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ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

ヴェネツィア・ゲットー
(Ghetto di Venezia)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁

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ヴェネツィア・ゲットー  ヴェネツィア・ユダヤ博物館  市立自然史博物館

 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆ヴェネツィア・ゲットー

 以下はヴェネツィア・ゲットーです。ゲットーの中にユダヤ博物館があります。


出典:グーグルマップ


出典:グーグルマップ

 以下の運河に囲まれた地区が元ユダヤ人ゲットーがあった場所です。


出典:グーグルマップ

 ヴェネツィア・ゲットー(Ghetto di Venezia)は、ヴェネツィア共和国の首都ヴェネツィアに設置されていたゲットー(ユダヤ人隔離居住区)です。世界で最初に「ゲットー」と呼ばれるようになったユダヤ人居住区と言われています。


ヴェネツィアの新ゲットー地区(Ghetto Nuovo)の街並み。2009年5月7日撮影。
Source:Wikimedia  Commons
CC BY-SA 4.0, Link


歴史

ジュデッカ島


 ヴェネツィア共和国は10世紀頃から通商の拠点となり、第4回十字軍がコンスタンチノープルを攻略した13世紀以降には地中海において覇権を握った国です。

 通商の拠点であるヴェネツィアには、神聖ローマ帝国(ドイツ)のユダヤ人が徐々に移り住むようになりました。彼らはヴェネツィア船が東方から運んできた品を買い取り、中西欧に仲介していました。

 11世紀末にイタリア半島のユダヤ人共同体を巡ったスペイン・ユダヤ人ベニヤニイモ・ダ・トゥーデラの旅行記には、まだヴェネツィアは注目されていないことから、ユダヤ人のヴェネツィアへの本格的な進出はそれ以降の事に属すると思われます。

 13世紀にヴェネツィア政府は、ユダヤ人に対してヴェネツィア潟の島の一つスピナルンガ島(Spinalunga、後にユダヤ人居住区を意味するジュデッカ島という名になった)に住む事を強制しました。本土(ヴェネツィア共和国の大陸の領土)のメストレに住む事を強制した時期もあります。更にユダヤ人に黄色いバッジと帽子を被る事を義務付けたりもしています。

 しかしヴェネツィアのユダヤ人は栄えました。彼らはユダヤ人特別税を払う事でヴェネツィアの財政に大きく貢献しています。

ヴェネツィア本島


ヴェネツィア・ゲットーの地図。「Ghetto Nuovo」と書かれているのが
「新ゲットー」、「Ghetto Vecchio」と書かれているのが「古ゲットー」。
Source:Wikimedia  Commons
CC 表示-継承 3.0, リンクによる



出典:グーグルマップ

 以下の運河に囲まれた地区が元ユダヤ人ゲットーがあった場所です。


出典:グーグルマップ

 1516年にヴェネツィア本島の西北部カンナレジオ地区の新鋳造所跡にユダヤ人居住区が建設され、ヴェネツィアのユダヤ人はここに移住を強制されました。鋳造所はヴェネツィア語で「Getto」といい、これがユダヤ人居住区を意味する「ゲットー(Ghetto)」の単語の語源になったといわれています。

 現在このゲットーは「新ゲットー」(Ghetto Nuovo)と呼ばれる地域になっています。新ゲットーは四方運河に囲まれており、高い塀がめぐらされ、外向きの窓はすべて煉瓦でふさがれていました。設立当初の新ゲットーの人口は700人ほどとみられています。

 1538年には隣接する旧鋳造所跡にもユダヤ人の居住が認められ、1541年にはここがゲットー化しました。これが現在「古ゲットー」(Ghetto Vecchio)と呼ばれている地域です(新旧はゲットーが建設される前の鋳造所についてのことであり、ゲットーとしての成立は新ゲットーの方が古ゲットーより古い事に注意が必要です)。


Nizioleto indicante il Ghetto Vecchio
Source:Wikimedia  Commons
Attribution, Collegamento


 新ゲットーが創設された当初は、住民の大多数が神聖ローマ帝国(ドイツ)ユダヤ人で、土着のヴェネツィア(イタリア)ユダヤ人はわずかであったといいます。しかしこの後、イスラム圏ユダヤ人(レバンティニ。東方ユダヤ人・東地中海ユダヤ人)とスペイン・ポルトガル系(ポネンティニ)ユダヤ人も増えました。

 イスラム圏ユダヤ人はヴェネツィア共和国にとって東方貿易における経済的ライバルであったので、初めヴェネツィア共和国はイスラム圏ユダヤ人の商品の運搬を自国船に禁止していました。しかし後にこれが解禁され、更にローマ教皇が宿敵のイスラム教徒との交易を禁止するようになるとヴェネツィア共和国にとってイスラム圏ユダヤ人との交易が重要なものになりました。そのため、やがて彼らのヴェネツィア共和国居住も認められるようになったのです。

