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チェコ・スロヴァキア・ハンガリー短訪

歴史的背景

鷹取敦

掲載月日:2018年12月26日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


内容目次
  1 歴史的背景
8/11-13 チェコ・プラハ 2 プラハ | 3 フラッドチャニ・プラハ城 | 4 ロレッタ教会からカレル橋
| 5 ユダヤ人地区 | 6 旧市街地
 8/13-15 スロヴァキア・ブラチスラヴァ 7 旧市街・ブラチスラヴァ城 | 8 旧市街地・ドナウ川
8/15-17ハンガリー・ブダペスト、
エステルゴム、センテンドレ
9 ブダペスト市街地・王宮の丘
10 エステルゴム・センテンドレ・ドナウ川ベンド

 昨年(2017年)8月にはミュンヘン、オーストリアを訪れました。オーストリアを訪れた理由は、オーストリアが2015年、2016年に訪れたスペインとハプスブルク家という存在を共有しているからでした。オーストリアの東側に隣接しているチェコ、スロヴァキア、ハンガリーもまたハプスブルク家の所領であり、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国の領土となりました。

◆鷹取敦:ミュンヘン・オーストリア短訪(2017年10月掲載)
http://eritokyo.jp/independent/takatori-austria2017/01.htm

 チェコとスロヴァキアはスラブ系民族、ハンガリーはマジャル人が主要な民族であり、西ヨーロッパの主要民族ゲルマン系民族、地中海地方のラテン系民族とは異なります。またこの地域は多様な民族がより混在しているところでもあります。今年(2018年)8月はこの3カ国を訪れました。

 チェコはドナウ川に接していませんが、オーストリア、スロヴァキア、ハンガリーはいずれもドナウ川流域の国家です。


ドナウ川
出典: Wikipedia Commons

 神聖ローマ帝国最後の王朝であるハプスブルク家の皇帝フランツ2世は帝国を解散し、自らの家領である(おおむね現在の)オーストリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー等をオーストリア帝国とし、自ら戴冠してオーストリア皇帝フランツ1世となっています。

 ハプスブルク家の領土すなわちオーストリア帝国は、解散当時の神聖ローマ帝国の領土とおおむね同じくらいの広大なものでした(下図参照)。

●帝国領と皇帝の家領

 スロヴァキア、ハンガリーはハプスブルク家の所領ではありましたが、神聖ローマ帝国の領土に含まれたことはありません。

 皇帝というのはいわば「役職」です。ハプスブルク家は「事実上」帝位を世襲していましたが、制度としては代々の皇帝(戴冠する前のローマ王)は選帝侯によって諸侯の中から選挙で選ばれていました。

 そのため帝国の領土とハプスブルク家の領土がこのように異なった範囲となりうるのです。(なお、建前としては神聖ローマ帝国は西ローマ帝国の再興であり、西ヨーロッパの諸侯には皇帝候補となる権利があります。実際、フランス王が皇帝候補に推薦されたこともありました。)


左が1806年(解散時)の神聖ローマ帝国、右がオーストリア帝国の領土
※左図の白線は現在の国境、右図の白線は当時の国境
左図出典:神聖ローマ帝国の時代別領土(Wikipedia Commons)
右図出典: オーストリア帝国の領土(Wikipedia Commons)

 まずはチェコ、スロヴァキア、ハンガリーの歴史を、同時代における相互の関係をみながら振り返ってみたいと思います。

■ローマ帝国

 ドナウ川の右岸は、紀元前13年にローマ帝国により征服が開始され、パンノニア州の一部として支配下に入りました。ドナウ川を国境としてその南側、あるいは西側までがローマ帝国でした。ドナウ川は現在のスロヴァキアの西端付近にある首都ブラチスラヴァ、ハンガリーの中央にある首都ブダペストを流れています。

 ローマ帝国はブダ(ブダペストのドナウ川右岸側)に駐屯地を作りアクインクムと名付けましたが、ローマ化した住民は帝国内部に移住していって、5世紀にはアクインクムは消滅し、パンノニア州もフン人の支配下に入りました。

■モラヴィア王国

●スラヴ人の王国の成立

 チェコは大きくわけて西部・中部がボヘミア、東部がモラヴィアと呼ばれている地域です。ボヘミアという名前は紀元前4世紀〜紀元前1世紀ごろまで住んでいたケルト系ボイイ族に由来しています。ケルト人の後にはゲルマン系の部族やモンゴル系といわれるアヴァール人が支配していました。

 スラヴ系の民族(スラヴ系の言語は話す民族)はこれらの民族の支配のもとこの地域に定住していました。なお、スラヴ人はチェコ、スロヴァキア、ポーランドなどの西スラヴ人、ウクライナ、ロシア、ベラルーシなどの東スラブ人、クロアチア、セルビア、ブルガリア人などの南スラヴ人に分けられます。

●民族的自覚

  人々が自らの民族をアイデンティティとして意識するようになったのは、18世紀後半から19世紀になってからです。

 19世紀にはオーストリアやオスマン帝国内で圧迫されていたスラヴ人達の民族意識が、ロシアの南下政策と結びつき、ロシア盟主とした汎スラブ主義運動として、汎ゲルマン主義に対応するものとなりました。

 9世紀初めゲルマン民族であるフランク王国(現在のフランス、ドイツのルーツ)が東方に進出し、アヴァール人の国家を滅ぼしました。そしてアヴァール人に支配されていたスラヴ人は、モラヴィア南部からスロヴァキア西部にかけてモラヴィア王国を形成しました。

 下の地図はモラヴィア王国の最大版図(はんと)です。地図の投影法が異なるので完全に同じ範囲ではありませんが、大きさが比較しやすいように、上に示した神聖ローマ帝国、オーストリア帝国の地図とおおむね同じ範囲を示しました。現在のチェコ、スロヴァキア、ハンガリーやその周辺を含む広い範囲を支配していたことが分かります。当時は現在のような明確な国境はありませんので、支配したおおむねの範囲です。


モラヴィア王国の最大版図(スワトプルクの治世期 871〜894年)
出典:Wikipedia Commons

 ローマ教皇は東ローマ帝国の東方教会との対立するために、ゲルマン人でありながらキリスト教を受け入れていたフランク王国との結びつけを深め、800年にはフランク王国のカール大帝が教皇によって戴冠されていました(神聖ローマ帝国とフランス王国のルーツです)。フランク王国は教皇の後ろ盾を得て、カトリックの盟主として勢力を拡げていたのです。

