メアリー・ステュアートの足跡を追って スコットランド2200km走破 ローマ帝国時代のスコットランドを行く1 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2017年12月10日公開予定 独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁 |
スコットランド総目次へ ハドリアヌスの長城 ローマ帝国時代のスコット1 ローマ帝国時代のスコット2 ローマ帝国時代のスコット3 ハドリアヌスの長城のカフェ ◆ローマ帝国時代のスコットランド スコットランドの歴史は先史時代にさかのぼりますが、ここでは、文字の史料があるスコットランドの時代、すなわちローマ帝国のブリタニア侵攻から始めてみたいと思います。 ローマ帝国のブリタニア侵攻は、有名なローマ帝国がブリテン島侵攻時代にさかのぼります。ブリテン島とは、現在、スコットランドやウェールズ、イングランドがあるグレートブリテン島と呼ばれている島です。 ところで、ローマ帝国がスコットランドやイングランドに侵攻、支配していた時代の遺跡、史蹟はブリテン島には沢山存在しています。 今でも<ハドリアヌスの長城>の大部分はスコットランドとイングランドの境界線上に存在し、世界遺産として保存されている。遺跡は誰でも見学でき以下のように写真も自由に撮影できます。 <参考ブログ> ※ 青山貞一・池田こみち:ローマ皇帝・ハドリアヌスの長城 以下は先のハドリアヌスの長城と重なり合う部分があります。 ◆ローマ帝国のブリテン島支配 参考出典:Wikipedia ローマ帝国のブリテン支配以前のスコットランドを伝える唯一の史料は、紀元前325年にマッサリア、現在のマルセイユのギリシャ人ピュテアス(Pytheas)によるブリテン島探検の手記だけでです。 ローマ帝国のグレートブリテン島(現在のイギリスが存在する島)への侵攻は、紀元43年に始まります。 ローマ軍はイングランドにあたるグレートブリテン島南部地域を征服したのち、将軍グノイウス・ユリウス・アグリコラは西暦79年、グレートブリテン島北部のスコットランドに侵攻しました。 カレドニア(スコットランドの先祖)の先住民たちは激しい抵抗をみせました。しかし、ローマ帝国は82年〜83年に艦隊をスコットランド北部のオークニー諸島にまでスコットランド沿岸に展開して威嚇し、84年のモンス・グラウピウスの戦いでスコットランドの先住民であるカレドニア人を破ったのです。 そしてアグリコラ将軍の部下たちは、グレートブリテン島全土の平定を宣言しました。その後、約300年にわたってローマは当地を支配しつづけることになります。 さらに、300年の間に、ローマは防御線を建設し異民族からの防御をかためました。最古のものはパースシャーのガスク・リッジとよばれるもので、70年代から80年代にかけて建設されたと考えられています。 120年代、ローマ皇帝ハドリアヌスは、タイン川からソルウェイ河口にかけて、ハドリアヌスの長城の建設を命じました。 ※ 青山貞一:ローマ皇帝の歩いた道〜末路を見つめたハドリアヌス ◆ハドリアヌスの長城を行く 私たちは、下の地図の西端にあるカーライルから東端のニューキャッスルまで半日かけ視察しました。このルートがほぼスコットランドとイングランドとを隔てる国境線となります。 ハドリアヌスの長城の位置(カーライルからニューキャッスルまで) 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25 以下はカーライルからニューキャッスルに直接向かった場合の距離と所要時間です。距離は59.1マイルとあります。 出典:グーグルマップ プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスの誕生 出典:NHK「ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス」 20年後、ブリタンニア総督ルリウス・ウルビクスがアントニヌスの城壁と呼ばれる長城を、さらに北に建設しました。 下図にあるようにアントニヌスの城壁はハドリアヌスの長城の半分の長さしかなく、その短さが防御に適していると考えられていたのですが、結局その防御線を維持しえたのはわずか20年にすぎなかったのです。 アントニヌスの城壁の右端は現在のスターリングに近い位置の湾奥であり、エジンバラにも近いといえます。 アントニウスの長城とハドリアヌスの長城の位置 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 つづく スコットランド総目次へ |