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千葉県3大壇林跡短訪
飯高壇林跡詳細
 

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
2021年10月15日視察
独立系メディア E-wave Tokyo

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◆飯高壇林詳細
 出典:近世日蓮宗関東檀林・京都檀林

 天正元年(1573)要行院日統が(旧八日市場市)飯塚の光福寺(法輪寺とも称する)に学室を開く。

 ※要行院日統は飯塚村で法華教の講釈を行い、多くの
   来聴者を集める。

 天正7年(1579)京都から教蔵院日生を招じ、平山刑部の庇護があり、学室を当地の妙福寺に移し、飯高檀林が成立する。

 ※来聴者の数は益々増加し、それに対応するため、京都
   より教蔵院日生を呼び講釈の補佐をさせる。

 以降、補佐するものの住む建物を教蔵院と称するようになる。

 
※妙福寺は妙見社別当であり、往時は総門付近にあり、
   後に妙見社付近に移転。


 天正8年(1580)現在地(飯高)に移転する。(法輪寺と称したようである)。

  ※天正19年身延日新は家康より飯高に檀林地を拝領、
   日生は飯高に移り、講堂と庫裏を建立する。

 天正11年(1591)徳川家康より30石の朱印を受く。朱印状には飯高寺と記され、それ故寺号を改む。

  ※家康からの朱印状には地名の飯高寺とあり、飯高寺
   と法輪寺が並用されることとなる

 慶長元年(1596)蓮成院日尊が来援、初代化主として飯高檀林が正式に発足する。

 慶長3年心性院日遠第3代化主入山、第3代化主の座を巡っては、妙福寺6世日円との確執があったと云う。

 慶長4年(1599)「大阪城対論」(徳川家康・京都妙顕寺日紹と京都妙覚寺日奥)、翌年日奥対馬に遠島。

 慶長8年(1603)飯高化主日遠は見延へ晋山、後任に中村化主日円を推挙、日円は飯高の化主に晋むも、慶長10年(1605)39歳で遷化する。

 
その後の状況は、受と不受との対立は寺院からみれば身延対池上・平賀・中山・小湊であり、檀林から見れば飯高(受)対中村(不受)小西(不受)の対立であった。同年、日円は隣村中村に檀林を開く。

 慶長10年(1605)39歳で遷化する。これは日円が池上日尊の法系であり、不受として暗殺されたと云われる。

 慶安4年(1652)寿量院日祐代、慶安3年に焼失した講堂を再建、養珠院(家康側室・紀州頼宣、水戸頼房生母)の寄進になる。

 飯高寺領田地図(江戸期)や各種絵図によると基本的に近世を通じて堂宇配置はほぼ同じであったと考えられる。

  ※飯高寺領田地図:「飯高・小西・大沼田の檀林の建築
    構成-日蓮宗寺院伽藍配置の研究(1)」 より

  ※養珠院は大講堂のほか内外妙見社、七面社も寄進する。

 享和3年(1803)「御由緒明細帳」では以下の堂宇が知られる。


飯高檀林復元配置図(一部略):


飯高檀林略地図

 何れも 「近世日蓮宗飯高檀林の堂舎構成」 より

  ※檀林の最盛期は約800人の学徒が在籍と云う。
  ※現在の総門は延宝8年(1680)の建立と伝承、皷楼は
    享保5年(1720)建立、

 天明8年(1781)現在の鐘楼建立。

 また寛永年中以降、次の三谷が発生した。

 中台谷に学頭竜眠庵、称心庵、城下谷に学頭向城庵、心性庵、松和田に学頭松和田軒、普潤軒などがある。

 ※昭和55年、講堂・鐘楼・鼓楼・総門重文指定。 
 ※講堂は慶安元年(1648)養珠院の建立と云う。