 そのフランク王国は、モラヴィア王国を服属させるためキリスト教に改宗するよう迫り、モラヴィア王国はキリスト教を受け入れてキリスト教国家となりました。800年頃にはモラヴィアに教会が存在しており、829年にはフランク王国南東部の都市パッサウの司教がモラヴィアの教会を管轄することが決められています。

 モラヴィア王ロスチスラフは自らの司教区を持ち、フランク王国から自立するため、そして典礼用語としてラテン語ではなくスラヴ語の使用を認めてもらうため、カトリック教会のローマ教皇に使節を送りました。

●キリスト教で用いられる言語

  ユダヤ人であるイエス・キリストの使徒達によりはじまったキリスト教は、ユダヤ人であり、かつローマ市民権をもつパウロによって当時の国際語であるギリシャ語でユダヤ人以外にも広く布教されました。

 旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語の一種(コイネー)で書かれていましたが、旧約聖書もギリシャ語に翻訳されました。その後、当時の一般の人にもわかるようにラテン語へ翻訳され、西方教会ではラテン語が公用語として用いられるようになりました。

 当時、西フランク王国(後のフランス)と対立していた教皇は、東フランク王国(後の神聖ローマ帝国→ドイツ)と事を構えるわけにはいかず、モラヴィア教会の自立を認めませんでした。そこでロスチスラフはビザンツ(東ローマ帝国)皇帝に使節を送り、支援を求め、スラヴ人の言葉でキリス教を教えてくれる人物の派遣を要請しました。当時はまだ東西教会が分裂するずっと前の時代です。ビザンツ皇帝によりギリシア人の兄弟メトディオスとコンスタンティノスが派遣されました。コンスタンティノスは後にキュリロス(キリル)という名を得ています。

●キリル文字のルーツ

 当時のスラヴ人は文字を持っていなかったため、コンスタンティノス(キュリロス)はギリシア文字を元にスラヴ語を表記する文字(グラゴル文字)を考案したと言われています。

 後に追放されブルガリアに逃れたキュリロスの弟子達は、グラゴル文字を改良し、よりギリシア文字に近いキリル文字を考案しました。キリル文字がギリシャ文字と似ているのはこのためです。彼らはキュリロスをしのびキュリロスの文字(キリル文字)と呼んだため、キリル文字はキュリロスが考案したものと信じられていた時期がありました。

 キリル文字はロシア語やスラブ系言語をはじめとする多くの言語で使われていますが、現在、チェコ語やスロヴァキア語ではラテン文字が用いられています。

マジャル人の侵入とモラヴィア王国の崩壊

 ビザンツ帝国で皇帝が暗殺され二兄弟を庇護していた総主教が罷免されたため、二人はローマに向かいました。当時の教皇はスラヴ語を典礼用語として使うことを認めましたが、その後、スラヴ語派とラテン語派の抗争があり、メトディオスが亡くなった後、スラヴ語の使用は禁止され、スラヴ語派は追放されました。追放されたスラヴ語派はブルガリアの保護をもとめ、ブルガリアやマケドニア地方ではスラヴ語による典礼が認められ、キリル文字は東方正教会とともに広まりました。そして二兄弟は後にチェコにおいて守護聖人となっています。

 そして9世紀末には、カルパチア山脈を越えて半遊牧民で馬と弓矢に長じたマジャル人(ハンガリーの主要民族)があらわれカルパチア盆地に定住しました。マジャル人は899年にイタリアに侵入、引き上げる際にパンノニアを支配下におき、902年にはモラヴィア王国を崩壊させました。

 マジャル人に滅ぼされたスラヴ人のモラヴィア王国は、チェコとスロヴァキアの共通の祖先として位置づけられています。この後、チェコのスラヴ人は自らの国家を創り、スロヴァキアのスラヴ人はマジャル人(ハンガリー)の支配下に入りました。スロヴァキア人が自らの国家を持つことになるのは第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー二重帝国崩壊後のことです。

■ボヘミア・プシェミスル朝 ヴァーツラフ1世

 9世紀にプシェミスル家のボジヴォイ1世が、現在プラハ城があるフラチャニの丘を1つの拠点として支配の基礎を築きました。モラヴィア王国崩壊後、その子孫が勢力を広め、チェコ全域を支配下におきました。「プシェミスル家」という名前は人々を率いていた巫女リプシェと結婚し君主となった伝説上の農夫プシェミスルの名前から来ています。現在では実話とは考えられていませんが、スメタナのオペラ「リプシェ」にも歌われています。

 ボジヴォイ1世の孫で4代目の当主であるヴァーツラフ1世(在位921〜935年)は、東フランク国王から聖人ヴィートの遺骨の一部を譲り受けて埋葬し、その上の教会を建てました。これが後にプラハ城にある聖ヴィート大聖堂のルーツとなります。こうしてカトリック国となったボヘミア(チェコ)は、東フランク王(神聖ローマ皇帝)を君主とし、チェコの国王はボヘミア大公と呼ばれます。ヴァーツラフ1世は権力抗争により暗殺されますが、理想的なキリスト教君主であったとしてチェコの守護聖人として崇拝されるようになりました。

 なお、ここで紹介したヴァーツラフ1世はボヘミアですが、13世紀にはヴァーツラフ1世(在位1230〜1253年)という同名ボヘミアがいます。ボヘミア王ヴァーツラフ1世の次男が後で紹介するオタカル2世です。

 プシェミスル朝は、そのオタカル2世の孫が1306年にポーランド遠征の途上で暗殺されるまで続きました。

●聖ヴァーツラフの王冠

 11代目のボヘミア王である神聖ローマ帝国カレル4世(ボヘミア王としては1世)によって戴冠式のために作られたのが「聖ヴァーツラフの王冠」です。ボヘミアの守護聖人となった聖ヴァーツラフに捧げられました。

 この王冠はチェコ王の支配権の象徴と定められ、チェコ、モラヴィア、シレジア、ラウジッツなどの領邦がこの王冠のもとに統合され、「聖ヴァーツラフの王冠諸邦」が成立しました。

 王冠は現在は聖ヴィート大聖堂の一室に保管されており、レプリカが公開されています。


聖ヴァーツラフ王冠のレプリカ 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

■ハンガリー・アールパード朝 イシュトヴァーン1世

 クルサーンとアールパードという首長に率いられてカルパチア山脈を超え、902年にモラヴィア王国を崩壊させたマジャル人はフランク王国の西部に進出、さらにはフランス、イタリア、バルカンに進出しました。しかし955年ザクセン朝の神聖ローマ皇帝オットー1世に敗れ、フランク王国から退いていきました。バルカンでのブルガール人との争いも970年頃には終息し、カルパチア盆地で半牧畜、半農耕の定住生活に入りました。

