解説:中印国境紛争の場所と経緯 青山貞一 (東京都市大学名誉教授) 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年7月11日 |
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米報道は、安定した中国・インドの国境緊張を煽る意図あり はこちら 本文 ここでは、中印国境紛争の場所と経緯 について概説する。 同じBRICS(ロシア・中国・インド・ブラジル・南アフリカ)にいながら、何かと中国とインドの関係がギクシャクしている理由のひとつは、いうまでもなく中印国境紛争と呼ばれる、中国とインドの南西部の国境における領土問題がある。最近では米国主導のクアッドにインドが駆り出され中国を想定した日本の九州での軍事にインド軍が参加している。 ここでは、中印国境紛争は何か、その歴史的経緯について概説した後、当該地域の自然と景観をギャラリーでお見せしたい。この地域はヒマラヤ山脈の一部に属し、稀有で秀逸な自然と景観が連続パノラマが存在しており、早く紛争を解決し、世界中の人々に、そのパノラマを見せて欲しいものである。 中印国境紛争地域について 以下は、中国とインドを示す。赤色が中国、濃い緑色がインドである。このうち、中印国境紛争は、中国とインドの国境が接する部分は、南西部(地図中、左下のインド北部)を指す。 ここには、白地で左からネパール、その東隣りにブータンという独立国がある。ネパールとブータンの間に隙間があり、現在インド領となっているシッキムがあるが、ここはもともとシッキム王国というインドの保護国があった。 中印国境:Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる 次に中印国境紛争地域を示すが、国境紛争は、主に西側のカシミールとその東隣のアクサイチン、およびラダック・ザンスカール・バルティスターンの全体として西側地域と、ブータンの東側東北辺境地区(後のアルナーチャル・プラデーシュ州)で激しい戦闘が繰り広げられてきた。 以下に中印国境紛争地域の概略的な位置を示す。いずれもヒマラヤ山脈地域にあることが分かる。 中印国境紛争が起きている(起きていた)主な場所・地域 出典:グーグルマップより青山が作成 中印国境紛争の経緯 かつての中華民国と長年英国の植民地であったインドは、途中にネパールとブータンを挟んで長く国境を接していた(以下の地図参照)。これらはほぼ全域がヒマラヤ山脈といった山岳地帯であり、正確な地図もなく、詳細な国境は確定されず、あいまいであった。 ネパールとブータンの位置 出典:グーグルマップ 事実上ダライラマ政権の統治下にあったチベットには、中華民国の実効支配が及ばなかったこともあり、国境については、1914年のシムラ会談において、中華民国は同意せず、チベットとイギリス間において、マクマホンライン(以下参照)等が取り決められた。 注)マクマホンライン(McMahon Line)とは 914年のシムラ条約によりチベット政府と英領インド帝国の間で取り 決められた国境線のこと。英領インド帝国の外務大臣で、交渉の全 権代表を務めたヘンリー・マクマホン卿の名前から付けられている。 設定された境界線は、ヒマラヤ山脈の稜線のブータンからビルマ国 境まで約890㎞。この国境線は、インドは合法的国境としているが、 中華人民共和国は違法なものとしている。 その後、中華人民共和国が1949年に建国され、1950年にチベットに侵攻、非社会主義圏の国としては、インドはビルマに次いで中華人民共和国を国家承認し、最初に大使館を設置した国となった。 1954年に「ヒンディ・チニ・バイ・バイ」(中国とインドは兄弟)を掲げたネルーと中華人民共和国の周恩来は、ともに領土主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存の5つからなる「平和五原則」を掲げた。 だが、1956年にチベット動乱が起き、1959年にダライ・ラマ14世のチベット亡命政府がインドに亡命することになると、中国とインドは、両国の国境の解釈をめぐって対立するようになった。 1959年10月にはコンカ・ラ付近で中印両軍兵士による銃撃戦(コンカ・ラ事件)があり、両国間の緊張が高まった。 その後、主にカシミールとその東部地域のアクサイチンおよびラダック・ザンスカール・バルティスターン、ブータンの東側東北辺境地区(後のアルナーチャル・プラデーシュ州)で激しい戦闘となったが、中国人民解放軍の圧勝で終わった。 インドの保護国だったシッキム王国では、ナトゥ・ラ峠を挟んだ地域で小競り合いが起き、峠の西側は中国となった。シッキムの位置は以下の地図参照。 シッキムの位置 出典:グーグルマップ なお、1950年代後半より表面化した中ソ対立の影響で、ソビエトはインドを支援していた。