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旧中山道、信州 宿場探訪

追分宿 本陣・高札場

(軽井沢町)


青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

May 15, 2015
Alternative Media E-wave Tokyo
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 私達は郷土館を後に、旧中山道沿いにあります本陣跡と高札場跡に向かいました。




◆本陣跡
 
 追分宿の本陣は、下の写真のようにまったく残っていません。わずかに石垣の上に本陣とあるのみです。

 左隣に高札場があります。


追分宿 本陣跡 左側は高札場です
出典:グーグルマップ・ストリートビュー

 追分宿の本陣については、現在の後述する堀辰雄記念館前に移築しています。下はその堀辰雄文学記念館の前(本陣の門)です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-5-6

  旧中山道沿いに以下の本陣の見取り図やかずかな解説があります。

◆追分宿本陣門(裏門)

本陣跡


追分宿本陣の開設  出典:軽井沢町教育委員会
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6

 追分宿の本陣は歴代土屋市左衛門を世襲しました。

 追分が宿場の機能を持つのは慶長7年(1602年)中山道の伝馬制度を徳川家が整備した以後です。

 本陣文書に「定路次駄賃之覚」(慶長7年6月10日)の記録があり、本陣が問屋を兼ね、宿継(しゅくつぎ)、伝馬人足の継立ても生業としていたと記されています。

 本陣の建坪は238坪あり、中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に次ぐ大きな宿泊設備を整えていた本陣でした。

本陣門の移築

 明治11年9月、明治天皇の北陸御巡幸により追分宿本陣が行在所として明治天皇に使用されるが、明治26年に信越線が全線開通すると追分宿を利用した宿継ぎの荷駄・旅人は他の交通手段に代わり、宿場としての機能を失う。本陣は明治の末期頃、追分宿に近い御代田町塩野地区の内堀家表門として移築される。内堀家では追分宿本陣の門として大切に扱い、門に覆屋をかけ約100年間の間、内堀家の門として役目を果たしてきた。

 内堀家においては、本陣門が軽井沢町の歴史遺産である事をご理解され、平成17年に内堀家(当主の内堀志通彦氏)より軽井沢町へ寄贈された。

軽井沢町の歴史的建造物『本陣「門」』

 軽井沢3宿の内、本陣の遺構を残し面影をたどれるのは追分宿に限られる。追分宿本陣の門(裏門)は宿場に残る歴史遺産として、軽井沢の宿場(江戸)文化を学び伝えてゆく貴重な建築文化財であることを考え、追分宿の往時をしのび、過去・現在・未来を通して、宿場を語るシンボルとなる様、軽井沢町・軽井沢教育委員会は、旧中山道に面したこの地に本陣「門」を移築する。

門の構造(追分宿郷土館に展示)

 材料はすべて欅材 一間冠木付き門・切妻造(桟瓦葺)・妻蟇股・二軒繁垂木・背面控柱。
 棟札..維持 天保二 辛卯仲秋二十四日 ・大工 越後国 片桐伴と銘記され建築年
と大工の棟梁名が分かる。(追分郷土館に展示)

 下はその見取り図です。非常に大きな建築物であったことが分かります。


追分宿本陣の見取り図  出典:軽井沢町教育委員会
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6

 下は本陣の部屋割りを示しています。基本となる八畳間が10以上、10畳がひと、12畳が二つ、そして20畳の広間がひとつ、20畳の折廻がひとつあります。

 それ以外に多くの土蔵、土間、湯殿、勝手、物置、納戸などがあります。


追分宿本陣の見取り図  出典:軽井沢町教育委員会
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6

 旧中山道沿いに面影を残す建物もあります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6


◆高札場

 高札場とは、法度・掟書を掲げた板札で、庶民の間に法令を徹底させるためのもの。昭和58年に復元され、当時の面影をしのばせています。





撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-5-6


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6

 高札場は、法度、掟書を掲げた板札で、幕府が庶民の間に法令を徹底させるものでした。

 昭和58年に復元され、当時の面影を偲ばせています。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6

定(さだめ)

 一、毒薬ならびに似せ薬種売買の事禁制す。若し違反の者あらば共罪重かるべし。たとい同類というとも申し出るにおいては、其罪を許され急度御褒美下さるべき事。

 一、似せ金銀売買一切は停止す。若し似せ金銀あらば金座銀座へつかわし相改むべし。はづしの金銀も是又金座銀座へつかわし相改むべき事。

 附−−
 
 惣して似せ物すべかざる事。

 一、寛永の新銭金子壱両に四貫文、壱歩には壱貫文たるべし。御料私料共に年貢収納等にも長田目のごとくたるべき事。

 一、新銭の事銭座の外一切鋳出すべからざる事。

 一、新作のたしかならざる書物売買すべからざる事。

 一、諸職人いい合わせ、作料・手間賃等高直にすべからず。諸商売物或いは一所に買い置き、しめうり(占売り)し、或はいい合わせて高直にすべからざる事。

 一、何事によらず誓約をなし徒党を結ぶべからざる事。

 右条の可相守人若し於相背は可皮行罪科者也。

 正徳元年五月日
             奉行


影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6

農商へ布告

 此度東山道鎮撫総督ノ勅命ヲ蒙リ発向・次第ハセンタッテ朝廷ヨリ御触モアラセラレ候通ニ候ヘ共遠國偏土ニ至テハ自然行キ届キカネ候 ヤモ計リ難キニ付 尚又 諸国・情実ヲ問イ万民塗炭・苦ヲ救イナサレ度キ叡慮ニ候間 各々安堵シ渡世致スベク候

尤モ是迄(占にしんにゅう)天領ト稱シ耒リ候徳川支配地ハ勿論 諸藩領分ニ至ル迄(占にしんにゅう)年耒苛政ニ苦シミ罷リアリ其外子細コレアル輩ハ遠慮ナク本陣ヘ訴エ出ズベシ。

僉議ノ上公平ノ処置ニ及ビ候間心得違コレナキヨウ致スベク候事

戌辰  東山道鎮撫総督
正月  同 副総督


影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6


高札

追分宿高札場

 追分宿の高札場は、問屋前の路中央にありました。法度、掟書きなどを記しました。またさらし首、重罪人の罪状を記し、高く掲げた板札を高札と言います。

 寛永10年(1633年)の古文書によると、広さ9尺、横一間、高さ三尺の芝土手を築き、高札場の柱は5寸角のものを使用し、駒よせ柱は4寸角で、高さ6尺の規模であったとされています。

 昭和58年、当時の古文書などから、高札場を復元しています。

 ここに掲示してある高札は、複製品で現物は追分宿郷土館に保管展示されています。

 軽井沢町教委育委員会、軽井沢町文化審議委員会


出典:グーグルマップ・ストリートビュー


◆浅間神社

 高札場の左隣に浅間神社があります。



 泉洞寺の本殿は流造となっており、海老虹梁・宝珠の造りが見事で木鼻(象鼻)の出っ張りが室町時代(1394〜1427)の様式を残しています。 これは軽井沢町指定の文化財です。

 下は旧中山道から見た浅間神社の鳥居です。


出典:グーグルマップ・ストリートビュー


つづく