 当時のハンガリーはビザンツ帝国の影響を強く受け、東方キリスト教の影響を受けた者もいましたが、アールパードのひ孫ゲーザ(在位972〜997年)はドナウ川沿いのエステルゴムを居城として西ヨーロッパとの関係を重視し、西方キリスト教(カトリック)を取り入れ洗礼を受けました。ただし敬虔なキリスト教徒ではなかったとされています。

 ゲーザは息子ヴァイクにローマ教会の洗礼を受けさせてイシュトヴァーンと命名し、バイエルン公の娘と結婚させました。イシュトヴァーンは皇帝オットー3世の了解をもと、エステルゴムにて教皇シルウェルステル2世から授かった冠により戴冠式を行い、国王イシュトヴァーン1世(在位997〜1038年、国王としては1000年〜)となり、ハンガリー王国を創始しました。

 イシュトヴァーンが亡くなった時、息子に先立たれていたため、後継者がおらず争いが絶えませんでした。これを平定したラースロー1世(在位1077〜1095年)によって、ハンガリーのキリスト教化の土台を築いたとしてイシュトヴァーンは列聖されました。ラースロー1世自身も聖人となっています。

 アールパード朝は1301年にアンドラーシュ3世に男子がいなかったため断絶するまで続きました。なお、チェコ(ボヘミア)のプシェミスル朝の最後の王であるヴァーツラフ3世は、父親であるヴァーツラフ2世の母方の祖母がハンガリー王ベーラ4世の王女であったことから、アンドラーシュ3世の死後、自身がボヘミア王・ポーランド王を父王から継承するまでの短期間、ハンガリー王位にありました。

●聖イシュトヴァーンの王冠

 「聖イシュトヴァーンの王冠」はイシュトヴァーンが戴冠した王冠そのものではありませんが、ハンガリー王国の戴冠の証しとして12世紀以降、代々引き継がれてきました。

 ギリシア王冠と呼ばれる下の部分とラテン王冠と呼ばれる上の部分の合体となっているとされていますが、いつ合体されたものかは分かっていません。

 現在は国会議事堂で公開されています。

■ボヘミア・プシェミスル朝 オタカル2世

 ヴァーツラフ1世(在位1230〜1253年)の息子オタカル2世が1253年にボヘミア王に即位しました。オタカル2世はミュンヘン・オーストリア短訪の「オーストリアのハプスブルク家」で登場した「ボヘミア王オットカル2世」です。


オタカル2世(プラハ城内の展示より) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900


 オタカル2世はオーストリアを支配していたバーベンベルク家が断絶したのを利用してオーストリアに介入し、スロヴェニア方面までの広大な地域を支配下におさめました。

 皇帝フリードリヒ2世が亡くなった後の神聖ローマ帝国の大空位時代(1256〜1273年)、オタカル2世は皇帝の大本命とされていましたが、急激に力をつけたがゆえに選帝侯に警戒され、当時、小貴族にすぎなかったハプスブルク家のルドルフがローマ王(戴冠され皇帝となる)に選出されました。一方、オタカル2世が勢力を拡大したことによりボヘミア王はその後、選帝侯に名を連ね、7選帝侯体制がはじまります。

 神聖ローマ皇帝となったルドルフはオタカルの領土拡大を不法なものとみなして、裁判を始めます。強大な力をもったオタカル2世はルドルフを下にみて兵力の撤退に応じなかったため、その後、皇帝ルドルフはウィーンに進軍してオタカル2世をやぶり、オタカル2世は戦死をとげました。この時からオーストリアがハプスブルク家の所領となります。

 その子、ヴァーツラフ2世は、ポーランド大公プシェミスウ2世亡き後ポーランド王に即位し、さらにヴァーツラフ3世をハンガリー王として即位させて勢力を拡大しました。しかしヴァーツラフ2世は1305年に病死、その翌年には子がいなかった当時17歳のヴァーツラフ3世がポーランド遠征途上に暗殺され、プシェミスル朝は終焉しました。


ヴァーツラフ2世(プラハ城内の展示より) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 ボヘミアは、ヴァーツラフ3世の妹と後の神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世(ルクセンブルク伯ハインルヒ6世の子で当時は戴冠前)の子ヨハンと結婚させ、1310年、ルクセンブルク朝が始まりました。

■ハンガリー・アールパード朝 ベーラ4世

 アールパード朝からは22人の王が出ました。1054年には東西教会の大分裂もあり、西の神聖ローマ帝国と東のビザンツ帝国の間に位置するハンガリーの役割はますます重要になりました。

●東西教会の大分裂

 395年にローマ帝国が東西に分割、476年の西ローマ帝国の滅亡を経て、東西教会の交流が薄くなり、教義、典礼方式、組織のあり方などの違いが増していました。

 そして1054年についに西のローマ教皇と東のコンスタンティノープル総主教が相互に破門したのが東西教会分裂の象徴的な出来事となったのです。

 ハンガリーでは、南のイタリア遠征の失敗、西の神聖ローマ帝国、東のビザンツ帝国やロシアとの戦争、チェコとの同盟などがあり、周辺からドイツ人、ロシア人、イタリア人、スラヴ人、クマン人等が流入し、宗教的にもキリスト教徒、イスラム教徒、多神教の「異教徒」などから成る複雑な社会となっていました。

 1241年にはモンゴルが侵入します。1227年にチンギス・ハーンが死去した後、後を継いだオゴタイ・ハーンはバトゥを派遣してロシアを征服し、そしてポーランド、ハンガリーに侵入しました。当時のハンガリー王ベーラ4世(在位1235〜1270年)は、モヒの戦いでモンゴルに敗れてダルマチアに逃れます。モンゴルはドナウ川を越え、ブダやペシュト(現在のブダペシュト)、エステルゴム等が陥落、各地を破壊してまわりました。オゴタイ・ハーンが死去した1241年12月の翌年3月、モンゴルは突然撤退しましたが、すでにハンガリーは廃墟となっていました。

●モンゴル帝国

 遊牧民族を統一したチンギス・ハーンが起こしたモンゴルは、短期間のうちに日本列島の対岸の中国、朝鮮半島から地中海、現在のウクライナ、ロシア等に到る大帝国を築きます。

 モンゴル帝国の末裔によってムガル帝国(モンゴル帝国)によってインドが統一され、その後のイギリスによる植民地化を経て、現在のインドにつながります。また後に紹介するように、オスマン帝国もモンゴル帝国の末裔であると言えます。

