重ねられ、牌坊(門)の下には、鉄製の獅子一対が置かれています。山門内には数百メートルにわたり、青煉瓦を敷き詰めた参道がまっすぐに第二門に繋がり、その間には文昌閣があります。

 注)文昌閣(ぶんしょうかく)=文昌の神を祀る建物
  旧中国において,知識人のあいだで信仰された学問や科挙の神。文昌帝君とも
  呼ばれた。文昌は北斗七星の第4星の名で,文曲ともいう。北斗星は消災解厄,
  保命延生をつかさどるとして古くから信仰されてきたが,南宋時代になるととく
  に文昌は学問・科挙の神として学校にまつられるようになった。これとは別に,
  六朝のころから,晋の張悪子が戦死してまつられたといわれる梓潼神(しどうし
  ん)信仰が行われ,宋代には福禄と名籍をつかさどる神として,科挙の受験者に
  信仰された。


都城隍廟(百度百科3)つづく