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(1)概要 (2)歴史@ (3)歴史A (4)景観 (5)建造物 (6)建造物 (7)城壁 (8)再生・修復 (9)自由・自治 ■旧市街の歴史的建築物とランドマーク(1) ここでは、ドブロブニク旧市街(Dubrovnik Old Town)の歴史的建築物とランドマークを現地で撮影した写真をもとに解説しよう。 |
以下は上の地図の凡例である。
1.ピレ門 旧市街地の中心より少し上を東西に走るメインストリート、プラツァ通りの西端にピレ門(写真上)がある。この門は14世紀から16世紀にかけ構築された。ピレ門は、海側からの敵の攻撃を避けるだけでなく、陸側からの攻撃にも備えるためにさまざまな城壁、要塞、砦の構造が取り入れられている。それらの大部分は今なお残存しており、ドブロブニク旧市街の大きなシンボルとなっている。 1.ピレ門 ピレ門のエントランスにて。とら猫をあやす地元の子供たち。 1.ピレ門 ピレ門の入り口にて。筆者 以下は、ピレ門を外敵から守るポーカー砦。15世紀に構築されている。 17.ポーカー砦 勇壮なピレ門をくぐると、すぐのところに、有名な噴水(泉)がある。この噴水は、ドブロブニク旧市街の際だったランドマークとなっている。 3.オンファリオ大噴水 この大きな噴水は、オンファリオ大噴水という。1438年にイタリアのデザイナーであるオンフォリオ・デラ・カーバによってつくられたことからその名がついた。噴水の水源は、近くを流れるドブロファチカ川でる。 噴水には下の写真のように、いくつものレリーフ状の彫刻がある。
噴水の横からドブロブニク旧市街のメインストリート、ストラダン、通称、プラツァ通り(Placa)が広がる。このフラツァ通りは、ドブログニクのシンボルであり、ウエッブカメラにより24時間世界に配信されている。 下の写真は、ドブロブニク旧市街のメインストリートであるプラツァ通りである。ドブロブニク旧市街は、降った雨がプラツァ通りに集まるようになっている。道路の面には、2本の長い雨水排水のクボミがある。さらにそれらは道路の傾斜を利用し、海に配水されるようになっている。また雨水排水とは別に、ドブロブニク旧市街には15世紀までにいわゆる下水管が整備されていた。 今回の視察では都合3日間、ドブロブニクを視察したが、旧市街で下水やオワイの悪臭を嗅ぐことは一度も無かった。数年前、東京の品川駅前の高輪4丁目に私たちの株式会社環境総合研究所の事務所があったとき、高輪地域をあるくとオワイの臭いがしていた。 これひとつをみても、ドブロブニク旧市街の都市基盤整備がすぐれたものであるかが分かる。 5.プラツァ通り ドブロブニク旧市街のメインストリート、プラツァ通り(Placa) 5.プラツァ通り
下は、ドブロブニク旧市街の外側でピレ門の近くにあるロピリィエナッツ砦(Fortless)である。この砦は市街を約37mの堅い岩により守ってきた。 2.ロピリィエナッツ砦 以下はピレ門側から見たロピリィエナッツ砦。 2.ロピリィエナッツ砦 ピレ門をくぐってすぐ左側に、下の写真にある中庭を持ったフランシスコ会の教会と修道院がある。 4.フランシスコ修道院 フランシスコ教会は、17世紀に絢爛豪華な内装がほどこされている。 下はそのフランシスコ会教会への入り口。入り口の上にピエタの彫像がある。彫像は15世紀にレオナルドとペーター・ペトロビッチ兄弟により制作されたとされている。 4.フランシスコ会修道院入り口にあるピエタの彫像 フランシスコ会修道院で特筆すべき建造物は、1360年、クロアチアの地元の建築家、ミホイエ・ブラィコヴによって設計されたルネッサンス様式の中庭である。