 最盛期のモンゴル帝国は、近代の大英帝国と並ぶ歴史上最大規模の帝国でした。

 ローマ帝国の後継国家である3つの勢力である、西ヨーロッパ諸国(西ローマ帝国の「再興」)、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、イスラム帝国(一神教とギリシャ・ローマの文明を継承)とその後継諸国に突如として襲いかかった脅威でした。

 ハンガリー王ベーラ4世は、モンゴル侵攻によって荒廃したハンガリーの復興事業によって、ハンガリー王の中で最も有名な人物の一人として知られています。租税収入の確保、(現在のスロヴァキアにおける)鉱山の開拓、都市の自治と防御力を高め、王国自由都市と呼ばれるようになります。自由な市民が生まれる一方で、零落した農民、市民により農奴層も形成されます。そしてさまざまな民族を入植させることで民族的にも宗教的にもますます複雑さが増していきます。(ただし当時はまだ「民族」という概念はありません。)

 その後、ハンガリー王はイシュトヴァーン5世(在位1270〜1272年)、ラースロー4世(在位1272〜1290年)、 アンドラーシュ3世(在位1290〜1301年)と続き、アールパード朝は終焉を迎えます。民族的、宗教的な複雑さを増したハンガリーの統治は、ボヘミアのオタカル2世との戦い、クマン人との争い、モンゴルの侵入、王位の継承争いなど内外ともにきわめて困難なものでした。

■ボヘミア・ルクセンブルク朝 カレル4世

 ルクセンブルク朝の最初の王ヨハン(チェコ語ではヤン)はプシェミスル朝最後の王ヴァーツラフ3世の妹とルクセンブルク伯ハインリヒ6世の子、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子供でした。ヨハンはフランス王家と親戚関係にあり、当時、アヴィニョン(フランス東南部)にあった教皇庁とも深い関係がありました。

 なお1309〜1377年の間、カトリック教皇の座はローマからアヴィニョンに移されていました。紀元前6世紀にユダヤ人が新バビロニアに捕虜として連行されたバビロンの捕囚になぞらえ「アヴィニョンの捕囚」と呼ばれています。アヴィニョンの捕囚はフランス王4世の圧力によって教皇庁がフランス・アヴィニョンに移されることによってはじまり、1377年にローマに帰還しましたが、その後、ローマとアヴィニョンに教皇がいる「教会大分裂」の時代(1378〜1417年)となりました。大分裂は日本の南北朝時代のようなものでしょうか。

 ルクセンブルク朝のヨハンの息子がカレル(ドイツ語ではカール、フランス語ではシャルル)4世(在位1346〜1378年)です。チェコ王としてはカレル1世ですが、神聖ローマ皇帝に上り詰めたため、皇帝として数えカレル4世と呼ばれるのが一般的です。


カレル4世(プラハ城内の展示より) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 チェコのプラハで生まれたカレルは、7歳からフランス王の宮廷で教育を受け、イタリアなどで政治経験を積み、17歳でプラハに戻りました。1346年、30歳で皇帝となり、同時に父の戦死によりボヘミア王の座も継承しました。

 カレル4世はチェコ語、ドイツ語、フランス語、ラテン語等を話し、教養もある文人皇帝であり、帝国の制度を明確にするための金印勅書の発布、プラハ市街地の整備、プラハ大学の創設、教皇庁のローマへの帰還への尽力などで知られています。ボヘミアと神聖ローマ帝国に平和と安定をもたらした名君、そして最初の近代的な君主と称されています。

 プラハを流れるヴルタヴァ川(モルダウ川)に架かるカレル橋は、カレル4世の治世下の1357年に建設がはじまり、亡くなった後の1402年に完成しました。プラハ橋と呼ばれていましたが1870年からカレル橋と呼ばれるようになりました。

 先に紹介したようにボヘミアの統合の象徴として聖ヴィーツラフの王冠を定めたのもカレル4世です。これにより仮に王位が空位となってもチェコ、モラヴィア、シレジア、ラウジッツなどの領邦はばらばらにならず、この王冠のもとに「聖ヴァーツラフの王冠諸邦」として統合され、現在のチェコの原型となります。

 カレル4世は、長男ヴェンツェル(ヴァーツラフ4世)をローマ王に就け、さらに次男(ヴェンツェルの異母弟)ジギスムントとハンガリー王位継承者マーリアの結婚をまとめハンガリー獲得の礎としました。マーリアはアンジュー家出身のハンガリー王兼ポーランド王ラヨシュ1世の娘です。アンジュー家はフランス王家のカペー家の支流の1つです。

 ヴァーツラフ4世がカレル4世の次の皇帝となりましたが数々の失政によりローマ王を廃位されクセンブルク朝の衰退を招きます。弟のジギスムントは後に神聖ローマ皇帝となり、ボヘミア王、皇帝そしてハンガリー王として君臨しましたが、その死によってルクセンブルク朝は終焉を迎えました。


ヴァーツラフ4世(プラハ城内の展示より) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 カレル4世により周到に拡大され整備されたボヘミア、神聖ローマ帝国、ハンガリー等は、皮肉にもそのライバルであったハプスブルク家にそっくり引き継がれることになります。

■ハンガリー・アンジュー朝 ラヨシュ1世

 ハンガリーではアールパード朝終焉の後、シチリアのアンジュー家出身のカーロイ1世(在位1308〜1342年)が王位を継承します。カーロイ1世の父方の祖母がアールパードのハンガリー王イシュトヴァー5世の娘であったことから紆余曲折の後、王位を継承しました。当時、英仏の百年戦争(1339〜1453年)、黒死病(1346〜1353円)と西ヨーロッパが困難な時代にある中、ヨーロッパ全体約8000万人のうち300万人の人口を占めるハンガリーは大国でした。カーロイ1世は貴族を抑制、王権を強化・拡大し、教会からの支持を取り付け、ブダやペシュトを中心とする都市を発展させました。

 このころオスマン帝国の初代皇帝オスマン1世(在位1299〜1326年)、2代目皇帝オルハン(在位1326頃〜1362年頃)により、オスマン帝国が建国され、支配域が拡大されてヨーロッパ南東部が侵略されはじめていました。

●オスマン帝国

 オスマン帝国は中央アジアにルーツのある遊牧民・トルコ民族(テュルク系民族)による帝国です。トルコ民族は元はモンゴロイドですが、現在の「トルコ人」はコーカソイド(白人)と混血してほぼコーカソイドとなっています。モンゴル帝国では多数を占める民族でした。

