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上州吾妻の城跡

岩櫃山中腹・岩櫃城A

青山貞一   池田こみち   鷹取敦

September 25 2015
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上州吾妻の城跡 2015-9-20
◆上州吾妻の城跡: 鎌原城跡 ◆上州吾妻の城跡: 岩櫃城跡@
◆上州吾妻の城跡: 羽根尾城跡 ◆上州吾妻の城跡: 岩櫃城跡A
◆上州吾妻の城跡: 浅間酒造観光センター ◆上州吾妻の城跡: 岩櫃神社
◆上州吾妻の城跡: 岩櫃山麓・潜龍院跡 ◆上州吾妻の城跡: 吾妻神社

 そして本丸跡です。

 この間、健脚なひとなら、登山口から15分程度で到着するはずです。私達はいろいろ植物観察などしながら登ったのでもう少し時間がかかりました。本丸跡までは急斜面ですが、階段がついているので、容易に登れます。


岩櫃城本丸跡の標識
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-10-12


岩櫃城本丸跡の標識
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-10-12

 下は櫓台の説明標識です。 


櫓台の説明標識
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-10-12


櫓台の説明標識
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-10-12

 下が登ってきたルートの全体写真です。右下から本丸まで登ってきたことになります。


岩櫃城本丸跡の全容   出典:東吾妻町観光協会パンフ

 下は、本丸跡の立て札の隣にあった岩櫃城の由来記です。この岩櫃城がいかに戦国の時代、北関東の拠点として斎藤、武田、真田、出浦などの武将により治められるとともに、変遷していったかが分かります。


岩櫃城由来記 
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-10-12

 下は岩櫃城由来記のテキストです。
 
◆岩櫃城由来記

 吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802m)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。

 城郭の規模は、1.4キロ平方メートルと上州最大を誇り、後ろに甲斐の岩櫃城、駿河の九能尻と並び、武田領内の三名城と称されました。

 その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重鎮真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。

 こうして岩櫃城は武田氏の手に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。天正二年(1574)に隆行が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、昌幸の長男信幸が相続しました。

 その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたと言われています。天正十八年(1590)北条氏の滅亡により、信幸初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重鎮出浦対馬守を城代としました。

 そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康他発した一国一城令(慶長20年(1615))により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。

                                      東吾妻町観光協会


出典:東吾妻町観光協会パンフ

 下はWikipediaによる岩櫃城の詳細です。

 東吾妻町観光協会の岩櫃城由来記の記述と異なるところがありますが、それだけ戦国時代における岩櫃城をめぐる歴史がめまぐるしく変遷していったかが分かります。事実、以下には戦国時代の著名な武将の名が次から次へと出現しています。

◆岩櫃城(いわびつじょう)

 岩櫃城は、現在の群馬県吾妻郡東吾妻町にあった日本の城(山城)。岩櫃山の東側に位置しています。

 岩櫃山の北東に伸びる尾根に位置し、吾妻川の西岸にあたります。また、西は岩櫃山、南は吾妻川へ下る急斜面、北は岩山で天然の要害となっています。

 尾根の西から本丸・二ノ丸・中城などが続き、北東に出丸の「天狗丸」があります。その更に北東には支城・柳沢城(観音山城)が位置しています。 北方の盆地には、東の吾妻街道から渓谷沿いの隘路でのみ繋がる平沢地区があり、岩櫃城は天狗丸・柳沢城とともにこの盆地を守る位置関係を構成しています。平沢地区には根小屋があったとみられています。

 築城年および築城主は不詳です。

 この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わっていますが、伝説の域を出ません。後に助亮系の吾妻氏(前期吾妻氏)は姿を消し、下川辺氏末裔とされる吾妻氏(後期吾妻氏)がこの地を支配しましたが、南北朝時代に南朝方の攻撃で当主行盛が戦死、その子・千王丸は秋間斎藤氏の斎藤梢基に庇護され、山内上杉氏の偏諱を受け斎藤憲行と名乗っていました。

