伊能忠敬と日蓮の足跡を たどる千葉の旅 藤井日達と日本山妙法寺 2018年12月12日 青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda April 15, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
千葉視察総合目次 清澄寺6 清澄山御仏舎利塔 藤田日達と日本山妙法寺 ◆藤井日達と日本山妙法寺 藤井日達 出典:日本山妙法寺公式Web 日本山妙法寺と云う名は、私(藤井日達)が海外に仏法を弘めた初めから付けました。 今日まで何処に弘まっても日本山妙法寺と云う名を付けております。 法華経の中に、法華経の弘まる姿が予言してあります。二千年の間は、印度から中国・朝鮮、アジア一帯に弘まります。 「末法と云う仏様の滅後二千五百年を過ぎてから、法華経が日本国から又世界に広まって行く」という予言が有ります。其の時代は、人の心も皆濁り乱れて、互いに殺し合う技術が発達しまして、人間が自ら発見した戦争道具によって世界が皆焼け尽きてしまうと云う時代であります。 此の時代を救う御釈迦様の教えを、法華経の中で言葉に結び込んで、霊鷲山で御弟子に「末法の時代に弘めよ」と云って付属されました。其の一つの言葉が、南無妙法蓮華経と云うもので、其の南無妙法蓮華経は、御釈迦様以来二千五百年、何処にも弘まらず、誰も弘めなかった教えであります。 病いが軽い時には色々な薬が使われますが、いよいよ病いが重くなって最後の重大な危険を救う時には、簡単に結び込めた僅かの薬でなければ救われません。 今までの仏教の救いが皆利益しなくなった時、南無妙法蓮華経の一つの言葉で、此の悪世の、焼かれて失われる時代の火を消す薬とされました。 日本に生まれた日蓮聖人様が、御経文によって初めて南無妙法蓮華経と日本国で唱え出されました。末法の時代、戦によって人類が滅びて行く、此の苦しみを救わねばならない、と云う使命を申し出られました。 日本に初めて唱え出された仏法―南無妙法蓮華経を、現代の世界の戦争の火を静める為に、世界に弘めなければならない。私、海外に仏法を弘めるのに、弘める南無妙法蓮華経と云う教えを型取りまして、日本山妙法寺と名を付けました。 出典:日本山妙法寺公式Web 【仁王護国鈔】 日本山妙法寺(1) 日本山妙法寺は各宗僧侶の資格に洩れ一般社会の競争に敗れ名利両(ふたつなが)ら失いたる、教導職能化の器に不適任の者を蓄えるを以って本意とす。仍(よっ)て官庁の認める適任の思料に外れ宗務院の登録する資格に当たざること必然の約束なり。只、独り仏弟子の詮考に叶うを以っての故に自ら出家得道して私かに仏子の威儀を学ぶのみ。 2015.02.18-10:07 日本山妙法寺(2) 予が日蓮大聖人を高祖と仰ぎながら、別に日本山妙法寺の僧加を構成して独自の修行をする所以も、日蓮宗一般に教機時国序の格網ともに、あまりに狭義の解釈を施し、時機にあたれる救済の手を垂るること無きが為に、是好良薬を稍もすれば時代に施しおくれ機根に合わざる恐れがあるが故に撰時鈔の明文に由り、自由の弘通をすることである。 2015.02.18-10:02 日本山妙法寺(3) 詮ずる所は、日本山妙法寺開堂供養とは、日本の仏法月氏へ帰るべき瑞相なり、乃至、日本は光明月に勝れり、後五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり、と仰せられた日蓮大聖人の諌暁八幡鈔が即ちそれである、大聖人予言の全文、今日一宇の仏殿となった、是から何にでもなるのじゃ、 【恩師御法話】 五十八年一月二十日 多宝山 猫は猫で動かし 日本山は、未だ色々雑多な者があります、雑多は雑多でいい、十界ともにあります、その十界が挙〔あが〕って今度は人類救済の為に動き出すと、これは大変だ、これをせねばいかん、猫は猫で動かし、共に御浄土を作らねばいけません、 以下の出典はWikipediaです。 ◆藤井 日達 藤井 日達(ふじい にったつ/にちだつ、1885年(明治18年)8月6日 - 1985年(昭和60年)1月9日)は、熊本県阿蘇(現・阿蘇市一の宮町)出身の僧侶。 南無妙法蓮華経 人類の生きていく道は平和に暮らすこと争いをしないこと。 これだけを仏様の教えによって習い極めて現在の憲法を 宗教的な信念によって持たねばなりません。 南無妙法蓮華経と唱えてこの憲法を守ります。 ◆略歴 大分県の臼杵農学校に学び、1903年(明治36年)に臼杵の日蓮宗法音寺にて出家。1912年(大正元年)日蓮宗大学(現在の立正大学)入学。さらに浄土宗大学院、真言宗学林、法隆寺勤学院、真言宗連合大学、臨済宗建仁寺僧堂にて学ぶ。 1918年(大正7年)10月、旧満州の遼陽に最初の日本山妙法寺を建立、日本国内では1924年(大正13年)に最初の日本山妙法寺を、静岡県富士市の田子の浦に建立する。1930年(昭和5年)にインドに渡り、1933年(昭和8年)ガーンディーと出会い、非暴力主義に共鳴。 第二次世界大戦後は、不殺生、非武装、核廃絶を唱えて平和運動を展開。1954年(昭和29年)、ネルー首相より贈られた仏舎利を納めた仏舎利塔を、熊本駅裏の花岡山山頂に建設。1957年(昭和32年)にネルー首相と会見。また「世界宗教者平和会議」や「世界平和会議」の開催にも尽力した。 ◆著作 ・『わが非暴力:藤井日達自伝』春秋社、1972年。 ・『毒鼓』わせだ書房、 1961年。 ・『仏教と世界平和』日印サルボダヤ交友会編集部、1980年。 ※増補改訂版、1981年 ・『藤井日達全集』全10巻、隆文館、1994年〜1999年 ◆評伝 ・山折哲雄 「孤高の僧、藤井日達と私」講談社現代新書『教える と、裏切られること:師弟関係の本質』講談社、2003年。 ・林 明 「インドにおける日本山妙法寺:石谷上人・森田上人の 思想・活動--藤井日達上人とガンディーの精神の継承」 『人文社会論叢. 人文科学篇』(20)、弘前大学人文学部、 2008年、1〜12ページ。 ・内藤雅雄 「M.K.ガーンディーと日本人:日中戦争をめぐって」 『アジア・アフリカ言語文化研究』(63)、2002年、125〜174ページ。 ・西数男 『日蓮大聖人と藤井日達大聖人のおはなし:こどものため の読物』1988年。 ・中濃教篤 「藤井日達上人を偲ぶ」『文化評論』(通号 288)、 新日本出版社、1985年、206〜209ページ。 ・山折哲雄 「藤井日達のアジア主義:1930年代の日印関係」 『アジア経済』17(11)、1976年、21〜34 ページ。 ・丸山照雄 「現代を生きる「僧」の二つの典型:訓覇信雄師と藤井 日達師の場合」『思想』(通号 613)、1975年、974〜997ページ。 ・山折哲雄 「インド体験型アジア主義の一類型:藤井日達の場合」 『アジア経済』14(9) 、1973年、2〜19 ページ。 ・小沢信男 「日本山妙法寺:藤井日達とその弟子たち-特集・ 日本の平和思想」『思想の科学・第5次』(29) 笠森観音1につづく 千葉視察総合目次 |