 モンゴル帝国は領土とした地域の宗教、文化を取り入れ、西方ではイスラム化した多民族国家でした。民族的にも宗教的にもそれを引き継ぎ、モンゴル帝国の主要民族の1つであったトルコ民族によるオスマン帝国は、モンゴル帝国を受け継ぐものとみることが出来るかも知れません。

 オスマン1世はその父によって築かれた小アジア(アナトリア半島=現在のトルコ)の基盤を受けつぎ、同じくトルコ系のイスラム王朝であるルーム・セルジューク朝から独立してオスマン帝国を築きあげました。

 カーロイ1世の息子がラヨシュ1世(ハンガリー王在位1342〜1382年)です。先に紹介したようにボヘミア王カレル4世の次男ジギスムントがラヨシュ1世の娘マーリアと結婚し、後にハンガリーを継承することになります。

 父王カーロイ1世は国内を固めましたが、ラヨシュ1世は対外的にハンガリー王国の支配域を広げました。1370年にポーランド王位を継ぎ、イタリア、バルカンへの進出を図りポーランドからアドリア海に及ぶハンガリー最大の版図となりました。

 内政上の功績は少なく、プラハと大きな差がつきましたが、ヴィシェグラードからみてドナウ川の下流にあるブダに王宮を移し、ブダの重要性を高めたのはラヨシュ1世です。

ボヘミアハンガリー・ルクセンブルク朝 ジギスムント

 ハンガリー王ラヨシュ1世には男子がなかったので娘婿となったジギスムント(ルクセンブルク家)(ハンガリー王在位1387〜1437年、皇帝在位1410〜1437年、ボヘミア王位1419〜1437年)がハンガリー王位を継ぎました。ジギスムントは神聖ローマ皇帝になり、ボヘミア王も兼ねています。

 しかし、ハンガリーにおいて、ジギスムントは内政は貴族に取り囲まれてカーロイ1世が創り上げた中央集権は頓挫し、対外的には多くの戦争に失敗してダルマチア、ボスニアを放棄、バルカンに北上してきたオスマン帝国に敗れバルカンにおける覇権を失い、ラヨシュ1世が獲得した版図は失われました。

 一方、ボヘミアでは、フス派の攻勢への対応を迫られました。

●ヤン・フス

 当時、カトリック教会への不満がプラハで燃え上がります。

 プラハ大学で哲学、神学を学び神学教授となったヤン・フス(1369頃〜1415年)の説教は当時の社会の矛盾をつき分かりやすいものであったため人気を博しました。聖職者の堕落を批判し、さらには教皇を頂点として組織化されたカトリックは本来の教会(キリスト教徒の集まり)ではないと、教皇の権威を否定しました。

 当時のカトリック教会はローマとアヴィニョンに分裂し権力抗争と資金集めに明け暮れていた時代だったのです。プラハ大司教はヤン・フスを破門しましたがフスはひるみませんでした。

 皇帝ジギスムントが教会の分裂を終結させるために開催したコンスタンツ公会議(1414〜1418年)にフスは呼ばれ、コンスタンツに赴いたところ逮捕され、1415年、火刑台で処刑されてしまいました。(教会の大分裂はこの公会議で終結しました。)

 この後、チェコにいたフスの支持者(カトリックにより異端とみなされた)は、有力貴族を中心に結集しプラハで政権を取りました。

 教皇は異端討伐のためヨーロッパ中から集めた十字軍をチェコに送り込み十数年にわたる戦争となりました。フス派に対する十字軍の戦いは、フス派が応援したポーランド王国とドイツ騎士団の戦争などに広がります。これがフス戦争と呼ばれています。ヨーロッパ史で最初の火器を使った戦争と言われています。ボヘミアは荒廃し人口が減り、戦費負担で農民は疲弊しました。1439年にポーランドのフス派が壊滅してすべての戦争が終わります。

 1485年にはフス派とカトリックの間に一応の和解が成立、社会が安定し、チェコのビール醸造や養鯉などの伝統産業が活発になってきました。

 フス派は、この後1517年にルターによってはじめられた宗教改革の走りとも言われています。

 ジギスムントはフス派との抗争が終焉を迎える前、1437年に亡くなり、ルクセンブルク朝は終焉を迎えました。ハンガリー王、ボヘミア王、神聖ローマ皇帝の座は、ジギスムントの娘と結婚していたハプスブルク家のアルブレヒト2世(ハンガリー王在位1438〜1493年、ボヘミア王・神聖ローマ皇帝在位1438〜1493年)に継承されました。ハプスブルク家はオーストリアを所領として持っていたため、オーストリア公アルブレヒト5世でもあります。

 アルブレヒト2世は名目上はボヘミア王でしたが、フス派との抗争が続くボヘミアを実効支配はできず、オスマンとの抗争中に赤痢で急死したため、短い在位期間でした。

■ボヘミア・フス派貴族 イジー

 この後、ハンガリー王位とボヘミア王位は(ハンガリー王位はヤギェウォ家を経て)ハプスブルク家ラースロー5世(チェコ語ではラジスラフ)へ継承されます。

 その後、フス派の貴族イジー(在位1458〜1471年)が、ボヘミア王位に就きます。イジーはいかなる王家とも血縁関係がありませんが、優れたフス派の政治家として下級貴族や市民の強い支持により王位を委ねられました。

 イジーはフス派であるため教皇から異端宣告を受けながらも、フス派の国際的な承認を得るために働きかけ、またオスマン帝国に協力して対抗するための同盟を提案するなど先駆的な理念の持ち主でした。

チェコハンガリー・ハンガリー分割とハプスブルク帝国の成立・フェルディナント1世

 フス派とカトリックの和解が成立するのは、ポーランド王家のヤゲウォ家ウラースロー2世(ボヘミア王位在位1471〜1516年、ハンガリー王在位1490〜1516年)が、ボヘミア王位を継承した後の1485年です。

 ウラースロー2世の子ラヨシュ2世(チェコ語ではルドヴィーク)が両王位を継ぎました。ラヨシュ2世はスレイマン1世率いるオスマン帝国にモハーチの戦いで敗れ、戦死しました。ラヨシュ2世には跡を嗣ぐ子がいなかったため、ウラースロー2世の娘(ラヨシュ2世の姉)アンナの夫であり、ラヨシュ2世の妃マリアの兄でもあったハプスブルク家のフェルディナント1世(オーストリア大公在位1521〜1564年、ボヘミア王・ハンガリー王在位1526〜1564年、神聖ローマ皇帝在位1556〜1564年)が継承しました。その後、神聖ローマ皇帝の帝位も継承します。この時から、神聖ローマ帝国およびハンガリーおよびボヘミアは、永くオーストリア・ハプスブルク家により世襲されることになります。

