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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

清澄寺6
(千葉県鴨川市)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
April 15, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


千葉視察総合目次

清澄寺6  清澄山御仏舎利塔  藤田日達と日本山妙法寺

日蓮と清澄寺

・日蓮の出家
 承久4年(1222年)2月16日、日蓮は安房国長狭郡東条郷(現・千葉県鴨川市小湊)で生まれました。善日麿と名付けられた日蓮は、12歳になると清澄寺に預けられ薬王丸と改名します。

 住僧・道善房に師事して16歳で出家得度し是聖房蓮長の名を授かりました。本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給へ」と祈願した日蓮は、鎌倉・京都・比叡山・高野山・天王寺などへ遊学、清澄寺に戻った時には32歳となっていました。

・立教開宗
 建長5年(1253年)4月28日、清澄寺で帰山報告を兼ねた説法会を行った日蓮は、文献を基に浄土宗を批判し、法華経が最も優れた経典と語りました。

 この説法は念仏信者の反発を呼び、日蓮を捕える動きがありましたが、師・道善房や兄弟子らの助けによって日蓮は安房国を脱しました。

 後世の伝記によればこの日の朝、日蓮は旭が森に登り、朝日に向かって題目「南無妙法蓮華経」を唱えたとされ、日蓮宗では4月28日を記念して立教開宗の日としています。また日蓮はこの後、蓮長から日蓮へと名を改めています。

・報恩抄を著述
 建治2年(1276年)改宗せずも日蓮に理解を示した師・道善房が没しました。日蓮(55歳)は「報恩抄」を著し、弟子を遣わして同書を師の墓前に供え、深い感謝を捧げました。

 報恩抄の最後は「されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」と結ばれています。報恩抄は日蓮の著述の中でも五大部の1つされる重要な書物です。道善房没後670余年、昭和24年(1949年)清澄寺は日蓮宗へと改宗しました。

・清澄寺の日蓮霊跡

女人堂と涕涙石
 日蓮が12歳で清澄寺に預けられた当時、清澄への女性の入山が禁じられていた為、日蓮は女人堂で母と会ったとされています。日蓮は故郷への思いが修学の妨げになるとして母に来訪しないよう伝え、母は石に座り込み涙を流したと伝わります。当時の女人堂跡地には母の涙の跡が表面に残る涕涙石があったが、道路の拡張により埋められ、現在は記念碑が建てられています。

虚空蔵菩薩像 
 天和2年(1682年)摩尼殿とも称す大堂(本堂)が建立されました。堂内には現在本尊とする曼荼羅の前に、享保2年(1717年)八事山興正寺の天瑞和尚が奉納した能満虚空蔵菩薩の像が置かれ、その胎内に日蓮が祈願した不思議法師作の虚空蔵菩薩像が安置されているといいます。不思議法師は清澄寺を開山した僧です。


旭が森・日蓮銅像

日蓮銅像
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2018-12-13


日蓮銅像
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2018-12-13


日蓮銅像
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2018-12-13

 建長5年(1253年)4月28日、日蓮が旭が森で初めて題目を唱え、法華経の布教を決意したとされ、清澄寺では4月27・28日に「立教開宗会」を行っています。また大正12年(1923年)には旭が森に日蓮の銅像が建立されました。

 この日蓮像は明治から昭和にかけて活躍した彫刻家・渡辺長男の作品で、複製された銅像が平成30年(2018年)3月時点で全国に40体以上あり、東京都内では法恩寺 (墨田区)、感応寺 (江戸川区)等で見られます。

道善房の墓と報恩殿
 境内には建治2年(1276年)3月16日に没した日蓮の師、道善房の墓所があり、その隣に追善のため、昭和37年(1962年)報恩殿が建立されました。殿内に道善房の尊像を安置しています。また報恩殿の裏にはつつじ山が造成され5月のGW後半に見頃になるといいます。



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