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兵馬俑 百度百科9

西安
(Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は中国西安市(長安)の兵馬俑の中国百度百科版の9です。

◆兵馬俑 百度百科9



●制作者


兵馬俑展示  出典:中国百度百科

 兵馬俑を制作した匠たちは、秦帝国社会における下層階級の一介の陶工に過ぎませんでした。これらの陶工たちの何名かは、宮廷の作陶工房の出身でしたが、一部は、各地方の作陶工房出身の人々でした。発掘された陶俑の体からは、80名の陶工の名前が明らかになっています。彼らは、いずれも豊富な実践経験のある優れた陶工たちでした。

 陶俑や陶製馬の体の上には、陶工の名前が刻印されていました。戦国時代中期の秦国に“物勒工名”(作品に制作者の名を刻む)制度があったことにより、秦国政府は官制の手工芸を管理し、品質や量を保証するとともに、工匠たちを指揮監督するひとつの手段としていました。こうした手段は、秦陵の兵馬俑の制作にも運用され、一方では、工匠の指揮及び管理を強化するとともに、一方では、作品の量的質的な面での進歩にも大いに役立ちました。

 考古学者たちは、出土した陶俑や陶製馬の体の上の、ちょっと隠れたところにこに刻印や文字が書かれていることを発見しました。文字の数は非常に少なく、一般には2文字で、最も多いもので11文字というものが一件ありました。陶に刻まれた文字は、作品のシリアルナンバーの他は、すべて陶工の名前でした。これらの陶工の名前は、大きく4つに分類することができます。

 一つは人名の前に“官”の文字が書かれたもので、「宮廷」の宮を略した類と思われます。二つ目は、人名の前に“右”あるいは、“大”の字があるもので、これは、「右」や「大」のつく名前の略称の類と思われます。三つ目は、人名の前に地方の名前がつくもの、四つ目は、ただ、人名があるもので、人名は多くは二文字であり、ごく僅か、まれに三文字のものもありました。これらの4種類の陶工の中で、第一と第二の分類は、中央政府からの陶工であり、第三の分類は地方の工房の陶工、そして第四の分類は単純すぎて、その起源についての判定は極めて困難です。


<官庁工房の陶工>


兵馬俑展示  出典:中国百度百科

 宮という字で陶工名を記したものは、いずれも陶俑の体の上で発見されており、陶製の馬の体には発見されていません。また、多くの陶俑の衣服のスカートの裾の部分の隠れたところに書かれており、少数は、衣(服)の角かあるいは、足の上に書かれていました。

 現在、全部で87体発見されており、その中で文字が刻印されたものは57件、文字が刻まれたものが12件でした。これらの陶の文字の字体はいずれも小篆(しょうてん)であり、印鑑の文字は比較的整っています。陽文(印章や碑・鐘・鼎 (かなえ) などに陽刻された文字)の場合には、多くが周りを線で囲い、字と字の間は境目なく書かれており、事の配列は多くが横書きで左から右に書かれていました。文字の彫り方(刻み方)は比較的粗雑であり、文字の配列順はまちまちで、あるものは左から右、あるものは右から左の横書きもあれば、上から下の縦の配列も有ります。

 注)小篆(しょうてん) コトバンクより
  漢字の書体の一つ。秦の始皇帝の時、丞相李斯(りし)が創始したものといわれる。
  大篆を省略・整頓して筆写に便利にしたもの。のち、さらに簡易な隷書・楷書が作
  られてからは、碑銘や印章などの字体にもっぱら用いられるようになった。秦篆。


兵馬俑(百度百科10)へつづく