 一方、オスマン帝国はハンガリーの中小貴族によって選ばれたサポヤイ・ヤーノシュを支持し、ハプスブルクを牽制するためウィーンを包囲しました(第一次ウィーン包囲)。ハンガリーはこの後、150年以上にわたり、ブダを含む平原部はオスマン帝国直轄領、オスマン帝国保護下のトランシルヴァニア公国、ハプスブルク家が統治するハンガリー王国の3つに分割されました。

 フェルディナント1世がボヘミア王位、ハンガリー王位を継承した1526年が、(オーストリア・ハプスブルク家による)いわゆる「ハプスブルク帝国」が成立した年と言われています。この帝国は単一の帝国ではなく、神聖ローマ帝国内外の国家群による同君連合でした。ハプスブルクにとってハンガリーはオスマン帝国と対峙する最前線であったため、ハンガリー貴族の協力が必要であり中央集権化が難しかったのです。1804年までは正式な名称はありませんでしたが、同時代の人間にも「オーストリア」と呼ばれていたようです。1804〜1867年はオーストリア帝国、1867〜1918年まではオーストリア=ハンガリー二重帝国でした。

 神聖ローマ帝国は1806年にフランツ2世により解散されるまで、オーストリア・ハンガリー・ボヘミアによるハプスブルク家による帝国は第一次世界大戦により解体され、諸民族が独立しドイツ語圏が共和国となるまでハプスブルク家による支配が続きました。

 神聖ローマ帝国のハプスブルク朝時代については、「ミュンヘン・オーストリア短訪」の歴史的背景(http://eritokyo.jp/independent/takatori-austria2017/01.htm)に書いたので省きます。

ハプスブルク家統治下のボヘミア

 皇帝ルドルフ2世の弟マティアスは、病弱な兄ルドルフ2世に叛旗を翻しカトリック勢力の支持を背景にプラハに侵攻しボヘミアの支配権を譲らせ、ルドルフ2世の死後1612年に神聖ローマ皇帝に即位しました(在位1612〜1619年)。

 皇帝マティアスはプロテスタントとカトリックの対立が激化するチェコを避け、1617年マティアスは宮廷をプラハからウィーンに移しました。翌年、プラハ大司教の手によりプロテスタントの教会2つが閉鎖されたことをきっかけに大事件が起こりました。抗議のために政府高官2名と書記1名が城の2階から投げ捨てられた(大きな怪我はなかった)という有名な逸話はこの時のものです。

 ついに1620年に軍事的な衝突に到り、プロテスタント貴族はあっけなく制圧され敗走しました。次の皇帝フェルディナント2世(在位1619〜1637年)は反乱側27名を処刑、ほかの貴族の所領も没収し、チェコの半分以上の土地で領主が入れ替わりました。新しい領主にはドイツ、フランス、イタリア出身の貴族も多く含まれ、チェコ語と並んでドイツ語が公用語となりました。

 なおボヘミアにおけるプロテスタントの反乱をきっかけにはじまった三十年戦争(1618〜1648年)の後、カトリック化政策を進めるハプスブルク帝国に対抗する中小貴族による反乱に乗じてオスマン帝国軍は1683年にウィーンを再度包囲しました(第二次ウィーン包囲)が、オスマン軍はこれに敗れハンガリーから撤退し、ハンガリーのオスマン帝国領およびトランシルヴァニアはハプスブルク家の支配下に入りました。

 この時代にチェコではカトリックが定着し外来の貴族もチェコの風土になじみ、古くからキリスト教の国であったかのような認識が広まり、新しく領主となった貴族もプシェミスル朝の時代からであるかのように家系図を改ざんする者があらわれるなど、チェコの歴史・文化に対する愛着が育まれていきました。

ハプスブルク家統治下のハンガリー

 1703年、ハプスブルク家の支配下におかれたハンガリー各地で暴動が起こり、トランシルヴァニア出身貴族ラーコーツィ・フェレンツ2世によるハンガリー解放が連動して、ハンガリー解放戦争が起きました。

 ハンガリーとハプスブルク家は最終的に和議を結び、ハンガリー貴族は1713年の「国事勅書」を1722年に承認し、ハプスブルク家の世襲(ハンガリー)王位継承権を認める代わりに、ハンガリーは王国を維持し、ハンガリー貴族の特権が認められることとなりました。

 この国事勅書はマリア・テレジア(オーストリア女大公・ハンガリー女王在位1741〜1780年、ボヘミア女王在位1740〜1741、1743〜1780年、実質的な女帝)による女系相続権とハプスブルク家領の不可分性を諸国に認めさせるものです。

 マリア・テレジアは啓蒙専制政治を行い、貴族・聖職者の特権を廃止領主による農民の過度な搾取を抑制するなど各種の改革を行いましたが、オーストリア継承戦争(1740〜1748年)においてハンガリー議会の協力を求める代わりに自治権を認めたため、ハンガリー貴族の特権と議会は維持されました。

 1765年に即位した嫡男ヨーゼフ2世(在位1765〜1790年)により啓蒙思想の影響を受けた啓蒙君主としての改革はさらに急進的に進められました。ドイツ語の公用語化はハンガリーで特に強い反発を受け、ハンガリー貴族の中に民族意識と独立を求める動きは芽生えてきました。

 ハンガリー人(マジャール人)の民族的自覚が生じ始めると、一方でハンガリー国内のスラヴ系住民は自分達はマジャール人とは違う民族であるという意識が現れ、かつてのモラヴィア王国(現在のチェコ、スロヴァキアを含むスラヴ人の王国)の記憶がよみがえります。まだスロヴァキアという名前はありません。(スロヴァキアは、「スラヴ民族の地」という意味です。)

■中東欧と民族

 ボヘミア、ハンガリーともに異なる地域から移動してきた異なる言葉を話し、異なる宗教をもっていた人々によって構成される複雑な地域でした。ただし、この時代以前は世界の人々に民族的自覚はなく、むしろ階級に対する所属意識をもっていました。例えば貴族階級のひとびとは同じ「国」の農民を仲間と思うのではなく、他国の貴族を自分達の仲間であると感じていました。複数の地域の征服民族(例えばゲルマン民族)として共通のルーツをもっていたり、結婚政策によって異なる「国」の貴族同士が姻戚関係にあったことなどの背景もありました。

