メアリー・ステュアートの足跡を追って スコットランド2200km走破 ダンスタッフネイジ城2 Dunstaffnage Castle 2 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2018年12月10日公開 独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁 |
スコットランド総目次へ* ダンスタッフネイジ城1 ダンスタッフネイジ城2 ダンスタッフネイジ城3 ダンスタッフネイジ城4 礼拝堂 下がダンスタッフネイジ城です。 ダンスタッフネイジ城 Source:Wikimedia Commons By Anne Burgess, CC BY-SA 2.0, Link ダンスタッフネイジ城の南側ファサード Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0, Link 城の地下は地下牢として使われたと書かれています。他方、城の上層部は、私的な部屋が配置されていたようです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix s8 ◆ダンスタッフネイジ城の庭園 ダンスタッフネイジ城の庭 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix s8 ダンスタッフネイジ城の庭 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix s8 ◆歴史 ダンスタッフネイジの前 城の建設の前は、ダンスタフネネージは、早くても7世紀には、Dun Monaidhとして知られているDal Riatanの本拠地の場所でした。運命の石(Stone of Destiny=Stone of Scone)は、アイルランドから持ち込まれた後、843年にスコーン宮殿に移される前にここに保管されていたと、1612年にJohn Monipennieによって記録されています。 しかし、IonaとDunaddは、Dal RiatanとStrathclydeの王たちとの関係が分かっているので、より可能性が高いと考えられます。2010年に作家のA. J. MortonがEvoniumuはAyrshireのErvineであると特定していましたが、Hector Boece は、伝統的に "Dunstaffnage"と識別されている "Evonium"に保管されていたと記録しています。 ※参考:スクーン(スコーン)の石 マクドゥーガル家 城自体は13世紀の第2四半期に、ローンの領主でSomerledの孫のであるダンカン・マクドゥーガル(Duncan MacDougall)の屋敷として建てられました。彼はまた、1237年にローマに旅し、近くの Ardchattan小修道院を建てた人物でもありました。ダンカンの息子エウェン(Ewen MacDougall)は、1240年代に父親の称号を継承し、マクドゥーガルの影響力を拡大し、自分自身を"King of the Isles(島々の王)"と呼びました。エウェンが城に3つの丸い塔を建て、内部にホールを建設して城を拡張した可能性があります。 ※参考 ブランダーの山道での戦争 The Battle of Pass of Brander: スコットランドにおけるブランダーの戦いは、スコットランド独立戦争として知られているより大きな戦いの一部を形成していますが、また、この戦いは、平行してまた重複して発生していたブルースとバリオール派の間の内戦の大部分を占めています。 それは、アーガイルのマクドゥーガルに対するロバート・ザ・ブルース王の勝利でした。マクドゥーガルはジョン・コミンの血族で有り、「赤いコミン」としても知られていましたが、ブルースとその支持者によって1306年に殺害されました。資料からは戦争の時期がいつなのかはっきりわかりませんが、1308年から1309年頃ではないかと指摘されており、なkでも、1308年の夏の終わりの可能性が高いと思われます。トラクエア(Traquair)の日付は1308年8月です。 王室(国王)の要塞 今日では、王家の領地であるダンスタッフネージは数人の番人によって管理されていました。 ジェームズ1世はインヴァロキーの戦い(Battle of Inverlochy)に続いて、1431年に敵が城の中に隠れている城を奪いました。1455年、ジェームス・ダグラス(ダグラス伯爵9世)が、島の領主であるジョン・マクドゥーガルとの交渉に向かう途中、ダンスタフネネージに滞在していました。これはダグラスの権力に対するジェイムズ2世の攻撃に続き、ウェストミンスター・アードトニシュ条約(Treaty of Westminster-Ardtornish)の署名につながりました。 後の番人で、アラン・マクドゥーガルのライバルであったローンのジョン・スチュワートは、、1463年にダンスタフネネージュ礼拝堂で結婚するため出かける途中で、彼の支持者に刺されましたが、彼は誓いを立てるのに十分長く生き伸びました。MacDougallは城を奪取したにも拘わらず、ジェームス3世によって追放され、ダンスタフネージュは、1470年にアーガイルの第1伯爵であるコリン・キャンベル(Colin Campbell)に下賜されました。 「ダンスタッフネイジ城3」につづきます スコットランド総目次へ* |