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中山道、信州 宿場探訪

旅籠の全体総括

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

May 15, 2015
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信州 宿場探訪 (中山道 和田宿編)
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◆旅籠 全体総括

旅籠(はたご)とは

 旅籠は江戸時代、旅人を宿泊させ、食事を提供することを業とする家のことです。旅籠屋(はたごや)の略となっています。

 旅籠という言葉はもともとは旅の時、馬の飼料を入れる籠(かご)のことでした。それが、旅人の食糧等を入れる器、転じて宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋のことを旅籠屋、略して旅籠と呼ぶようになったのです。


歌川広重『東海道五十三次 赤坂』

 江戸時代の街道には宿場ごとに多くの旅籠があって武士や一般庶民の泊まり客で賑わっていました。次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠に別れてゆきました。

 然し、明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれたり、駅前に移転するところが相次ぐようになりました。現在でも、旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは数えるほどしかありません。

 混雑時には相部屋が求められ、女性の旅客は難儀をしたとされています。旅籠の宿泊代は概ね一泊200〜300文(現在の貨幣価値で3000〜5000円程度に相当)程度が一般的だったようです。

出典:Wikipedia

 以下は、かわちや資料館にて学芸員の方から伺った内容を池田こみちがメモしたものです。

 皇女和宮は十五歳で江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室となるため、京都から江戸に向かった。その当時、すでに勢力が衰えてきていた将軍家と皇室を合体(公武合体)させることにより、再び世間の耳目を集め、徳川将軍家の勢力を強めようとしたものだったが、その思惑は必ずしも成功したわけでは無かった。

 皇女和宮は徳川に嫁ぐことが決まる前、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約しており、突然の徳川家への嫁入りはその後の彼女の運命を大きく変えることとなった。

 その年の三月に和田宿では、ある家の灰の不始末から出火し、風下一帯が焼失する大火災となって村が消滅した。しかし、その時点では、既に皇女和宮が中山道を江戸に向かって旅することになっており、江戸幕府は今の為替価値に換算して2億円くらいの資金を村に援助し、その年の11月の和宮の到着までに宿場を再生するように求めた。

 宿場は幕府からの資金援助を受け突貫工事で宿場の再生を行った。大工、左官、畳職人などが全国から集められて材木も遠方から運ばれた。

 本陣、脇本陣、問屋など、宿場に必要な施設が整備され、京都から同行する公家のための旅籠(かわちや)が用意された。公家が泊まらない時には武士や商人なども利用することができたが、一般の旅籠に比べて2〜3割高め(8000円程度)であったと思われる。

 公家用の旅籠の八畳間の畳の敷方は現在の座敷と同じ様式だが、武士用の旅籠の八畳間は一方向に四枚ずつ二列に敷く様式となっている。それは、将軍に向かって主従が明確になるような敷方であり、奥行きを出す上では有効な畳の敷方となっていた。

 公家用の高級旅籠では、一般客と公家客の入口を分けており、公家用には広い門と玄関までの敷石、履き物を脱ぐための石段などを設け、差を付けていた。

 原則として、旅籠は1泊以上は出来ないルールとなっていた。連泊が許されるのは、病気などで動けない場合などに限られた。夕食と朝食の二食付きで一般の旅籠は5000円程度とされ、高級旅籠は8000円程度と言われていた。

 旅人は、米(干飯)や雑穀などを入れた籠を肩に提げ、旅行をした。原則として個室はなく、二階の板張りの部屋には大勢が入れられ、ついたてなどの仕切りをして区切った。二階の部屋の窓には狭い格子が入れてあり、客に逃げられないようにしている。

 旅籠には、女性(接客のための)は一般的にはいないのが通例だが、次第に、飯盛り女と言って、宿泊客に食事を運んだりサービスする女性が泊まり込むようになっていった。かわちやにも六名〜八名が泊まり込んでいたとされている。

 大黒屋(旅籠)にも飯盛り女が数人泊まり込んでおり、夜になると、小便を入れるための手桶を持たされ二階の部屋に閉じ込められ階段を外して締め切り、逃げるのを防いだと言われている。

 彼女らは地元の貧しい家の子女で口減らしのために働きに出されたと言われている。彼女らがいることが旅籠の売り上げに寄与したと考えられている。

 旅籠の主人一家は、奉公人も含めて八人程度であったと言われている。主人の家族は、二階に居住していた。

 二階に上がる狭い急な階段は、引き出し付きの引き上げ階段となっており、大切なものを仕舞って、階段を天井に引き上げし舞えば泥棒などからも見つからないという利点があった。


 以下はWikipediaからの引用です。

◆飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)

 近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場にいた、奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼です。その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者[注釈 1]も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではありません。

 また「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女」と表記されています。

 17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達しました。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いていました。

 もともと遊女を置いていたのを、幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したという説もあります。また、宿駅間の客入りの競争が激化し、下女が売春を行うようになったという説もあります。

 当時、無償の公役や商売競争の激化により、宿駅は財政難でした。客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めていました。

 一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府でしたが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなったのです。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いでいました。

 1772年には千住宿、板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の制限をかけています。

 また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用していました。料理屋は博徒など無法者の集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすいのです。

 その一方で、目明かし(岡っ引)などが料理屋に出入りし、公権力との関わりをもっていました。この料理屋には飯盛女が雇用されていましたが、これは公権力への貢献のために黙認されていたと考えられています。


神奈川県は藤沢市の永勝寺境内にある、飯盛女の墓。藤沢宿の旅籠小松屋が建てたものである
 

出典:Wikipedia
 

つづく