また印パ戦争ではパキスタンを中華人民共和国が支援しており、中ソ両国の対立が色濃く影響していた。この紛争は、インドが核兵器開発を開始するひとつのきっかけともなった。 2003年、アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー首相は中国を訪問、中国はシッキムをインドの領土と承認する代わりに、インドはチベットを中国領と承認することで、江沢民国家主席と合意した。 2005年、マンモハン・シン首相と温家宝首相の間で「両国が領有を主張する範囲の中で、人口密集地は争いの範囲外」とする合意がなされ、両国にとって戦略上重要とされるアルナーチャル・プラデーシュ州、特にタワン地区は現状を維持している。 注)タワン地区 タワン地区の位置 ブータンの東 出典:グーグルマップ なお現在カシミールの東部地域のアクサイチンは中華人民共和国が実効支配している。日本の学校教育用地図帳では、両国主張の境界線を併記した上で地域は所属未定とする手法がとられている。 注)アクサイチン地区 タワン地区の位置 出典:グーグルマップ 2010年9月2日、インド東部のオリッサ州政府は、同国中央政府の国防関係者の談話として、同国が開発した中距離弾道ミサイル「アグニ2」(核弾頭の搭載が可能)の改良型実験に成功したことを発表した。「アグニ2」の射程は2000キロメートルで、改良型の「アグニ2+」は2500キロメートルである。 注)オリッサ州 オリッサ州の位置 出典:グーグルマップ これまでにインド国防部関係者は「アグニ2」や短距離弾道ミサイルを、中国との国境地帯に配備するとしている]。また、インド政府関係者は2010年3月に発表した国防計画に絡み、「2012年までに、中距離弾道弾による防御システムを完成。対象は中国とパキスタン」と発言した。 2013年4月15日、中国軍は中国側で野営地を設営した。インド軍も中国軍の野営地近くに部隊を派遣しにらみ合いを続けていたが、同年5月5日までに両国が共に部隊を撤収させることで合意し、同日中に両軍とも撤収を始めた。 2017年6月16日、中国軍がドグラム高原道路建設を始めたため、ブータンの防衛を担当するインド軍が出撃する。工事を阻止しようとするインド軍と中国軍はもみ合いになり、インド側の塹壕二つが重機で破壊されている。 注)ドグラム高原 下図のように、ドグラム高原はカシミール、ラダックの西、 パキスタン東部、タジキスタン南部にある地域。 出典:グーグルマップ 以降は工事が停止し、二か月にわたりにらみ合いとなる。同年8月15日インド・カシミール地方パンゴン湖北岸の国境(以下の地図参照)にて中国軍兵士はインド兵士と投石などの小競り合いが起きて両軍兵士達が負傷している。 注)パンゴン湖 下図のように、パンゴン湖は、ラダックの南東にある湖 バンゴン湖の位置1 出典:グーグルマップ バンゴン湖の位置2 出典:グーグルマップ その後両軍は陣営に戻り、以降は沈静化した。同年8月28日にはドグラム高原でにらみ合いの続いている両部隊を撤退させることで合意し、両軍とも部隊を引き上げるとインド当局が発表する。しかし中国外交部は撤退するのはインドのみであり、規模は縮小するものの中警備を継続すると発表している。 2020年5月9日、シッキム州の国境付近で中印両軍の殴り合いによる衝突が発生した。インド紙ヒンドゥスタン・タイムズは、中印軍の総勢150名が関与し、中国側7名とインド側4名の計11名が負傷したと報じている。 2020年7月27日、インド、レディフ・オンラインサイトにおいて、モディ首相は中華人民共和国と「戦争はしたくない」との報道をしており、その後、中国の習近平とモディ首相の会談が行われている。 経緯の主な出典:Wikipedia ◆ヒマラヤ山岳の国と地域を写真で見る 以下は主に中印国境紛争地域を含むヒマラヤ山岳の国と地域についての論考と写真ギャラリーである。 いずれも目を見張る秀逸で稀有な自然環境と自然景観を有する地域である。
以下は上記地域の一例。 ヒマラヤ山岳の国と地域 Source:Wikipedia をもとに青山作成 アルナーチャル プラデーシュ州 (トリップアドバイザー提供) 北シッキムに数百ある湖のうちの一つ。この湖の高度は約5000mである 出典:Wikimedia Commons カシミールのラダック地方の荒涼とした風景。しばしば月の砂漠と称される 出典:Wikimedia Commons チベット高原 出典:Wikimedia Commons チベットのラサにあるポタラ宮 出典:Wikipedia 1646年建設のパロ谷(英語版)のゾン ブータン 出典:Wikimedia Commons ダラムサラ(チベット亡命政府) Source: http://yeahthatskosher.com/2008/12/dharamsala-india/ |