 スペイン・ポルトガル系ユダヤ人は、イベリア半島におけるキリスト教国のイスラム教国への再征服の後の1492年から16世紀初頭にかけてスペイン(カスティーリャ王国やアラゴン王国)やポルトガル王国で異端審問が激化したため、モロッコなどを経由してヴェネツィアへ逃れてきたユダヤ人です。

 最盛期にはゲットーの人口は5,000人に達したといいます。ゲットー住民たちは、主に神聖ローマ帝国系、イスラム圏系、スペイン・ポルトガル系でグループを形成し、それぞれ別個のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)とスコラ(教学館)を持ち、別々の風習・言語がありました。住民の職業は商業、金融、医師、船員、外交関係、通訳などが多かったようです。


Ponte del Gheto Novo
Source:Wikimedia  Commons
CC BY-SA 4.0, Link



Sinagoga spagnola
Source:Wikimedia  Commons
CC BY-SA 4.0, Link


迫害

 ゲットー住民は日中だけは地の利の悪い所で商売を行う事を許されたが、夜は事実上ゲットーに閉じ込められた。重いユダヤ人特別税も課せられました。

 しかしそれでもユダヤ人はヴェネツィアで栄えました。ヴェネツィアの東方貿易の主役はユダヤ人でした。ユダヤ人が乗っていないヴェネツィア船はほとんど見当たらないほどでし。

 キリスト圏でもイスラム圏でもユダヤ人は裕福と噂になり、オスマン帝国や聖ヨハネ騎士団はしばしばヴェネツィア船のユダヤ人を誘拐してはユダヤ人共同体に身代金を要求していました。ヴェネツィアのユダヤ人共同体は、言われるままにお金を支払う事が多かったのです。

 イスラム圏ユダヤ人やポルトガル系ユダヤ人が中心となってオスマン帝国との交渉のための特別機関を設けていました。また聖ヨハネ騎士団の本拠地マルタ島には代理人を置きました。代理人の仕事はユダヤ人が捕まった場合にヴェネツィアのユダヤ人共同体に報告し、もし身代金が支払い可能ならばその手続きをすることでした。

 ゲットーは言うまでもなくユダヤ人隔離を目的として作られた差別的立法の産物です。しかしながら、同時期の中欧のゲットーとは異なり、ヴェネツィア・ゲットーに対してヴェネツィア人が略奪や虐殺などを行うようなことはありませんでした。これはヴェネツィア共和国が信教の自由を保障していた国であり、またヴェネツィア国民が宗教に無関心な人が多かったためではないかと見られています。

ナポレオンによる解放

 1797年にヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍によって滅ぼされました。

 これによりユダヤ人はもはやゲットーに居住することを強制されなくなりました。ヴェネツィアはこの後フランス帝国やオーストリア帝国の領土を経て、イタリア統一国家イタリア王国の領土となります。

 しかし、ヴェネツィアのユダヤ人がゲットー居住を再び強制されることは無かったのです。イタリア統一運動にはゲットーから解放されたユダヤ人たちの協力がありました。1866年にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は改めてユダヤ人に居住の自由を認めています。

 だが解放された後もゲットーに留まったユダヤ人は多かったと言います。ゲットーのユダヤ人のうち裕福な者はゲットー外へ移住することもできましたが、貧しい者は移住の金が無いため、そのままゲットーで暮らすしかなかったためです。ゲットーの人口は少しずつ減っていましたが、第二次世界大戦前まではヴェネツィアのゲットー地区ではヴェネツィア・ユダヤ方言が話され、伝統的な儀式がおこなわれていたといいます。

ナチス・ドイツによる虐殺

 イタリア王国では1922年にローマ進軍によってベニート・ムッソリーニのファシスト党政権が誕生しましたが、ムッソリーニは人種差別政策は掲げなかったので、はじめユダヤ人が迫害されることはありませんでした。

 しかし1930年代末になるとナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの圧力に屈して徐々にユダヤ人を社会から排除する立法を開始しました。

 1943年にドイツ軍がイタリアに侵攻すると、イタリアでもナチスによるユダヤ人狩りが行われるようになりました。イタリア全土で約9,000人のユダヤ人がナチスの犠牲になったと見られています。ヴェネツィアのゲットーで暮らしていたユダヤ人は五分の一がナチスの強制収容所へと移送されています。

 現在、新ゲットーにはナチス占領期のイタリア・ユダヤ人の殉難の碑が残されています。


ヴェネツィア・新ゲットー地区にあるホロコースト記念碑の一つ。
ユダヤ人収容所へ向かうナチスの移送列車が描かれている。 
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 3.0, Link


ヴェネツィア・ユダヤ博物館つづく