 この憲行に始まる秋間斎藤氏六代の時代に、岩櫃城は築かれたとみられます(『群馬新百科事典』)。 また『加沢記』では、応永12年(1405年)に越前国大野郡にあった斎藤基国の子・斎藤憲行がこの地に入部して築城したとされています。


岩櫃城の全容    出典:東吾妻町観光協会パンフ


岩櫃城の全容

 岩櫃城主となった斎藤氏時代の詳細は、斎藤氏系譜と同様に複数伝わっておりはっきりしていません。

 地元の旧記では吾妻行盛−斎藤憲行−行禅−行弘−行基−行連−憲広(基国)と系譜を伝え、行禅のときに重臣秋間氏の反対を押し切って柳沢城を家臣で娘婿の柳沢安吉に与えましたが、行弘のときに柳沢安吉は反乱を起こし鎮圧されたといい(『原町誌』)ます。

 一方『加沢記』では、憲行の長男・憲実が岩櫃を継ぎ、他の兄弟は分家したのですが、五男・憲基の子孫たる大野氏の勢力が拡大、家臣の秋間氏を滅ぼして宗家・憲実を支配下に置いたといいます。

 その後、大野氏は大野憲直のときに、四男・山田基政の嫡孫で岩下城主・斎藤憲次の反乱によって滅び、岩櫃城は憲次が支配し、その子・憲広に受け継がれたといわれています(『吾妻郡城塁史』)。

 斎藤憲広は上杉氏に属して勢力を拡大しましたが、郡内の豪族羽尾氏と鎌原氏(三原庄)の領地争いに介入(羽尾氏に味方)したことで、両氏の仲介に入っていた信濃国小県郡の真田氏、および真田家の主家である甲斐の武田氏による介入を招くことになります(羽尾氏・鎌原氏・真田氏は共に海野氏系で近い関係にある)。

 永禄3年(1561年)に鎌原幸重が武田家の信濃先方衆である真田幸隆を介して武田家に臣従して、武田氏の後ろ盾を得ています。それに対し、永禄五年(1562年)に斎藤憲広は羽尾幸世など羽尾氏と共に鎌原城を攻略し、鎌原氏を信濃に追い払う事に成功します。

 しかし、程なく鎌原城を奪回されるなど真田勢の攻勢を受け、永禄6年(1563年)には家臣の内応もあって落城、憲行は越後に逃走しました。斎藤氏は憲行の末子・城虎丸が近隣の嶽山城に篭っていましたが、永禄8年(1565年)に落城、斎藤氏の勢力は駆逐されています。

 斎藤氏滅亡によって武田氏の領国支配下に入り、武田家郡代として真田氏が岩櫃城主となり、吾妻郡支配の中心的役割を担うようになって行きました。 そして沼田城が真田氏に攻略されると、その支城として扱われました。武田勝頼が織田信長によって新府城を追われた(甲州征伐)ときに真田昌幸は勝頼に逃れてくるよう奨めたが叶わず武田氏は滅亡します。(註(青山):これが郷原側に石垣が残る潜龍院です)

 その後も真田氏は生き延び豊臣秀吉に属し大名として存続しました。江戸時代、徳川氏の時代になると、真田氏もその傘下となります。徳川幕府よる一国一城令により、慶長19年(1614年)に廃棄されています。

築城時期の研究

 斎藤氏が築城というが、斎藤氏の根拠地としたのは岩櫃城西方3kmにある岩下城だとされています。「関東幕注文」のなかに斎藤氏が岩下衆として記載されており、衆の名は旗頭の武士の居城名を取ることから、当時の斎藤氏の居城は岩下城とみるべきか(『中之条町歴史民俗資料館常設展示解説図録』)。

 「岩櫃城」の語は、「加沢記」以外では永禄7年以前に見えず、武田氏が嶽山城との軍事的緊張の中で岩櫃城を取り立て拡張したとみられます(齋藤慎一「上野国岩櫃城の空間構成と変遷」『中世東国の領域と城館』、齋藤慎一、吉川弘文館、2002年)。

 岩櫃城は真田氏による築城だとする説もあります。ただし「岩下城」が岩櫃城のことを指したのではという見解もあります(関東地方の中世城館)。

出典:Wikipedia


つづく