 そして、西欧と比較して複雑な民族構成となっている中東欧、ロシア等の地域では、民族意識の目覚めがこの後の歴史に大きな困難をもたらします。

●「全体主義の起源」ハンナ・アーレント

 ドイツ出身のユダヤ人哲学者のハンナ・アーレント(1906〜1975年)が主著の1つである「全体主義の起源」において、膨大な史料に基づいて解き明かしたように、ヒトラーやスターリン時代のソ連の全体主義に到る歴史の背景の1つに、中東欧が民族集団が複雑に入り交じった地域であるという要因があります。

 ちなみに「全体主義起源」は3部構成(「反ユダヤ主義」、「帝国主義」、「全体主義」)の難解な著作で、私は最近読了しましたが、個人が所属している集団が解体され、個々人がバラバラに孤立しているなど社会的な背景において現代にも通じる問題が指摘されていると感じました。

 複雑な民族を擁し、衰退しつつあった2つの帝国、オーストリア帝国、オスマン帝国が第一次世界大戦を期についに解体されて新しい国家に分裂したように(ちなみにもう1つの帝国である帝政ロシアも第一次世界大戦を契機とし崩壊しソ連が生まれます)、第二次世界大戦の後、冷戦後、ソ連の下で押さえ込まれていた民族対立により再び国が分裂していくことになります。

■ハプスブルク帝国(オーストリア帝国)の解体

 19世紀後半のオーストリアは、社会の近代化、商業や工業の発展の一方で、フランス革命(1789〜1799年)からはじまった革命運動の拡がり、民族運動に揺れ動きます。

 フランス革命によりフランスでは王権が廃され、(主に)同一民族によって構成される国民国家の形成が進みますが、一方、ドイツ人皇帝のオーストリア帝国、ロシア人皇帝の帝政ロシア、そしてトルコ人皇帝のオスマン帝国などは多民族によって構成されています。ドイツ人(ゲルマン人)、スラブ人などは、複数の国家にまたがって居住し、それぞれの国の中では民族的少数者であり、国境を越えた汎ゲルマン主義と汎スラブ主義という2つの民族主義が同時に発展しました。

●国民国家とユダヤ人

 ユダヤ人は自らの国を持たず、全ての国において少数民族でした。

 ハンナ・アーレントによると、寄って立つ「母国」をもたないユダヤ人は、ドイツのみならずヨーロッパ各国で政治的な主張に利用されていきます。

 帝国が解体されてできた新しい(主要な民族毎に構成される)国家においては、また戦争による混乱によって多くのユダヤ人が無国籍者となり厳しい立場におかれていくことになりました。

 これが後にイスラエル建国につながり、パレスチナにおいてユダヤ人国家によるアラブ人差別にという新たな問題の原因となっていくことは皮肉です。

 オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフの後継者フランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエヴォで暗殺されたことをきっかけに、第一次世界大戦がはじまり、大戦後に帝国は解体されます。

 同じスラブ系民族であるチェコとハンガリーのうちスラヴ系住民が多い地域であるスロヴァキアがまとまりチェコスロヴァキア共和国が独立しました。

 一方、オーストリア=ハンガリー二重帝国を構成しており独自の議会を持っており「聖イシュトヴァーンの王冠」の下にまとまっていたハンガリー王国からは諸民族が分離し、スロヴァキア(チェコスロヴァキア)、ルーマニア、ユーゴスラヴィアなどが独立しました。

 独立後の国境線に沿って民族毎にきれいに分かれて居住していたわけではなく、同じ地域に異なる民族が混在して住んでいたため、独立した新しい国の中には多数の「少数民族」が取り残されたことになります。

国民国家・チェコとスロヴァキア

 1918年に生まれた共和国は、チェコの方は「チェコ王冠諸邦(聖ヴァーツラフの王冠諸邦)」を引き継ぎましたが、スロヴァキアの方は長らくハンガリーの一部であり、スロヴァキアとして独立した歴史を持っていないため国境線確定には非常な困難が伴いました。

 スロヴァキアの領域内には多くのハンガリー系住民、ウクライナ・ロシア系のルーシ人が住んでいました。1931年時点で、チェコスロヴァキア全体では66.9%がチェコ人とスロヴァキア人、22.3%がドイツ人、他にハンガリー人、ウクライナ・ロシア人、ユダヤ人、ポーランド人などによって構成されています。スロヴァキア人だけ取り上げるとドイツ人より少数だったとみられています。そのため、そしてチェコの方が高等教育が普及していたこともあり、チェコのプラハ中心とした国家建設が進められ、スロヴァキア人はチェコ人の陰に立たされていました。後のチェコとスロヴァキア分離の背景です。

 1930年代には世界恐慌の影響で、スロヴァキアの農村地域や軽工業が盛んなドイツ人地域が大きな打撃を受けました。ドイツ人が多数を占めるズデーテン地方では、ズデーテン・ドイツ党が支持を拡げました。ドイツで政権を握った(オーストリア出身の)ヒトラーは、ドイツ民族にも民族自決の原理を主張し、1938年に同じドイツ民族のオーストリアを併合し、さらにズデーテン地方の割譲を求めて欧州各国はこれを承認し、ドイツはズデーテン地方に侵攻しました。さらにスロヴァキアはヒトラーの保護のもとで独立し、チェコはドイツの保護領として占領され、チェコスロヴァキアはあっけなく解体されました。国内のユダヤ人や少数民族ロマはヒトラーの絶滅政策の対象となり過酷な運命をたどります。

 1945年、ソ連をはじめとする連合国によりチェコスロヴァキアは解放され、共和国は復活しました。この時、ナチスを支持していたかどうかに関わらずドイツ人に対する報復が行われ追放されました。民族意識の目覚め、民族自決の原理、主要民族毎に構成されている近現代の国民国家の成立が悲惨な歴史をもたらしていることがわかります。

 1946年に民主主義体制における選挙により共産党が第一党となり、1948年の閣僚を出していた連立政権の主要政党が政権を倒すために辞表を出したものの社会民主党が同調しなかったため共産党の立場が固められ、一党独裁が進み、事実上「社会主義共和国」となりました。

 ハンナ・アーレントが取り上げた2つの全体主義のうちの1つであるソ連のスターリンによる抑圧的な政治はチェコスロヴァキアにも及びました。1953年のスターリン死去の後、その路線は批判され、ハンガリーやポーランドでは体制批判の運動が起こりましたが、チェコスロヴァキアでは大きな動きはありませんでした。

 1960年代に入り、西側との経済格差が明らかになり、1968年にアレクサンデル・ドゥプチェク第一書記のもと「人間の顔をした社会主義」をスローガンに改革が急速に進みましたが(プラハの春)、ソ連は軍事介入に踏み切り、この動きを押しつぶしました。この時にチェコ、とスロヴァキアによる連邦制が導入されたことも、後の分離の伏線となります。

