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千葉県3大壇林跡短訪
中村壇林跡(日本寺)資料
 


青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
2021年10月15日視察
独立系メディア E-wave Tokyo

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資料

◆中村檀林(正東山日本寺):  正東檀林:香取郡多古町南中 詳細
 出典:近世日蓮宗関東檀林・京都檀林

 永仁3年(1295)日常が興した草庵が始まりとも伝える。

 嘉暦年中(1324-28)中山三世浄行院日祐、領主千葉胤貞の帰依を得て東福寺を創建する。

 東福寺13世(中山10世)賢聖院、日本寺と改号。

 慶長4年(1599)恵雲院日円、中村檀林を開く。

  ※日円は飯高妙福寺6世で、飯高檀林第3世化主招請を
    巡る争いで心性院日遠が就任したため、隣村に檀林を
    開くと云う。

 慶長8年(1603)飯高化主日遠は見延へ晋山、後任に中村化主日円を推挙、日円は飯高の化主に晋むも、慶長10年(1605)39歳で遷化する。これは日円が池上日尊の法系であり、不受として暗殺されたと云われる。

 寛永7年(1630)「身池対論」、日充は奥州岩城へ追放。

 ※遠寿院日充(能登滝谷妙成寺12世):慶安3年(1650)
   6月19日寂。

 同中山隠居寂静院日賢(飯高・松崎・中村三談林能化)は遠江横須賀へ追放。

 中村檀林歴譜は日樹-日賢-日充-日尭-日条と次第するが、日樹-日賢-日充-日尭の四師は「法理違乱により除歴」と云う。

 「日樹上人傳」:日本講寺歴代譜では開祖日円-2祖日因-3祖日慈-4祖日要-5祖日存-日樹-日賢-日充-日尭-6祖日修と記す。

 日樹-日賢-日充-日尭は法理異乱により除歴、日修を以って第六世と為すとの註書がある。

 寛永8年受派身延山、中村檀林を帰伏。

○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より

◇中村・小西両談所の帰伏

 身池対論で、奥州岩城へ追放となった遠寿院日充は中村檀林8世能化である。中村は池上日樹(6世)中山日賢(7世)を能化に迎え、小西檀林とともに関東不受派の中心檀林であった。

 また同じく奥州相馬に追放になった守玄院日領は、はじめ佐渡に追放となるが、相馬中村城主相馬氏の老臣である池田直尚によって相馬に預け替えとなるが、小松原鏡忍寺12世でもあり、小西檀林5世の能化であり、10世を再任する。

 身延は小湊に続き、中村・小西両談所を支配下に置くべく、画策をなす。小西檀林に対しては、村民を扇動して、不受の学徒を追放する。中村檀林に対しては起請文を出させて、身延支配を強制し、これも不受の所化衆を多胡・玉造へ追放する。

 明治8年廃檀。

 本圀寺派檀林、明治焼失。

 中村檀林境内景観図:画像相当不鮮明:「近世日蓮宗飯高檀林の堂舎構成」 より

 中村檀林境内景観図2:「日本博覧図 第9編(千葉県初編)」明治27年 より、上記の図と同一図、

 下にある「略縁起」は左上の部分を拡大したもの、最盛期には数十棟の学寮があり、画にはその学寮跡が描かれる。略縁起にある加藤日慶は明治に寺の再興を図ると云う。

◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より

 元応元年(1319)中山3世日祐が開創(瑞光寺)し、慶長4年(1599)瑞光寺15世日円、正東山日本寺と改号し、学室を構える。

 「北総日本寺境内図」(文化元年・1804)では 講堂、方丈、妙玄院、玄論場、文論場、玄義談論場、文句談論場、食堂、浴室、作事、鐘楼、皷楼、経蔵、大門、三門、妙見宮、豊田神祠、岡田神祠 から成る。

 大門は南に開かれ、左折して三門に至る。この間の右に院師廟所、歴代墓所がある。三門を入り、左に玄義談論場、右に文句談論場がある。三門より講堂までの間に玄論場と食堂を配する。

 講堂前左に経蔵、右に鐘楼、皷楼があり、背後には方丈があり廊下で繫がる。方丈左に作事1棟がある。

 講堂左に妙見宮、その北に岡田天王、豊田天王が並んである。また講堂東北に妙玄院、文論場があり、かなり離れて北側浴場がある。

 檀林の谷は東谷、西谷とあり、東谷に8寮、西谷に29寮、妙見社3社がある。
現在の講堂は明治25年の再建である。