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シルクロードの今を征く Now on the Silk Road

ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

はじめに 4

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日改訂公表予定2020年7月1日
独立系メディア 
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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆はじめに4Venezia、イタリア、Venice)

ヴェネツィアの歴史概要 詳細は共和国の歴史をご覧ください。

ヴェネツィアの映像を背景にLoLa & Hauserによるピアノとチェロの演奏が繰り広げられます!
Lola & Hause Love Story in Venezia, Italy

 ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯です。

 古代、ヴェネツィア周辺の地域にはウェネティ人が住んでいました。伝説では、アクイレイア、パドヴァなどの北イタリアの都市の住民が、5世紀のゲルマン人のイタリア侵略からのこの湿地帯へと避難してくることから、452年にヴェネツィアの歴史が始まります。

 この時避難してきた先が現在のトルチェッロ島です。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人々はここに暮らし続けるようになります。干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒らしたり干拓したものを極刑にする、という法を作ったり、普段は船が通れる道を杭で示していましたが非常時にはその杭を抜く、など、干潟を守り、かつ、有効に利用していました。

 彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域は元々東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属しましたが、実質的には自治権を持っていまし。697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めました。

 これがヴェネツィア共和国の始まりです。つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治が続きましたが、外敵の脅威に対して結束し、836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退しました。10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結びましがが、これはムスリム(イスラム教徒)と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるものでありました。

 9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣、そのため、トルチェッロにいた人々は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになりました。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」です。810年に東ローマ帝国‐フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属しまするが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石が置かれました。

 このころ、ヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にありました。ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレクサンドリアにあり、ムスリムに奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年、それを奪い取りヴェネツィアに運びましだ。この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになりました。

 10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大しまいた。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めてゆきます。ジェノヴァ共和国などの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となりました。

 11世紀、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得ました。


旧工廠正門ポルタ・マグナ
造船所入口(Porta Magna) ヴェネツィア国立造船所入口(Porta Magna)
Source:Wikimedia  Commons
CC 表示-継承 4.0, リンクによる


 1104年に工廠(アルセナーレ)が創られ軍船の修理を始めました。

 1320年には軍船や大型商船の造船所となり、最大1万6千人が従事し、船のロープ・帆桁などを個別に生産し、一貫作業で1日1隻の造船能力がありました。

 1370年代以降は銃器も生産され、16世紀には世界における造船・兵器製造の一大拠点となりました。1797年のナポレオン支配終了まで繁栄が続きました。1593年にはガリレオ・ガリレイが技術顧問に就いています。

 1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島(ヴェネツィア領クレタ)などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれました。

 以下はそれを地図で示したものです。

 左上にヴェネツィアがあります。赤い部分はアドリア海に面する諸国でヴェネツィアの影響下にあった、地域です。私たちが2007年3月に現地視察したドブロブニク(当時はラグーサ共和国)やモンテネグロなども赤色となっています。

 事実、現地の資料を見ると、街づくりにヴェネツィアの強い影響が見られます。

 またオスマントルコ軍に欧州諸国が一丸となり十字軍を組織してアドリア海からエーゲ海、地中海などに向かう途中、ドブロブニクに立ち寄ったことが記されています。



ヴェネツィア共和国の領土の変遷
Source:Wikimedia  Commons
request for a new map., CC 表示-継承 2.5, リンクによる


 ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力をほこるようになったのです。

 東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、おなじ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせました。

 富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭政治がおこなわれるようになりました。13 ~ 14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いがつづきました。1378 - 81年の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認め、その後も侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力をもつ都市国家となりました。

 15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げました。

 1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となりました。その上、大砲の登場により干潟に住むメリットがなくなってしまったのです。

 その後の諸外国の侵略や、ほかのイタリア都市の攻撃で、ヴェネツィアの力は弱まりました。また、1497 - 98年にポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見したため、貿易の対象がアジアに移り、アメリカ大陸が発見され、時は大航海時代へ遷ると共に貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下、衰退は加速されました。

 これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処しました。

 1508年、ヴェネツィアに対抗して神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインは同盟をむすび、ヴェネツィア領土内にある財産を没収しました。1516年、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権をとりもどしたが、海洋国家としての地位は回復できませんでした。

 1797年、ヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルトに侵略され、ついに崩壊しました。

 カンポ・フォルミオ条約により、ナポレオンはその領土をオーストリアに引き渡しました。オーストリアは1805年にフランスが支配するイタリア王国に譲ったが、1814年には奪回。オーストリアは港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重視したため、ヴェネツィア経済は衰退しました。その翌年、ヴェネツィアとロンバルディアはロンバルド=ヴェネト王国をつくります。

 ヴェネツィア人はイタリアの政治家ダニエーレ・マニンの指導のもとで、1848年にオーストリア支配に対する反乱(1848年革命)をおこし、ヴェネト共和国を建国しました。しかし、その翌年にオーストリアの攻撃により降伏しました。

 1866年に普墺戦争がはじまると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入されました。

 1987年、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録されました。


ヴェネツィア5つづく