 ソ連のペレストロイカ政策を背景にチェコスロヴァキアでも人権擁護、反体制の活動が活発になり、1989年の学生のデモをきっかけに、衝突事件に発展し、ついに政府は一党独裁体制を放棄しました。暴力を伴わずに成功した「ビロード革命」とされています。

 ソ連を頂点とする社会主義体制により押さえ込まれてきたチェコ人とスロヴァキア人の対立がふたたび顕在化し、1993年に両者の合意により連邦は解体され、チェコとスロヴァキアは正式に分離することになりました。これまでにみてきたように、スロヴァキア人にとっては歴史上(実質的には)初めての自らの国家でもあります。

 チェコ共和国、スロヴァキア共和国ともに(そしてハンガリーも)2004年5月にEUに加盟しましたが(この時には東欧の多くの国が加盟しました)、通貨はチェコがコルナ、スロヴァキアはユーロを採用しています。(ハンガリーの通貨はフォリントなので、今回訪れた3カ国を移動する度に、通貨を両替する必要がありました。)

国民国家・ハンガリー

 下の図はテレキ・パールが作成した、オーストリア=ハンガリー二重帝国が解体された頃のハンガリーの民族分布です。全体が解体前のハンガリー王国の範囲、太線は解体後の新たなハンガリーの国境で分かりやすいよう筆者が太線で示しました。 赤がハンガリー人、緑がスロヴァキア人、薄紫がルーマニア人、薄青がセルビア人、オレンジ色がドイツ人です。現在、地図上の元ハンガリー王国のうち北がスロヴァキア、北東がウクライナ、東から南東がルーマニア、南がセルビア、南西がクロアチア、西がスロヴェニアとオーストリア領となっています。

 主要民族毎に国を分割したといっても、依然として複雑に民族が複雑に入り組んで混住していることが分かります。


テレキ・パールが1910年に作成したハンガリー王国の民族分布(太線は筆者の加筆)
出典: Wikipedia Commons

 ハンガリーはオーストリア=ハンガリー二重帝国時代の大きな市場を失い、農業は封建的で貧しい農民が多く、工業はドイツ資本の指導のもとに統合され、経済的に厳しい状況にありました。1929年の世界恐慌は、ハンガリー経済を直撃し、右翼急進主義の台頭を招きました。ここでもユダヤ人は政治的な目的の陰謀論によってやり玉に挙げられます。

 1938年、ナチスはオーストリアを併合、チェコスロヴァキアを解体したのを受け、ハンガリーは親ナチス・ドイツ路線を取ることになります。そしてハンガリーは知的職業におけるユダヤ人の比率を制限し、ドイツのチェコスロヴァキア解体を承認します。

 一方でハンガリーは全面的なファシズム路線を警戒して、(上の地図を作成した)テレキ・パールがふたたび首相となり、親ドイツ政策をとりながらも連合国との関係を保とうとしますが、国内政策のドイツ化はとどめがたく、ユダヤ人のさらなる排除、日独伊三国同盟への加盟へと進みます。しかしドイツがユーゴスラヴィア攻撃のためにハンガリー領通過を求めたとき、テレキは連合国との外交が途絶えることを恐れて窮地に陥り自殺してしまいます。1942年に任命されたカーライ・ミクローシュ首相はハンガリーを戦争から離脱させようとしましたが失敗し、1944年にはドイツに占領されてしまいました。ドイツは民族主義政党である矢十字党をクーデターにより政権につかせ、国民の弾圧とユダヤ人の逮捕と収容所送りを行いました。

 1944年、ハンガリー戦線が抵抗をはじめましたが、最終的にはソ連軍によりハンガリーは解放されることになります。1945年、自由投票による選挙が行われ、共産党、社会民主党、民族農民党による連立政権がつくられ、1946年には王制が廃止され共和国となります。

 当初、ソ連は東欧の社会主義体制の樹立までは考えていませんでしたが、米ソ冷戦がはじまり、ハンガリーでも左派の発言力が増していきました。1947年の8月の総選挙で共産党が第一党となり左派ブロックが多数を占め、大銀行、大工業が国有化され、ハンガリーでもソ連型の一党独裁型社会主義が正しいとされるようになりました。1949年、ソ連のスターリン憲法を模倣した憲法が制定され、人民共和国を宣言しました。

 1956年、スターリンの死去後、自由化の要求が広がります。市民が政府に対して蜂起、政府施設等を占拠し、新たな政府が作られましたが、ソ連が軍事加入し鎮圧されます。ソ連軍の制圧により数千人が死亡し、25万人近くの人が国外に逃れ、難民となりました。ハンガリー動乱です。

 その後、カーダール・ヤノーシュによる穏健な社会主義政策により東欧で最も自由で豊な国になっていきます。1980年代、ソ連のペレストロイカに伴い、ハンガリー国内でも民主化が開始されました。1989年5月にはオーストリアとの国境の鉄条網が撤去され国境が開放されました。ハンガリー政府は国内の東ドイツ国民の西側への出国の許可を与え、東欧諸国の体制転換の大きなきっかけとなりました。そしてこれが1991年のソ連崩壊とユーゴスラヴィア解体につながることになります。

 1989年には多党制に共和国憲法が施行され、多党制に基づくハンガリー(第三)共和国が成立しました。2004年5雄勝にはEUに加盟しています。ハンガリーではユーロ導入を目指していましたが、財政赤字が削減できないため導入には到らず、現在も独自通貨のハンガリー・フォリントが用いられています。

 昨今のユーロ圏の財政問題をみると、ハンガリーがユーロ導入に到らなかったのはむしろ幸いかもしれません。独自通貨をもち、自国通貨による国債を発行していれば、通貨の下落によって債務は実質的に減少し、交易条件も改善されます。ユーロを導入すると、自国通貨下落によるメリットが享受できず、また西ドイツのような輸出の産業が強く財政的に余裕がある国からの再配分も得られないため、南欧やギリシャのような出口のない状況に陥ってしまいます。

 三つの国の歴史を一度に振り返ったため、前置きが長くなってしまいました。次から今回の短訪記がはじまります。

参考、出典:
*1 薩摩秀登、「物語 チェコの歴史」
*2 薩摩秀登、「図説 チェコとスロヴァキア」
*3 南塚信吾、「図説 ハンガリーの歴史」
*4 ハンナ・アーレント、「全体主義の起原1〜3 新版」


つづく