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コトル Kotor
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概要

池田こみち Komichi Ikeda
青山貞一 Teiichi Aoyama
April 2007  無断転載禁
CopyRight:Ikeda K. & Aoyama T.
       
 (1)概要 (2)歴史 (3)景観 (4)建造物 (5)建造物 

はじめにーなぜコトル(Kotor)か

 本都市国家シリーズでは、世界の「都市国家」や「城壁都市」そして「自由都市」についてその歴史、文化、行政、立法、市民自治などを概観する。

 第二回目は、昨年(2006)6月3日、わずか60万人の人口規模でセルビア・モンテネグロから独立したモンテネグロ共和国アドリア海側のコトル湾奥にある古都そして世界遺産(1979)、コトルKotorである。

 私たちが都市国家研究を進めて行くなかで、クロアチアのドブロブニクを調査の対象としたとき、グーグルアースでアドリア海を検索して行くなかで、コトル湾奥のコトルに出会った。


コトル旧市街のカテドラルの前での筆者。
アルバニアから来た観光客が撮影してくれたもの。


 上空からの衛星映像だけでは、コトルの様子は分からなかったが、その後、グーグルの英文版で検索調査をして行くうちに、モンテネグロ、すなわち黒い山とコトル湾奥という地形上の特異性に加え、中世から城壁を持った都市国家をモンテネグロで構築してきたこと、中世以降多くの外敵からの攻撃に耐え、ひっそりとしかし誇りを持って自らの都市国家を持続させてきたことも分かった。
 
 さらに中世からこの都市国家は裁判制度、議会、行政など都市の統治システムでも得意な発展をとげている。

 ドブロブニクのような華々しさはないものの、本都市国家シリーズの重要な地域としてコトルを選定した。


衛星画像で見たコトル(右下の地域)画像処理は青山貞一


コトル湾奥の都市国家、コトル、グーグルアース衛星画像を3次元立体展開
画像処理は青山貞一


■都市国家 コトルの概要

 コトルはコトルスカ湾(Boka Kotorska Bat)の奥に位置する城塞都市であり中世の都市国家とし有名である。他の城塞都市と同様に、統治する君主が存在した。

 そして、君主とともに国家を統治する議会(大議会:Great Councilと小議会:Minor Council)がふたつ存在した。大議会には大勢の貴族が参加していたが、小議会は執行機関として君主(Prince)と12名のメンバーで構成されていた。小議会はまた、官僚の任命を行っていた。

 1372年以降には被征服議会(Council of the Convicted)といったものまで設置されていた。(ハンガリー・クロアチア王ルドヴィック一世が支配を始めた頃)大議会の権力の一部がこの議会に移管されたという記録もある。

 また、この都市には裁判所も設置されており、君主と3人の裁判官で構成されていたという。そして裁判は公開で行われていた。(議会のメンバーだった)貴族たちは都市のなかで権力を維持していたが、彼らは、他のコトルの貴族たちとは別に、ドブロブニクにおいても同様の地位を確保し、都市の統治(管理)に携わっていた。

 この都市国家は、紀元前3世紀から紀元前168年までイーリア人が支配し、476年に西ローマ帝国によって亡ぼされるまでローマ人が支配してきた。

 その後もコトルは、その歴史の中で各国・各地域勢力により何度となく包囲され攻撃されてきた。



 中でも最も執拗に攻撃したのはトルコ(オスマントルコ、オットーマン)であり、コトル湾全体を支配下に収めようとしたのである。

 コトルの支配するということは、当時地域(モンテネグロ、ヒルズ、ヘルゼゴビナ、アルバニア)に及んでいたベネチアの政治的な力を取り除こうとするものである。これらの地域はオスマントルコに対抗していた地域である。

 最も危機的な包囲網は、1657年の攻撃であった。Mehmed-pasha Varlac ofShkoderは5000人の兵をもってまちを攻撃し周辺の丘陵地を射撃場として支配下においた。これに対してコトルは1000人の兵とコトール市民、周辺地域の住民等も加わって対抗した。

 この戦いで、オスマントルコ軍は苦戦を強いられ、結局2ヶ月あまりの支配の後、撤退したのである。

 ほぼ2000年余にわたり、さまざまな勢力、権力によって支配されてきたコトルは、まさに静かなコトル湾の奥にありながら、ドラマチックな歴史に翻弄されてきたと言っても過言ではない。

 しかし、中世の城塞都市コトルは列強の支配を受けながらも、どちらかと言えば自由に都市の経営と管理を行うことによってその地位を確立してきた。

 時代が進むにつれ、都市の政治や行政は次第にその自由・自立の精神を失っていくがそこに暮らす市民たちは、引き続き自分たちの都市への忠誠心と帰属意識を持ち続けたのである。

■コトルの成文法

 さまざまな権力によって統治され続けてきた。

 都市国家コトルの独立性を示すひとつの証拠として「コトルの成文法(Statute of The Town of Kotor)」が残されている。

 この成文法は、1616年にベニスで印刷されたものである。

 その中には、選挙に関する規定・条項のほか、都市の行政に係わる様々な公的な立場の人たちに関する条文も含まれていた。すなわち、役人・官僚や裁判官、公証人、医者、薬剤師、教師などがそれらの対象となる。

 また、この成文法には、都市国家コトルにおける生活と周辺環境についても記述している。最も古い成文法の策定は、1301年に遡る。

 次々に様々な異なる政治・統治がこの都市国家を支配してきたが、海運業や海洋関連貿易事業などとともに、コトルは多くの文化が出会い交流する場として反映し続けたのである。

 ヨーロッパ文化を受け入れただけでなく、東西の文化様式を柔軟に受け入れ独自の文化を発展させてきた。

 また、コトルはカソリック信者と正教信者の両方の宗教的な暮らし文化を受け入れ多様な精神文化交流の場として花開いたのである。

 コトールは現在、UNESCOの文化・自然遺産として登録され、世界各国の観光客を集めている。

 出典/参考資料:KOTOR CITY GUIDE, by Stevan Kordic, 2005


つづく