この中庭には、15世紀に庭園と噴水も追加され、現在、見ることが出来る。 4.フランシスコ修道院の中庭 4.フランシスコ会修道院の中庭 フランシスコ会修道院の建築物の一部が古い薬局がある(下の写真参照)。この薬局は1317年に開業されている。数ある欧州の薬局のなかでも屈指の古い歴史を持った薬局であり、ドブロブニクの高い福祉、医療レベルを伺わせる。現在でもフランシスコ会修道院の入り口近くに、博物館ではなく、薬剤師を置いた薬局があり、ドブロブニク市民に薬を提供している。 4.フランシスコ会修道院内部にある薬事博物館 4.フランシスコ会修道院内部にある薬事博物館の写真(上の写真は実物) 下は改修中の聖ブラホ教会である。聖ブラホは、ドブロブニクの守護神である。聖マルコがベニスの守護神であったように、ドブロブニクでは、守護神ブラホの彫像、レリーフ等がまちにあちこちにある。 聖ブラホ教会は、バロック様式の建造物で1715年にイタリアの建築士である、マリン・グロッペによって設計,施行されている。 7.聖ブラホ教会 この教会の特徴は、以下にあるように、教会の正面玄関の幅広い階段にある。毎年2月3日が聖ブラホ守護神を記念した祝日がある。 今回の視察時、この聖ブラホ教会は改修中だが、普段、この階段はこの地を訪れた人々の憩いの場となっている。 なお、この聖ブラホ教会には、聖ブラホが大地震が起きた1667年以前のドブロブニク市街の模型を手に持った像が設置されている。残念ながら今回は改修中で見れなかったが、そのレプリカはドブロブニクの土産物のなかにもみてとれる。 7.聖ブラホ教会 プラツァ通りを挟んで聖ブラホ教会の反対側には、1516年に地元の職人であるパスコィエ・ミリチェビッチとアンドリィッチ兄弟によって設計されたスポンザ宮殿がある。このスポンザ宮殿は、中世時代、ドブロブニク共和国(ラグーサ共和国)の商業貿易、交易の場として使われた。さらに16世紀には、学者、科学者、知識人が集まる場でもあった。この時期、ドブロブニクで最初の文学協会が設立されている。 このスポンザ宮殿に隣接し、1444年につくられた鐘楼がある(下の写真参照)。さらに鐘楼に隣接し、同年、31mの高さからなる時計台もつくられた。実際に鐘がおかれたのは、1509年で地元の有名な鐘職人である、イヴァン・ラブリィヤンにより鐘がつくられ設置された。この鐘楼は今でも緊急時や時刻を市民に知らすために使われている。 8.スポンザ宮殿(左の建築物) 8.スポンザ宮殿エントランス 以下はスポンザ宮殿内部の中庭である。この中庭のアトリウムのアーチには、天秤がつるされており、そこにはラテン語で「我々の権力はウソや欺瞞によって誇示されるべきではない。商品の荷を量るときは、我々の神、そのものをはかっていると考えるべきである」と意味した文章が掲げられている。 8.スポンザ宮殿(内部) 時計台の並びに、中世のドブロブニク(ラグーサ)共和国時代の共和国大会議そして共和国統領の宮殿、レクター宮殿がある。これらゴシック・ルネッサンス様式の一大建築物は15世紀につくられたが、大火災で一端焼失し、その後、現在までに寸分違わず復元された。 6.レクター宮殿(右側の建築物) 6.レクター宮殿:出展:資料映像 このレクター宮殿は現在、ドブロブニク歴史博物館として公開されており、当時の都市国家の立法、行政の面影を見ることができる。 6.レクター宮殿内部。ひとの手の形をした有名な手すり。 6.レクター宮殿 現在は歴史博物館となっている 6.レクター宮殿 現在は歴史博物館にあるブラホ像彫刻 参考・引用文献 ・ドゥブロブニク、Zagreb 2001 ・Annabel Barber, Visible Cities Dubrovnik, 2006 ・Dubrovnik in History, 2006 つづく |