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千葉県3大壇林跡短訪

昌山妙福寺2
 

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
2021年10月15日視察 2021年10月31日公開
独立系メディア E-wave Tokyo

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◆昌山妙福寺の歴史

 この昌山妙福寺の歴史は古く、飯高壇林や飯高寺の創建にも関わっている。

 昌山妙福寺の創建は延慶3年(1310年)である。この年の8年後に、南北朝の初代天皇である後醍醐天皇が即位している。この時代は鎌倉時代と室町時代の中間にあたりり,広義の室町時代に含まれる。

 昌山妙福寺の宗派は日蓮宗であり、本尊は釈迦如来である。昌山妙福寺が当時は妙見山と号しかつては、飯高檀林の前身となる学室が置かれた寺院でもある。妙福寺は妙見社別当であり、往時は総門付近にあり、後に妙見社付近に移転した。

 次に歴史から昌山妙福寺を飯高壇林との関係で見てみる。

 日統は飯塚生まれで地元光福寺で出家し、比叡山延暦寺に学んだ後、天正元年 (1573年) 飯塚檀林を開檀する。天正5年 (1577年) 日統の後輩にあたる延暦寺学僧日生、日尊ら30余名が学室に加わる。日統没後は日生が講主となり、内山・妙広寺を経て妙見山妙福寺に移る。この妙福寺学室が妙雲山法輪寺に発展し飯高壇林となっている。

 天正8年 (1580年) 帰京した日生に後を託された日尊が講主となってからは学僧も多く集まり益々盛大になる。天正19年 (1591年) 豊臣秀吉の関東制圧後、飯高城主平山刑部常時は野に下りその城地全域を寄進する。徳川家康が朱印地30石を与え、飯高寺と公称する。

 慶長元年 (1596年) 飯高寺・日尊は飯高檀林を開檀する。慶長13年 (1608年) 江戸城徳川家康面前にて日蓮宗日経と浄土宗増上寺源誉の間で宗論が行われ、日蓮宗が浄土宗に詫び証文を出すことになった時、対応をしたのが檀林第3世講主日遠である。日遠が家康からの処罰を受けるところを仲裁したのが日遠を師事していたお万の方(家康の側室)であり、後の講堂焼失の際に多額の寄付が送られるきっかけともなった。
 
 昌山妙福寺の「曼荼羅本尊」「題目板碑」 は市指定有形文化財である。

 妙福寺は、守護神として妙見尊を祀るために進藤太縦空が建立した寺院である。住所は匝瑳市八辺154

 以下は昌山妙福寺の伽藍の写真である。


匝瑳市の昌山妙福寺の鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 以下は昌山妙福寺の本堂である。


匝瑳市の昌山妙福寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 以下は妙見堂である。


匝瑳市の昌山妙福寺 妙見堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


匝瑳市の昌山妙福寺
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


 この後、池田は飯高神社を視察する。
 

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


 以下の写真の林の左上が飯高神社である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


飯高神社1へつづく